二人の対比が楽しめた《森優貴/金森穣 Double Bill》

山野博大(舞踊評論家)

 創立16年目のNoismは、財政的支援を行う新潟市との関わりを、より明らかにするために名称を「Noism Company Niigata(ノイズム・カンパニー・ニイガタ)」と改めた。そのNoism1+Noism0《森優貴/金森穣 Double Bill》公演を、彩の国さいたま芸術劇場大ホールで見た。

 金森穣演出振付 の《シネマトダンス―3つの小品》は、舞踊表現とその映像表現という、まったく異次元のものを掛け合わせる試みだった。現れた瞬間に消えてしまう舞台芸術にとって映像は、記録して後で見るために使うことのできるたいへん便利な「技術」だ。また舞踊表現を援けるために映像を使う試みがこれまでにもいろいろと行われてきたが、そのほとんどは舞踊を援ける「効果」の範囲を超えることはなかった。映像表現の芸術性は、舞踊の世界ではほとんど問題にされてこなかったのだ。しかし金森は、その両者を対等にぶつけ合うことを意図した。

 最初の『クロノスカイロス1』は、バッハの「ハープシコード協奏曲第1番ニ短調」によってNoism1の10人(池ヶ谷奏、ジョフォア・ポプラヴスキー、井本星那、林田海里、チャーリー・リャン、カイ・トミオカ、スティーヴン・クィルダン、鳥羽絢美、西澤真耶、三好綾音)が踊った。舞台中央奥にスクリーンがあり、そこに同時に映像が流れる。列を作り舞台を駆け抜けるダンサーたちの映像がスクリーン上に現れた。それは速度を表示する時間表示とたびたび入れ替わり、人間が動くことによる時間の経過をスリリングに観客に意識させた。舞踊と映像が激しく交錯する瞬間があった。

『クロノスカイロス1』撮影:篠山紀信

 次の『夏の名残のバラ』では、「庭の千草(Last Rose of Summer)」のメロディーが聞こえはじめると、井関佐和子がメークする映像がスクリーンいっぱいに広がる。髪を整え、衣裳を身につけ、からだをほぐしてから、彼女は照明のきらめく場面へと進む。そこで幕が上がると、舞台にはスクリーンの中とまったく同じ情景が広がっていた。井関を撮影するカメラマン(山田勇気)の姿があり、舞台上のスクリーンに彼が撮る彼女の踊りが映った。とつぜん山田がカメラを置いて井関をサポートする。その瞬間に映像がどのように変わって行くかを気にしている自分に気が付いた。井関の姿がいっそう身近に感じられた。

『夏の名残のバラ』撮影:篠山紀信

 最後の『FratresⅡ』は金森穣のソロだった。彼自身が舞台中央に立ち、両手、両足を力強く屈伸させる。その背後で彼の影が動いていた。しかし背後の影が別の動きであることがわかった。空間と時間にしばられている「舞踊」と、空間も時間も自由に超えられる「映像」との違いを、いろいろなところで観客に意識させた金森の《シネマトダンス―3つの小品》は、舞踊の可能性を広げる試みだった。

『FratresII』撮影:篠山紀信

 森優貴振付の『Farben』は、Noismが8年ぶりに招いた外部振付者による作品だ。森はドイツのレーゲンスブルク歌劇場の芸術監督として7年間働いて帰国したばかりなので、海外で進行中の新しい舞踊の傾向を熟知している。同時に彼は、貞松・浜田バレエ団が毎年行う《創作リサイタル》やセルリアンタワーの《伝統と創造シリーズ》などで創作活動を続け、日本の舞踊の持つ独特の感触も理解しており、これまでに『羽の鎖』(2008年初演)、『冬の旅』(2010年初演)などの佳作を残している。

『Farben』撮影:篠山紀信

 帰国後、森は最初の作品となる『Farben』をNoismのために振付けた。いくつもテーブルを置いた舞台。舞台上空にも、テーブルが下がる暗めの空間で、地味な衣裳(衣裳=堂本教子)の12人(井関佐和子、池ヶ谷奏、ジョフォア・ポプラヴスキー、井本星那、林田海里、チャーリー・リャン、カイ・トミオカ、スティーヴン・クィルダン、タイロン・ロビンソン、鳥羽絢美、西澤真耶、三好綾音)が踊る。テーブルをさまざまに使いまわしてパワフルな動きを繰り広げた。このような舞台展開は、Noismのダンサーの得意とするところ。さらに大小のサイズの枠を使って鏡のように見せる。花を入れた花瓶を取り込んだりして、舞台の景色を自在に変えて行く。そのような思いがけない流れの節目を井関佐和子がさりげなくコントロールしていた。

『Farben』撮影:篠山紀信

 金森の作品は細部までしっかりつめて作られている。一方で森の作品はどこまでも出たとこ勝負。成り行きで進む感じがある。そんな対比が楽しめた《森優貴/金森穣 Double Bill》公演だった。

(2020年1月17日/彩の国さいたま芸術劇場大ホール)

言葉を使うことで危険な領域に踏み込んだ劇的舞踊第3作『ラ・バヤデール~幻の国』

山野博大(バレエ批評家)

初出:サポーターズ会報第30号(2017年1月)

 舞台の床に照明を当てて、中央に本舞台、両サイドに花道風の出入りスペースを設定した空間がひろがる。中央に能の道具を思わせる何本かの木材が立つ。老人ムラカミ(貴島豪)が登場して、マランシュ国の偽りの発展とあっという間の滅亡の過程を語りはじめる。Noismの劇的舞踊第三作『ラ・バヤデール~幻の国』は、能と似た作りのオープニング・シーンを用意していた。

 バレエ『バヤデルカ』はプティパの振付、ミンクスの音楽により1877年、サンクトペテルブルクのボリショイ劇場で初演された。これは舞台が古代インドだった。それを平田オリザが架空の帝国の盛衰史として書き改めたのが『ラ・バヤデール~幻の国』だ。言葉を使ってストーリーを進め、その中に踊りの見せ場、音楽の聞かせどころを作るというやり方は、日本古来の能や歌舞伎などの手法をそっくり踏襲したものと言ってよい。

 ヨーロッパで発展したバレエは、言葉を使わないことを原則としているために、歴史をこと細かに語るといったことには不向きだ。バレエ作品が社会の矛盾を鋭く衝くといったことは行われてこなかった。ルイ14世の力で発展したバレエの本拠地であるパリ・オペラ座が、1789年のフランス革命の後も存続できたこと、アンナ女帝の肝いりで始まったロシアのバレエが、1917年に始まった革命の後も変わることなく上演され続けてきたことなどは、バレエが言葉を使わなかったからだったと言ってよい。

 日本でも同様のことがあった。日本が戦争を始めて世界各地へ攻め入った頃、舞踊家たちは軍の慰問にかりだされ、兵隊たちの前で舞踊を披露し、戦意を高揚した。その渦中、日本に帰化して霧島エリ子を名乗ったエリアナ・パヴロバは、1941年に慰問先の中国で病死している。しかし1945年の敗戦後、日本の舞踊家たちは占領軍であるアメリカの兵隊たちの前で踊りを見せるという変わり身の早さを示した。それも言葉を使わなかったからできたことだ。しかしNoismは今回、バレエの中に言葉を使うことで、身分格差、信仰、危険薬物といった、もろもろの問題に関わり、自らの立場を明らかにすることを選んだ。

 ミラン(ニキヤ・井関佐和子)は、カリオン族の踊り子だ。メンガイ族の騎兵隊長バートル(ソロル・中川賢)と愛し合う仲だ。しかしマランシュ族の皇帝は、娘フイシェン(ガムザッティ・たきいみき)の婿にバートルを指名する。ミランに秘かに想いを寄せる大僧正ガルシン(奥野晃士)がからんでくる。平田の脚本は、ミンクスの間に笠松泰洋の作曲をうまく配置した音楽をバックに、プティパの『バヤデルカ』の人間関係をそっくりそのまま再現していた。

 言葉によって状況を、このようにはっきりと示されると、新興国家マランシェの国益優先に蹂躙されるミラン(ニキヤ)とバートル(ソロル)の姿がよりいっそう鮮明に、残酷に見えてくる。バートルとフイシェンの婚約式の場で踊ることを強いられ死を選ぶミラン、麻薬に身を持ち崩して行くバートルの背後に、身分格差がそびえ立っている。

 また国が滅びて行く過程で麻薬の果たした役割などについても、その非人間的な意図が観客に正面から突きつけられる。プティパの『バヤデルカ』の幻影シーンも阿片を吸った男の見る夢であることに変わりはない。しかしプティパの創ったバレエでは美しさを強調して、その背後にあるものを見えなくしている。Noismの『ラ・バヤデール~幻の国』では、ダンサーの動きを新たにして、麻薬による幻覚の中のいかにも頼りなげな浮遊感のようなものを表現し、これを最大の見せ場に創り上げた。役者たちの演ずる厳しい状況描写の間に、ダンサーたちの踊りを収めて、ことの成り行きをより明らかにしているのだ。井関佐和子、中川賢らのダンス、たきいみき、奥野晃士、貴島豪らの芝居がみごとに噛み合った舞台からは、プティパのバレエでは感じられなかった非人間的な現実の厳しさがひしひしと迫ってきた。

サポーターズ会報第30号より

(2016年7月2日/KAAT神奈川芸術劇場)

『ASU~不可視への献身』の衝撃

山野博大(舞踊評論家)

初出:サポーターズ会報第27号(2015年6月)

 Noism1の横浜公演で金森穣の新作『ASU~不可視への献身』を見た。この作品は、*前年12月19日に本拠地のりゅーとぴあで初演したものだ。第1部が「Training Piece」、第2部が「ASU」という2部構成だった。

【註】*「前年」=2014年

 「Training Piece」は井関佐和子をはじめとする11人のダンサーが踊った。幕が開くと、全員が明るい舞台に等間隔で寝ている状態が見えた。ひとりひとりのダンサーが個々のシートに寝ているような、照明の効果があり、これはどこかのスタジオでのレッスンの風景のようだった。寝たままゆっくりと両腕を動かすところから、トレーニングが始まった。バレエのバー・レッスンは直立した肉体に対するトレーニングだが、ここではそれを寝たままの状態で行い、そこへさらに新しい要素を加えた。後半は白っぽい上着を脱いで、カラフルな衣装(ISSEY MIYAKE所属の宮前義之のデザイン)になり、フロアー全体を使ってのトレーニングとなった。

 ダンスのトレーニング・システムは、作品で使われるおおよその動きを予想した、そのダンス固有のテクニックの集大成であり、普通それは観客に見せない。しかし、ここではまずNoismダンスの種明かしが行われたかっこうだった。これと同様のことを、かつて伊藤道郎がやっていたことを思い出した。彼は『テン・ジェスチャー』という伊藤舞踊のエッセンスを作品化していて、それをダンサーのトレーニングに使うばかりか、しばしば観客にも披露した。

 第2部の「ASU」は一転して暗い舞台だった。灯火を掲げたダンサー9人が登場した。黒を基調とした、個々別々の衣裳をまとい、前半のはなやいだ雰囲気と一線を画した。舞台奥には木材を加工して作った大きな樹木のようなもの(木工美術=近藤正樹)が寝かされていた。舞台には、Bolot Bairyshevの「Kai of Altai/Alas」が鳴っていた。これはアルタイ共和国に伝わるカイ(喉歌)という種類の音楽だそうだが、私には太棹の三味線を伴奏に太夫が語る、日本の義太夫のようにも聞こえた。

 しだいに明るくなった舞台で、9人のダンサーたちが動きはじめた。その動きは今まで見たNoismのものと、大きく異なった。そこには今の時代の日常の人間関係から、歌舞伎や文楽などに残る義理人情の世界まで、いろいろなものが混ざり合っていたと、私は直感的に受け取った。日本では、20世紀初頭に西欧の動きを取り入れて「洋舞」とか、「現代舞踊」と称するものを生みだし、それを育ててきた。しかし「ASU」はそれらとはまったく異なる別の世界だった。

 戦前からの石井漠、高田せい子、江口隆哉、檜健次ら日本の現代舞踊の始祖たちは、とぼしい海外からの情報を足掛かりとして、そこに日本古来の動きを加味して「日本の現代舞踊」を作った。それは敗戦を契機としてアメリカからもたらされたマーサ・グラーム、ホセ・リモン、マース・カニングハムらのアメリカン・スタイルのモダンダンスに一蹴されたかに見えた。しかしバレエやコンテンポラリー・ダンス、そして日本古来の舞台芸能などと協調しながら、この日本に今もしぶとく生き続けている。

 舞台ではカイ(喉歌)の音が鳴り続け、近藤正樹の樹木のオブジェが大地に立った。そこで宮前義之の、いかにも動きやすそうな衣裳をまとったダンサーたちが金森穣の創り出した動きに専念した。彼は今の時代の西欧のダンスを習得して帰国し、新潟でNoismを立ち上げた。そこで西欧のダンス・カンパニーと同様の公演の形態を日本の土地で実現させようと、創作にはげんだ。彼の目は世界へ(西欧へ)と向いていた。

 しかしこんどの『ASU~不可視への献身』で、彼の目は別の方角を見ていた。とつじょ彼の中から「西欧ではないX」が噴出したのだ。現代の日本は、アジアに位置しながら西欧のものを生活の中に大量に取り入れ、アジアよりは欧米に近い日常を作り出している。昔から日本人は海の外からやってくるものに異常な関心を示し、いろいろなものをどんどん取り込んで「日本」を作ってきた。しかしいつも向こうのものをそのまま取り込むことはしなかった。たとえば、紀元前に北部インドで釈迦がはじめた仏教は6世紀頃に日本へ伝わったが、それから1500年が経ってみると、すっかり日本化して、元のものとはだいぶ様子が違う。また政治、経済のシステムにしても、海外のものを取り入れたはずにもかかわらず向こうのものと同じと言えない状況であることは周知の事実だ。それと同じようなことがいろいろな分野で起こり、今の「日本」が出来上がっている。

 かつて日本は、わずかな情報をもとに「洋舞」を作りだした。しかし世界の情報がリアルタイムで入ってくる現代にあっては、向こうのやり方をそのまま持ち込めば、それでよし。「日本らしさ」は、そこに自然に現われてくるものという考えが一般的となった。金森穣も、今まではこの「自然ににじみ出る日本らしさ」を作品の柱にしてきたと思う。それがこんどの『ASU~不可視への献身』で一変した。長い時間をかけて日本に蓄積した「動き」のニュアンスとでも言うべきものに焦点をあて、それそのものを作品化したのだ。

 私はこれを見る直前に、国立劇場で四国の土佐に伝わる古神楽の舞台再現に立ち会っていた。そこでは日本芸能の古層が随所に姿をあらわした。それを見たのと同じ感覚を、直後に金森作品から受けるとは思ってもみなかった。彼は日本の歴史の古くからの蓄積物に手をつけてしまった。これ以後は「自然ににじみ出る日本らしさ」だけで作品を作れない時代となるだろう。とんでもないものを見てしまったという思いが心中に広がった。

サポーターズ会報第27号より

(2015年1月24日/KAAT神奈川芸術劇場ホール)

何回も見なければいけない『マッチ売りの話』+『passacaglia』

山野博大(舞踊評論家)

初出:サポーターズ会報第31号(2017年5月

 Noismが《近代童話劇シリーズ》の第二作『マッチ売りの話』を『passacaglia』と共に初演した。2017年1月20日に本拠地りゅーとぴあのスタジオBで初日の幕を開け、2月9日からは、彩の国さいたま芸術劇場小ホールで上演した。新潟に戻っての再上演の後にはルーマニア公演の予定もある。日本における創作バレエの初演としては、異例の上演回数だ。

 『マッチ売りの話』も金森穣の演出・振付を、井関佐和子らNoism1の主力メンバーが踊る中編だった。アンデルセンの童話と別役実が1966年に早稲田小劇場のために書き岸田国士戯曲賞を受賞した不条理劇『マッチ売りの少女』の両方が、金森の舞踊台本の背景となっていた。

 《近代童話劇シリーズ》は、第一作の『箱入り娘』もそうだったが、子どもに語って聞かせるとすぐに理解してもらえる童話の舞踊化である『眠れる森の美女』『シンデレラ』『白雪姫』『オンディーヌ』などのようには出来ていない。『マッチ売りの話』も別役の不条理テイストで濃厚に色づけされていた。論理的に説明したり理解したりしにくい状況の中で、登場人物が意味不明に近い出会いや動きを繰り返した。公演パンフレットに書かれた配役(それぞれの年齢が細かく指定されている)の横に「疑問符の相関性」という但し書きがあり、そこに「少女は老人夫婦の孫である?」「少女は女の20年前の姿である?」「女は娼婦の20年後の姿?」などの「問いかけ」が列記されている。これを読むと、舞台上で演じられている出来事の不可解さがいっそう増すことになる。

 ストーリーの展開がよく理解できる舞台や小説が、じつは何が起こるか先のことは何も判らない世の中の現実と似ても似つかない絵空事であることを、ベケットの『ゴドーを待ちながら』やイヨネスコの『犀』、別役実の諸作品に接してしまった私たちは知っている。それを舞踊でやっているのが金森穣の《近代童話劇シリーズ》なのだ。

 まず巨大なスカートの上から客席を見下ろす精霊(井関佐和子)の姿を見せる。次いで出演者全員が面をかぶり、凝った作りの衣裳をまとって細かくからだをふるわせたりする動きを見せ、個々の人物を表す。そこで提示されたドラマの断片のひとつひとつは、踊りとして緻密に仕上げられていた。「童話」のバレエ化だったら、かわいそうな少女に焦点があたるはずなのだが、いくら待ってもそのようなことにはならなかった。

 精霊が登場して、舞台に置かれた装置を片づけるように次々と指示を与えると、舞台上はきれいさっぱり。ダンサーたちも面を外し衣裳を変え、抽象的な動きによる『passacaglia』を踊る。前半のドラマの断片を連ねたような『マッチ売りの話』とはまったく別の世界が広がった。観客は、ここで初めて「舞踊」を見たという安心感に浸ることができたのではないだろうか。それと同時に前半の舞台の不条理性への理解が心の中にじわじわと広がってくることを感じたに違いない。

 しかし一回見ただけでは、この実感を素直に受け入れる心境にはなかなかなれないことも事実。『ゴドーを待ちながら』は、何度も見ているうちに、だんだん何事も起こらない舞台を平気で見て、楽しめるようになる。『マッチ売りの話』+『passacaglia』では、それと同じような或る種の「慣れ」が必要だ。何回も何回も見るうちに、不条理な現実世界に立ち向かえる勇気が身内に湧き起こってくると思う。

サポーターズ会報第31号より

(彩の国さいたま芸術劇場小ホール)

井関佐和子が踊った『Liebestod-愛の死』

山野博大(バレエ評論家)

初出:サポーターズ会報第32号(2017年12月)

 2017年5月26日にりゅーとぴあで初演された金森穣の新作『Liebestod-愛の死』を、6月2日に彩の国さいたま芸術劇場で見た。これはワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』をベースにして創られた、男女二人だけの踊りだ。井関佐和子と吉﨑裕哉が踊った。金森はこのデュエットが『トリスタンとイゾルデ』の舞踊化であるとは言っていない。しかし見る側が、ワーグナーの音楽を聞いてかってに想像をふくらませることを予測して振付けたに違いないと私は思った。

 妖しい「トリスタン和音」が彩の国さいたま芸術劇場の大空間に響き渡る。タッパの高い舞台の背後には、滑らかで重厚な質感の幕が丈高く吊られている。この幕が物語の展開に重要な役割を果たす。舞台には、コーンウォールを治めるマルケ王に嫁ぐために船に乗るアイルランドの王女イゾルデの姿があった。王の甥であるトリスタンが彼女の警固役としてつき従っているのだが、この二人は恋に落ちてしまう。イゾルデは、トリスタンと共に死ぬことを決意して、侍女に毒薬を持ってくることを命ずる。ところが侍女の持ってきたのは「愛の薬」だった。船がコーンウォールに着くまでに、二人の愛はいっそう深まっていた。

 マルケ王に嫁いだイゾルデのところへ、王が狩に出た隙をねらってトリスタンが忍んでくる。イゾルデと愛を語り合うところへ王が……。王の忠臣メロートがトリスタンに斬りかかる。トリスタンは自ら刀を落とし、メロートに斬られる。このあたりはほとんどトリスタンひとりの演技で処理されている。瀕死のトリスタンは背景の幕の下に転がされ消えて行く。

 残されたイゾルデの嘆きの踊りとなる。井関が背後に高く吊られた幕を手でたたき、幕を波打たせると悲しみの輪が幾重にも広がり、それが嘆きの感情を表した。イゾルデが前に進み出て死の決意を示す。その直後に背後の幕が落ちて彼女の姿を覆い隠す。その幕の下で二人が立ち上がる気配があり、あの世での愛の成就を暗示して作品は終わる。井関の渾身の演技が深く心に残った。

 かつては、すべての振付者がバレリーナのことを目立たせるために、あれこれと演出を考え奉仕するのが常だった。しかし、しだいに振付者の地位が高まり、作品の創造ということに舞台の重点が移ってきた。それに伴って、近年ではバレリーナの方が振付者のためにがんばることが普通になっている。

 井関の踊る金森作品を私はずっと見てきたが、常に井関は金森の作品の完成のために力のすべてを注ぎ込んでいた。彼女は自身の舞踊生活について「Noism井関佐和子 未知なる道」という本(2014年・平凡社刊)を出しているが、その中でも金森の作品のためにどうしたら役に立てるかということを、繰り返し書いている。例えば「舞台の上では“井関佐和子”ではなく、誰も見たことのない“カルメン”を見せたい」というように……。

 しかし『Liebestod-愛の死』における金森は、バレリーナ井関佐和子をまず観客にアピールすることを第一と考えて作品に取り組んでいたと私は思う。井関の方は今までと変わらず“井関佐和子”ではなく、誰も見たことのない“イゾルデ”を見せようとがんばっていた。その結果は、バレリーナと振付者の力が合体して1+1=2以上の大きな結果をもたらすことになった。

 金森が、この作品を『トリスタンとイゾルデ』のバレエ化だと言わなかったのは、井関が“井関佐和子”のままで踊ることを望んでいたからではないか。全体の構成、細部の振付も、イゾルデの感情描写にウエイトをかける一方、トリスタンの方は背景と一体化して見せるという、明らかに均衡を失した配分がなされていた。『Liebestod-愛の死』は、井関佐和子のイゾルデでしか見てはいけない愛のデュエットだったのだ。

サポーターズ会報第32号より

(2017年6月2日/彩の国さいたま芸術劇場 大ホール)

白鳥は何を夢見る

Noism1 『NINA』 『The Dream of the Swan』

山野博大(舞踊評論家)

初出:サポーターズ会報第33号(2018年4月)

 Noism1の埼玉公演で『NINA』を見た。この作品は、2005年の初演から金森穣の代表作と云われ、国内外で数多く上演されてきた。私は、これを見るのが初めてだったので、期待して客席についた。

 ところが幕があいて最初の作品は、井関佐和子の踊る金森の最新作『The Dream of the Swan』だった。舞台にはベッドが置かれ、そこに井関がひとり寝ているという意外なシチュエーションに、心が揺れた。病院でよく見るようなベッドの上には、室内灯がさがり、やや狭い空間の印象。どう見てもバレリーナが寝ている優雅な部屋とは思えない。そこでの井関の動きは、寝ていることの苦しさから、なんとか脱出しようといった「もがき」から始まった。細かな動きを積み重ね、ついにベッドの外へ。彼女の動きはますます加速され、ついには狂おしいまでに高調し、ベッドの周辺にまで広がったが、それはすべて 夢の中のことなのだ。すべては、バレリーナを夢見る少女の生態の精密な描写だった(もしかすると怪我で動けないダンサーの・・・)。井関の迫真の演技が、見る者の心を鋭くえぐった。しかしそこに描かれていたのは、どこかにはなやかささえ感じさせる、よくある普通の情景だった。

 バレリーナが踊るソロ作品は、意外なことにほとんど無い。アンナ・パヴロワが踊ったフォーキンの名作『瀕死の白鳥』ぐらいしか思い出せない。バレエの世界で女性がソロを踊る時には、グラン・パ・ド・ドゥのバリエーションが選ばれることが多い。そんなバレエ界に出現した『The Dream of the Swan』は今後たびたび見たい作品のひとつになる可能性を秘めている。

 『NINA-物質化する生け贄』は今から10年以上前に発表された人工の知能を備えたロボットの反乱を描いたようにも見える問題作だ。冒頭の大音響で観客を別の世界へ隔離して、以後の衝撃的な展開を語りつぐ。その前に『The Dream of the Swan』を置いて、異界への転異の衝撃を和らげた金森の配慮には意味があった。今後、このふたつの作品は同時に上演されるようになるのかもしれない。

 初めて見た『NINA』は、期待通りのインパクトのある作品だった。Noism1のダンサーたちの、感情を交えない動きの不気味な展開は、我々の生きる未来の風景だった。彼らの好演を恐々見終わった後、『The Dream of the Swan』の人間感情の横溢するどこか危うい世界をもう一度懐かしく思い出すことになった。

サポーターズ会報第33号より

(2018年2月18日/彩の国さいたま芸術劇場 大ホール)

シアター・オリンピックス:Noism0 『still/speed/silence』 9/20の回(サポーター 公演感想) 

2019年9月20日(金)、富山県南砺市利賀で行われているシアター・オリンピックスを観に行きました。

演目はNoism0『still/speed/silence』です。

富山県はおろか北陸地方に来るのも初めてです。利賀は山村で交通アクセスが良くなく、送迎はあるものの、この公演後は帰りの便がないため、10数年ぶりにペーパードライバーを脱出し、レンタカーで向かいました。とりあえず無事に帰れてほっとしました。

少し早く着いたので、グルメ館で昼食をいただき(ビーフストロガノフが美味しかった!)、近くの天竺温泉へ立ち寄り湯をしました。

「天竺」といえば西遊記で三蔵法師一行が目指した場所。また、今回は行けませんでしたが、村内には瞑想の郷もあり、この地のパワーを想像させます。

わずか5時間ほどの滞在でしたが、トンボやバッタなどの虫たち・ヘビ・大きい鳥(トンビ?)・イノシシ(の寝息)、半裸で川遊びをする外国人、に出会い盛りだくさんでした。

さて、前置きばかり長くなりましたが、Noism0『still/speed/silence』。

配布されたプログラムノートによると、作曲家の原田敬子さんには作品のタイトル(still/speed/silence)を伝えた上での委嘱だったそうです。りゅーとぴあの事業計画にも「3S(仮)」とあるのを見かけました。

※原田さんも書いていましたが、この「S」は鈴木忠志氏へのオマージュであることは間違いないでしょう。

ということで私は勝手に、鈴木忠志氏に金森さん井関さんの現在地を観せるような作品を想像し、「still/speed/silence」はとても金森さんらしい3語だ、などと期待していたのですが、期待は良い意味で裏切られました!目の前で絡み合う2人は妖しさ満点。人間ではない何かを感じさせます。

やはり原田さんの曲のテンションの高さが、この作品の方向性を決めたのだろう、と思いました。

また利賀山房のみならず芸術公園、村自体から感じるパワーにも音楽・舞踊が呼応しているような不思議な感覚でした。

観た直後から「もう一度観たい」「新潟や東京でも観たい」と思いましたが、やはりこの作品は利賀ならでは、なのかもしれません。

利賀で観ることができて本当に良かったと思いました。

(かずぼ)

勝手に命名「『ロミジュリ(複)』ロザラインは果たしてロミオが好きだったのか問題」(サポーター 公演感想)

☆劇的舞踊vol.4 『ROMEO & JULIETS』(新潟・富山・静岡・埼玉)

〇はじめに:  Noismの新展開を告げる会見を待ち、心中穏やかならざる今日この頃ですが、前回掲載の山野博大さんによる『ROMEO & JULIETS』批評繋がりで、今回アップさせていただきますのは、最初、twitterに連投し、次いで、このブログの記事「渾身の熱演が大きな感動を呼んだ『ロミジュリ(複)』大千秋楽(@埼玉)」(2018/9/17)のコメント欄にまとめて再掲したものに更に加筆修正を施したものです。各劇場に追いかけて観た、曖昧さのない「迷宮」、『ROMEO & JULIETS』。その「迷宮」と格闘した極私的な記録に過ぎないものではありますが、この時期、皆さまがNoismのこの「過去作」を思い出し、再びその豊饒さに浸るきっかけにでもなりましたら望外の喜びです。

①当初、ロミオに好かれていた時でさえ、その手をピシャリと打っていたというのに、やがて、彼のジュリエッツへの心変わりに見舞われて後は、制御不能に陥り、壊れたように踊る、ロザライン。自分から離れていくロミオに耐えられなかっただけとは考えられまいか。

②他人を愛することができたり、愛のために死ぬことができたりする「人」という存在への叶わぬ憧れを抱いたアンドロイドかもと。とても穿った見方ながら、しかし、そう思えてならないのです。

③「人」よりも「完全性」に近い存在として、ロレンス医師の寵愛のもとにあることに飽きたらなくなり、或いは満たされなくなっただけなのか、と。それもこれもバルコニーから「不完全な存在」に過ぎないジュリエッツが一度は自分を愛したロミオを相手に、その「生」を迸らせている姿を見てしまったために、とか。

④というのも、全く「生気」から程遠い目をしたロザラインには、愛ほど似つかわしくないものもなかろうから。

⑤ラストに至り、ロザラインがロミオの車椅子を押して駆け回る場面はどこかぎこちなく、真実っぽさが希薄なように映ずるのだし、ベッドの上でロミオに覆い被さって、「うっうっうっ」とばかりに3度嗚咽する仕草に関しても、なにやらあざとさが付きまとう感じで、心を持たないアンドロイドの「限界」を表出するものではなかっただろうか。

⑥アンドロイドであること=(古びて打ち捨てられたり、取り換えられたりしてしまう迄は)寵愛をまとう対象としてある筈で、それ故、その身の境遇とは相いれないロミオの心変わりを許すべくもなく、「愛」とは別にロミオの気持ちを取り戻したかっただけではないのか。「愛し愛され会いたいけれど…」で見せる戯画的で大袈裟な踊りからは愛の真実らしさは露ほども感じられず、単なる制御不能に陥った様子が見て取れるのみです。

⑦更には、公演期間中に2度差し替えられた手紙を読むロザラインの映像。 最終的に選択されたのは読み終えた手紙が両手からするりと落ちるというもの。頓着することもなく、手紙が手から落ちるに任せるロザラインは蒸留水を飲んではいないのだから、「42時間目覚めない」存在ではなく、ロミオが己の刃で果てる前に身を起こすことは普通に可能。

⑧すると、何が見えてくるか。それは心変わりをしたロミオを金輪際、ジュリエッツに渡すことなく、取り返すこと。もともと、アンドロイドのロザラインにとっては儚い「命」など、その意味するところも窺い知ることすら出来ぬ代物に過ぎず、ただ、「人」がそうした「命」なるものを賭けて誰かを愛する姿に対する憧れしかなかったのではないか。

⑨「愛」を表象するかに思える車椅子を押しての周回も、アラベスク然として車椅子に身を預ける行為も、ただジュリエッツをなぞって真似しただけの陳腐さが感じられはしなかったか。そのどこにもロミオなど不在で構わなかったのではないか。そう解するのでなければ、ロミオが自ら命を絶つ迄静かに待つなどあり得ぬ筈ではないか。

⑩ロレンス医師のもとを去るのは、死と無縁のまま、寵愛を永劫受け続けることに飽きたからに他ならず、彼女の関心の全ては、思うようにならずに、あれこれ思い悩みつつ、死すべき「生」を生きている「人」という不完全な存在の不可思議さに向かっていたのであって、決してロミオに向かっていたのではあるまい。

⑪というのも、たとえ、ロザラインが起き上がるのが、ロミオが自ら果てるより前だったにせよ、蒸留水を飲んだだけのジュリエッツが蘇生することはとうに承知していたのであるから、ロミオが生きたままならば自分が選ばれることのない道理は端から理解していた筈。ふたりの「生」が流れる時間を止める必要があったのだと。

⑫心を持たないゆえ、愛することはなく、更に寵愛にも飽きたなら…。加えて、死すべき運命になく、およそ死ねないのなら…。ロザラインに残された一択は、「命」を懸けて人を愛する身振りをなぞることでしかあるまい。それがぴたり重なる一致点は「憧れつつ死んでいく(=壊れていく)とき」に訪れるのであり、そこで『Liebestod ―愛の死』の主題とも重なり合う。

⑬これらは全て「アンドロイドのロザラインは蒸留水を飲んだのか問題」というふうにも言い換え可能でしょうが(笑)、答えは明白なうえ、蒸留水自体がロザライン相手にその効能を発揮するとは考えられないため、これはそもそも「問題」たる性格を微塵も備えていないでしょう。

⑭掠め取った手紙を自分のところで止めたロザラインには、追放の憂き目にあい、戻れば死が待つ身のロミオが、起き上がらないジュリエッツを前にしたならば、絶望のあまり、自らも命を絶つという確信があったものと思われる。そのうえで、ロミオが自ら命を絶つまで不動を決め込んでいたのに違いない。

⑮ラスト、(公演期間中、客席から愛用の単眼鏡を使ってガン見を繰り返したのですが、)ロミオの亡骸と共に奈落へ落ちるときに至っても、ロザラインの両目は、「心」を持ってしまったアンドロイドのそれではなく、冒頭から終始変わらぬ無表情さを宿すのみ。とすると、あの行為すらディストピアからのある種の離脱を表象するものとは考え難い。

⑯この舞台でディストピアが提示されていたとするなら、果たしてそれはどこか?間違っても「病棟」ではない。監視下にあってなお、愛する自由も、憎む自由も、なんなら絶望する自由もあり得たのだから。本当のディストピアが暗示されるのは言うまでもなくラスト。死ぬことすら、なぞられた身振りに過ぎないとしたら、そこには一切の自由は存しないのだから。

⑰そう考える根拠。舞台進行の流れとはいえ、もう3度目にもなる「落下」は、それを見詰める観客の目に対して既に衝撃を与えることはない。単に、そうなる運命でしかないのだ。舞台上、他の者たちが呆然とするのは、呆然とする「自由」の行使ではないのか。生きる上で、一切の高揚から程遠い「生」を生きざるを得ない存在こそがディストピアを暗示するだろう。

⑱(twitterの字数制限から)「運命」としてしまったものの、アンドロイドであるロザラインに対してその語は似つかわしいものではなく、ならば、「プログラム」ではどうか、と。もともと自らには搭載されていない「高揚」機能への憧憬が、バルコニーのジュリエッツを眺めてしまって以降の彼女を駆り立てた動因ではないか。

⑲更に根本的な問題。「ロザラインは(無事)死ねるのか問題」或いは「奈落問題」。マキューシオ、ティボルト、ロミオにとっての「奈落」とロザラインにとっての「奈落」をどう見ればよいのか?そして、そもそも、病棟で患者たちが演じる設定であるなら、先の3人の死すら、我々が知る「生物の死」と同定し得るのか?

⑳それはまた、一度たりとも「奈落」を覗き込んでいない唯一の存在がロザラインであることから、「果たしてロザラインには奈落は存在するのか問題」としてもよいのかもしれない。「人」にあって、その存在と同時に生じ、常にその存在を根本から脅かさずにはおかない「死の恐怖」。「奈落」は「死」そのものではなく、その「恐怖」の可視化ではないのか。すると、ロザラインには「奈落」はあり得ず、心変わりから自らの許を去ったロミオを相手に「愛」を模倣し、そのうえ、「愛」同様に縁遠い感覚である他ない「死の恐怖」も実感してみたかった、それだけなのではなかったか。

これらが私の目に映じた『ロミジュリ(複)』であって、ロザライン界隈には色恋やロマンスといった要素など皆無だったというのが私の結論となります。

(shin)

『ROMEO & JULIETS』、世界に誇るべき新バージョンの誕生

山野博大(舞踊評論家)

初出:サポーターズ会報第35号(2019年1月)

 新潟市の公共劇場りゅーとぴあの専属舞踊団Noism1が『ROMEO & JULIETS』を上演した。この振付を担当した金森穣は、最近のコンテンポラリー作品が複雑な動きの連鎖にこだわり過ぎ、「物語」を劇的に語るおもしろさから離れる傾向にあることを懸念したようだ。観客が難しいステップの成り行きなどを気にかけずに、舞台展開を気楽に楽しめるようにと「劇的舞踊」を企図した。そして2010年の『ホフマン物語』を皮切りに、2014年の『カルメン』、2016年の『ラ・バヤデール―幻の国』を順次発表して大きな反響を得た。その第4弾が『ROMEO & JULIETS』なのだ。これはシェイクスピアの書いた悲劇「ロミオとジュリエット」の舞踊化のはずだが、タイトルをよく見るとジュリエットが複数表示になっている。

 バレエ・ファンにはおなじみの、プロコフィエフ作曲の序曲が流れ、幕が開いた。シェイクスピアの書いた冒頭の台詞(日本語訳)が朗々と語られ、その主要部分はスクリーンに文字となって映し出された。ダンサーたちが現れると、その衣裳が長めの白衣であることに気付く。これは病院の眺めではないか。と思ううちにロミオ(武石守正)が車椅子に乗って登場。ジュリエットは複数の女性患者が……。舞台には、半透明のガラスをはめた縦長の衝立がいくつも並び、それをてきぎ移動させることで場面が変った。これは、白い壁とガラスの障壁で仕切られた病院の普通の眺めだった。冒頭でシェイクスピアの言葉を示したスクリーンには、舞台上のあちこちの様子がランダムに映され、病院内の監視モニターのように見えた。

 両家の壮絶な対決シーンが始まり、観客はあっという間にシェイクスピアの世界に引き込まれた。ジュリエット役の浅海侑加、鳥羽絢美、西岡ひなの、井本星那、池ヶ谷奏の5人がさまざまな現れ方で場面に関わった。キャピュレット家の婚約披露の宴会での、ロミオとジュリエットの出会いは、群舞の中にパリス(三島景太)とジュリエットの位置を微妙にずらした踊りを設定し、ロミオとの偶然の触れ合いの機会をこしらえた。バルコニー・シーンはジュリエットの映像を、高い位置のスクリーンに映して二人の位置関係を示しつつ、愛が急速に深まる様子をたっぷりと描いた。さらに、ティボルト(中川賢)とマキューシオ(チャン・シャンユー)の決闘シーン、それに続くティボルトとロミオの死闘が、スリリングに設定され、観客はそれらが病院の中の患者同士の出来事であることを、しばし忘れた。

 後半冒頭に金森の長いソロがあった。金森は病院の医師で患者全体をコントロールする立場にある。物語の上ではロレンスの役を演じてジュリエットに秘薬を与えるので、このソロには彼が全体を仕切る張本人であることを示す意味があったかもしれない。井関佐和子は、ロザラインと看護師の2役を演じてひんぱんに物語の流れに関わり、ダンスの見せ場をはなやかに盛り立てた。最後の墓場のシーンでは、舞台中央のベッドに誰かが横たわっている。そこへロミオが現れて二人の死の場面となる。どうやら先に横たわっていたのは井関が演ずるロザライン(または看護師)だったらしい。それを見た観客サイドは、シェイクスピアの元のストーリーを思い出して両家の和解を想像するなど、つい先を急ぎがちだ。しかしよく考えてみると、ここにロザラインが登場するのは「異常」ではないか。井関の演ずる看護師が、前の場面でアンドロイド風の動きをしていたことなどを思い返すうちに、これはシェイクスピアの芝居の最終シーンではなく、どうやら病院の一風景らしいと気付く。舞台には患者たちの何気ない日常がもどっていた。

 プロコフィエフの音楽でラブロフスキーやクランコらが振付けた「ロミオとジュリエット」が、シェイクスピアの原作を忠実に再現したものであることを我々は知っている。病院の中という状況設定以外は、展開のポイントをまったく変えることなく、金森も自分の『ROMEO & JULIETS』を作った。彼の「劇的舞踊」は、観客の心の中にあるシェイクスピア原作の記憶を刺激して、別に設定した状況に同化させ、そこに新しいダンスの場面をふんだんに織り込むことで成り立つ「舞踊作品」だった。

 病院という閉ざされた世界で、名作バレエのストーリーを再現した例としては、マッツ・エック振付の精神病院内の『ジゼル』(1982年作)がある。金森の『ROMEO & JULIETS』は、無理のないストーリー展開、要所に置かれたダンスのおもしろさ、音楽、舞台美術の的確な運用などを備えており、まさに劇的な出来栄え。世界に誇るべき病院版『ロミオとジュリエット』の誕生だった。

サポーターズ会報第35号より

(2018年9月14日/彩の国さいたま芸術劇場大ホール)

Noism《15周年記念公演》で『Mirroring Memories―それは尊き光のごとく』 『Fratres I』を見る

山野博大(舞踊評論家)

 Noismの《15周年記念公演》が、『Mirroring Memories―それは尊き光のごとく』と『Fratres I』の2作品により行われた。どちらも金森穣の振付だ。

 『Mirroring Memories』は、昨年4月《上野の森バレエホリデイ2018》Noism1 特別公演で初演したものの再演。初演の会場は、東京文化会館小ホールだったが、今回はりゅーとぴあに続き、東京のめぐろパーシモンホールという開放感を伴う明るい感じの空間での上演だった。 私は「めぐろ」公演を見た。天井の高い石造りの荘重な雰囲気を漂わせた上野から移ったことで、舞台の印象が大きく変わった。ドアーサイズの鏡12枚(上野では10枚だった)を横に並べ、その半透明の鏡の前と後にあるものを同時に見せる仕掛の中で、彼がこれまでに作ったさまざまな物語舞踊の見せ場を次々と並べた。全体の流れは初演とだいたい同じだったが、観客が客席から鏡の列を眺める角度の違い、鏡の前に広がる空間の大きさなどが「めぐろ」の観客をよりいっそう作品の奥へと引き込むことになった。

 微妙な角度で並べられた鏡のひとつひとつに、その前で踊る者の後姿が少しずつ違って映る。ソロであっても、その背後に12人分の動きが出現する光景は、見る者にある種の快感をもたらす。そのような空間での冒頭の金森穣のソロは、ローザンヌのベジャールのアトリエで、彼が振付を習った当時を振り返るシーン。金森は、師の舞踊劇創作の手法を独自に発展させて、作品を創り続けてきたのであり、その初心を改めて観客に示したのだ。金森のしっかりと体幹を鍛えた肉体から送り出される舞踊表現は、ベジャールへの想いをストレートに伝えるものだった。

 『Mirroring Memories』は、彼がこれまでに作ってきた作品のハイライトシーンをいろいろと並べて見せたものであり、前に見た時とほぼ同様の進行だった。しかし個々の場面の印象はかなり変わっていた。再演の舞台を見る観客には、その作品に対する「慣れ」が働き、理解度が増す。作品は再演されるごとに、作者と観客との距離感を縮めて行く。今回はその「慣れ」に劇場の構造の違い、そしてNoism全体の努力の積み重ねが加わったことで、金森舞踊の核心がよりいっそう明らかになった。

 やはり「慣れ」の効果は大きい。再演を見る観客はより深く場面に入り込んで、その踊りのひとつひとつをゆっくりと楽しむことができるようになる。しかし今回は、それ以上にダンサーひとりひとりが振付をしっかりと理解して、作品とみごとに一体化したところが、初演との大きな違いだった。『マッチ売りの話』の中でマッチを次々と点火させながら息絶えたかのような娘を前にした金森穣と井関佐和子の踊りの、大きく全体を包み込んだ感動的な愛情表現をはじめ、その他の場面でも個々のダンサーの肉体の動きがより強く心に沁み入る瞬間が多かった。

 『Fratres I』は、アルヴォ・ペルトの音楽による15人の群舞作品だった。「Fratres」は、ラテン語で親族、兄弟、同士を意味する言葉だそうだが、人と人の関係が薄くなり、引きこもりが多くなったり、いじめで死を選ぶ子どもが後をたたない今日この頃、現代の日本人には、心に重くのしかかるタイトルだ。それに対して金森は、全員が感情を交えずに同じ動きをこなす連鎖を見せ、その後に個々のダンサーに天井からとつぜん白い紛(※)のシャワーを浴びせかけるという思いがけない舞台を作り上げた。

 『Mirroring Memories』は、その中に並べた物語舞踊のひとつひとつに、それぞれ長い時間をかけてきた内容いっぱいの名作カタログだった。それに対して新作の『Fratres I』は、全員が同じ動きに従うことの多い、単刀直入の群舞。両作品の感触の違いは明らかで、最後をさらりと切り上げた組合せの妙が快かった。長く続く盛大な拍手の裡に、Noism《15周年記念公演》の幕が降りたことが、その何よりの証しだった。金森穣という逸材を選び出し、15年という時間をかけて、これだけ高度な舞踊芸術を世に送り出した新潟市の、多大なる貢献に感謝しなければならない。

(2019年7月27日所見)

※ くず米と確認