『still/speed/silence』立錐の余地ない利賀山房。木の香、闇、切っ先鋭い音、そして…

2019年9月22日(日)、第9回シアター・オリンピックスにおいて僅かに2回だけ上演されるNoism0『still/speed/silence』、その2回目を観に行ってきました。会場は富山県の「合掌文化村」利賀村、利賀芸術公園内の利賀山房(キャパ:250名)です。

いきなり少し時間を遡り、尚且つ、極めて個人的な事柄から書き起こしますが、ご容赦ください。

2019年6月30日(日)、まだこの年の夏があれほど暑い夏になるとは予想だにしていなかった頃、シアター・オリンピックス公演チケットの電話予約受付が始まりました。全公演一斉の受付でしたから、電話は容易には繋がりません。

更に会場・利賀山房に行くには、どうやっても山道をくねくね行く以外のアクセスなどある訳がありません。ネットで調べて以来、「細い山道じゃん。怖い」と尻込みする連れ合いはまだ行く決心がつかずにいました。「ひとりで行って」、お昼過ぎにそう言いながら電話をかける手伝いをしてくれていた彼女の電話の方が繋がるのですから皮肉です。というか、運命だったのかも。ふたりで行くことになったからです。

それから80日強を経て迎えたこの日、9月22日。件の山道を含む新潟・利賀間往復630km、合わせて8時間の日帰り自動車旅。距離的な隔たりはそのまま時間的な隔たりであり、それを越えていく移動はまさに「CREATING BRIDGES(橋を架ける)」がごとき趣きでした。半端ない緊張を強いられた運転の末、なんとか無事に利賀芸術公園に到着したのは午前11時。開演前にグルメ館を訪れて、友人・知人にも会い、ボルシチやらパスタやらを楽しんで、緊張をほぐした後、いざ、利賀山房へ。Noism0『still/speed/silence』です。

前売りは完売、キャンセル待ちの長い列もできていました。開演20分前の13:40、整理番号順に入場開始です。コンクリート造りの建物内に入り、靴を脱いで、会場に進むと、いきなりの明から暗。目に飛び込んでくる能舞台を思わせるステージも柱を含めてほぼ黒一色。唯一の例外は、その奥の襖が淡い黄のような色をしているのみ。足下、木造りの階段席は、鼻孔に心地よい木の香を伝えてきます。これが最後の鑑賞機会とあって、できるだけ詰めて座ることを求められた客席は立錐の余地もないほどで、腰を下ろした際の姿勢を変えることすらままならないくらいでした。

14:10、ステージ両脇に配されたテグム、筝、打楽器の生演奏が始まり、切っ先の鋭い楽の音が場内の空気を震わせるなか、上手側から黒い衣裳の金森さんが姿を現し、舞台上手の柱脇に置かれた楕円形の鏡を前に座ると、虚ろな目でそれを覗き込み、微動だにしません。そこに下手側から井関さんが登場。井関さんも黒い衣裳ですが、黒いのは衣裳だけでなく、鋭い目をした井関さんの存在そのものが妖しく危険な黒さを発散して止みません。このふたり、イニシアティヴを握るのは井関さんで、絡んでは、挑発し、操り、翻弄し、挑んだ挙句、金森さんの存在をその黒さで侵していきます。侵犯、越境、同化、葛藤、否定、争い…、そうした、まさに闇が跳梁する舞台。「黒」の権化、井関さん。こうした役どころは実に珍しいと言えます。

受け止める私たち観客は、目と耳に加え、鼻まで預けきったうえ、身動きもかなわず、ほぼ五感を握られ、既に手もなく、怪談じみた作品世界へと幽閉されてしまっています。否、日常から非日常へと、あらゆる隔たりを自ら越えて、進んで幽囚の身となることを選んだ者たちですが。

確かに、既視感めいたものもなくはありません。実際、能の『井筒』に似ているとの言葉も目にしましたし、坂口安吾『桜の森の満開の下』のようだと言う友人もいます。更に勅使河原宏『砂の女』めいたテイストがあるようにも思われました。しかし、そうした類似性を持ち出してみたところで、なおこの『still/speed/silence』が屹立するのは、実演芸術としての「一回性」が極限まで際立っているからだということに尽きるでしょう。私たち観客はむせ返るような場内に与えられたほんの僅かな専有面積に座して、あの50分を、五感を総動員して、共に生きたのですから。

ラスト、男は果たして女を殺したのか。はたまた、「真に殺された」のは男の方だったのか。答えは私たち一人ひとりに委ねられたままですが、正面、最奥の襖が開くにつれ、一面の黒のその向こう、建物の外の斜面に自生する草の葉の鮮やかな緑色が溢れんばかりの四角となって拡がり出し、私たちの目に飛び込んでくるではありませんか。美しさに固唾をのむ客席。そしてそれとともに一陣の涼風が私たちの顔を吹き抜けていきました。そのときの2重の「快」は、客席で見詰める私たちの人生に直にもたらされた「快」以外の何物でもなく、利賀山房でしか成立しない「快」だったと言えます。井関さんはその眩しいばかりの「緑色」のなかに姿を消し、次いで、襖が閉ざされると、戻ってきた闇のなかに残された金森さんも下手側に歩んで去っていきました。

緞帳はありません。楽の音が収まるが早いか、無人となった舞台に向け、盛大な拍手が送られました。それに応えて、金森さんと井関さんが現れると、音量は更に増しましたし、あちこちから「ブラボー!」の声が飛び交いました。それぞれの人生に物凄い50分間を作り出してくれたことに対して、拍手を惜しむ者はいません。やがて、大きな拍手がこだまするなか、ふたりは下手側に歩み去ります。場内後方、出入口付近に控えていたスタッフが何度か「どうも有難うございました。これで…」と終演を告げようとするのですが、観客は誰一人拍手を止めませんし、誰一人席を立とうともしません。薄暗がりの中に金森さんと井関さんの姿が微かに認められることもあったのかもしれません。拍手の音はますます強くなる一方でした。その流れで、笑顔のふたりが再びステージ中央に戻ってくると、それからはもうやんやの大喝采とスタンディングオベーションになるほかありませんでした。そんな予定外のなりゆきも渾身の実演芸術ゆえ。この日、利賀山房にいて、この「50分」を共有した者は、その「熱」を一生忘れないのだろうな、そんなふうに思いました。

「芸術の聖地」、その言葉が大袈裟でないことをまざまざと体感し、上気したまま新潟へと自動車を走らせたような次第です。様々な隔たりを越えて利賀に行って良かった。そんな思いを抱く豊穣な一日でした。

(shin)

「『still/speed/silence』立錐の余地ない利賀山房。木の香、闇、切っ先鋭い音、そして…」への4件のフィードバック

  1. shinさま
    すばらしい文章、どうもありがとうございました!
    凄い舞台でしたね!!
    井関さんの妖気と、お二人の暗闘に圧倒されました。
    そして音楽も!
    あの音楽と共にあのように踊る あのお二人はいったい何者なのでしょう!?
    まさに人ならぬ二人!
    私も 能、そして雨月物語や泉鏡花を想起しました。

    そして、遠藤龍さんの映像♪
    金森さんはこういう所、面白いですよね。
    シリアスの中のコミカルってスパイスですね。

    20日は私は民宿に泊まり、同室者5名(東京3名、台湾1名、私)だったのですが、皆さんこの舞台を見ており、感想話に花が咲きました。
    あれはホラー!と話した方は、最後に奥の襖が開き、外のみどりの世界が現れ、我知らず涙が出たそうです。
    日本人でなければできない作品と話された方は、衣裳が舞台の闇と絶妙に合っていてすばらしかったと。

    そして、どの方も、Noismを観に新潟に来られたことがあるそうで(台湾の方を除く)、Noismの抱えている現在の問題もご存知で、驚きました。
    天才 金森穣を手放してはいけない、新潟にとって大きな損失、と励まされました。
    私も、公式活動支援やサポーターズのことを宣伝させてもらいました。
    翌日、また新潟でお会いしましょう、と言い合って、笑顔で一期一会の別れを惜しみました。

    22日の公演に来た友人は、チケット完売のため、当日券で31番。35番の人まで入場できたとのこと。
    そのあとにも何名か並んでいたようですが。。

    友人は井関さんの妖しい魅力に驚き、あんな表情や踊りができるのかと感嘆していました。
    作品は、まさに能と思ったそうで、演劇よりも演劇らしい舞踊と感じたそうです。
    夢でうなされそうと言っていました。

    金森さんの創作ノートより。
    利賀山房は、「悠久なる時の中で、現代人には聞こえなくなった声や気配を放射し続ける大自然に囲まれた、激しいエネルギーのど真ん中である。
     現実世界に穿たれた漆黒の穴(ブラックホール)のようなその場において、“在る”ことができる身体とはいかなる身体か。その身体の深淵(精神)と観客の深淵(精神)の繋がりを知覚可能にする舞踊/作品とは、果たしていかなる舞踊/作品であろうか。その探求及び挑戦こそが、本作品の主題である。」

    「身体と観客の繋がりを知覚可能にする」、まさにシアター・オリンピックスの標語、shinさんも書かれている「CREATING BRIDGES(橋を架ける)」そのもの。
    金森さんの探求と挑戦は見事に達成され、本懐を遂げたと言えるでしょう。
    驚愕の金森穣の世界を、2回も堪能させていただき幸せです。

    利賀を後にし、夢から覚めたような気持ちで新潟に帰ると、
    Noism1+Noism0 ダブルビル公演の詳細が!
    https://noism.jp/npe/noism1and0_doublebill_2019/

    金森さん、井関さん、山田勇気さんは「Noism0」として出演するのですね!
    Noismの新しい体制、新しい作品に期待が高まります。
    (fullmoon)

    1. fullmoon さま
      邪悪な目の井関さんと怯えた目の金森さん。
      その対照はこれまで見たことのないようなものでした。

      『雨月物語』、そうです。それも触れようと思ったタイトルでした。
      溝口健二の『雨月物語』。

      殺気立った音楽に
      鬼気迫る熱演で対峙する金森さん、井関さん。
      そこに挿入される映像は『カルメン』を彷彿とさせるもので、
      コミカルな要素を楽しみました。
      更に、井関さんの「黒ドレス」を纏った金森さんが
      男性から女性へと越境してしまうという
      一見コミカルでいて、その実、ホラーっぽいシーンまで
      含まれていたりと、もう見どころテンコ盛りの舞台は
      2,000円では安過ぎるというものでしたね。

      ところで、皆さま、
      記事本文に触れた「緑色」の場面につきましては
      井関さんがinstagramで紹介されておられます。
      下のリンクからご覧ください。
      https://www.instagram.com/p/B2wLxiLAYjZ/?igshid=h7ocgoyglicy
      (同じ画像は井関さんのfacebookにもあります。)

      利賀山房、生涯忘れ得ぬ場所となりました。
      (shin)

    2. fullmoon さま
      書き落としたことがありまして、もう一度。

      9/23の金森さんのツイート、

      >利賀回想録1。
      >世界中から芸術家が集い、
      >それぞれが世界に類を見ない劇場空間と勝負する。
      >そう、利賀では自らの作品を上演するより先に、
      >空間と勝負する事が求められる。
      >それは演出家も実演家も変わらない。
      >そしてその勝負の仕方を観客は目撃するのだ。
      >得難い経験を、また一つ身体に刻んだ。ここから。

      と併せて、利賀山房での公演を振り返ってみます。

      「芸術の聖地」利賀村、
      能舞台を思わせる利賀山房の舞台、
      その最奥には老松の描かれた鏡板の代わりに、
      あの襖があり、
      ラスト、見事な開閉で絶大な効果をあげた訳ですが、
      もともと「神」への舞を象徴する老松の代わりに、
      自然の「緑色」が現れてくるのですから、
      利賀山房において、「神」の場所に位置するのは
      利賀村の自然以外の何物でもないということになりそうですね。

      書いてみたら、ぐだぐだになってしまいました。
      スミマセン。
      (shin)

  2. shinさま
    ぐだぐだではないです。
    コメントありがとうございました。
    その通りですね。

    利賀の霊気、自然神と勝負する金森さんたち。
    それは勝負というよりは、対峙なのかもしれません。

    あらゆるエネルギーを取り込んだような、利賀山房での公演でした。
    本当に神懸かり的な・・・

    すべての困難を自身の力に換えて、これからも突き進んでいってほしいです。
    (fullmoon)

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