渾身の熱演が大きな感動を呼んだ『ロミジュリ(複)』大千秋楽(@埼玉)

2018年9月16日(日)。
この日の劇的舞踊Vol.4大千秋楽について記すにあたり、
NoismでもSPACでもなく、全く別の件から書き始めることをお許し願います。
時、まさに午後5時ちょうどくらい。
打ち震えるような感動に包まれつつ、会場を後にし、
歩きながら、劇場内ではOFFにしていたスマホの電源を入れなおした際、
目に飛び込んできたニュースの見出し、
「樹木希林さんが死去 最期は自宅で家族に看取られて」に心底うろたえたからです。
75歳。この秋も来月、映画『日日是好日』(大森立嗣)を楽しみにしていた矢先の訃報。
込み上げる喪失感。
飾らない人柄で、奥深い表現を欲しいままにしていた名女優。
心よりご冥福をお祈り申し上げます。

…喪失感。感動が大きかっただけに…。
勿論、それはまた『ロミオとジュリエットたち』のことでもありました。
すっきりと晴れたとは言い難いものの、気温もあがり、
雨が降って幾分肌寒かった前日とは違うこの日、大千秋楽の地、埼玉は与野本町の天候。
金森さんは、そして舞踊家と俳優はどんな舞台で私たちを圧倒してくれるのか。
退団される舞踊家(中川さん、吉﨑さん)の姿も瞼に焼き付けなくては。
みなさん、そうした共通の思いを胸に、彩の国さいたま芸術劇場を目指した筈です。

この劇的舞踊、途中に約2か月の間を挟むことで、
新たな彫塑が加えられ、
表現は、より自然さを増して嵌るべきところに嵌り、熟成の度を増しながら、
この日の大千秋楽に至った訳です。
そんな「大航海」を経ての最後の寄港地、彩の国さいたま芸術劇場。
そこはまた言うまでもなく、蜷川幸雄シェイクスピア劇の本拠でもあります。
金森さんのこの意欲的な挑戦を誰より喜んだのは、
物思わし気に娘・実花の写真に収まる今は亡き蜷川本人だったかもしれません。
次にご紹介するのは、メモリアルプレートに刻まれた彼の言葉です。
>最後まで、枯れずに、過剰で、
>創造する仕事に冒険的に挑む、
>疾走するジジイであり続けたい。
>Till the end, never wither, beyond limits.
>Take risks in creativity, and stay at top speed.
>So I wish as a man of theater. 蜷川幸雄

さて、『ロミジュリ(複)』です。
前日のブログにも書きましたが、それはとりもなおさず「生々流転」の舞台。
作品自体が、より自然であることを求め、
あたかも生き物ででもあるかのように、自ら呼吸を始め、
それに応えて金森さんが創造の手を休めることなく動かす構図とでも言いましょうか。
もしかしたら、新潟3公演、富山1公演、静岡2公演、埼玉3公演で、
どれひとつとして同じ舞台はなかったのかもしれません。
いえ、きっとそうに違いありません。

それはまた、新しい総合芸術の在り様を模索する営みでもありました。
舞踊(身体)、演劇(台詞)、文字、映像、更には呪術的な炎と、
あらゆるメディアを縦横無尽に駆使することで結実をみる作品です。
例えば、市川崑や庵野秀明が用いる明朝体寄りの文字が得体のしれない不気味さを示すのに対し、
今回、不在の大公を示すゴシック体の文字は、
威圧感たっぷりに抑圧やある種の「通じなさ」といったものを体現していました。
(それと同時に、仮に明朝体を採った場合、
否が応でも『エヴァンゲリオン』を想起させずにはおかないという側面もあった筈です。)

また、映像で看過できないのは、
ロザラインがポットパンを籠絡させて入手した手紙を読む大写しの映像です。
私の記憶する限り、緞帳に投影されるこの映像は2度差し替えられて、
順に次の3通りがあり、それを観る際も全く気が抜けませんでした。
その3つ、①新潟・富山:読み終えてからも、手紙は両手のなかにある。
②静岡:読み終えてから、それを破る。
そしてこの度の③埼玉:読み終えると、それは両手からするりと落ちる。
そのどれを目にしたかで、ロザラインの印象は全く異なるものにならざるを得ないでしょう。

「奈落」の演出に至っては、この日は会場の少なくとも2、3箇所から、
期せずして「あッ!」という驚きの声が上がり、
一番最初に新潟で観た時の感覚を思い起こすことができました。
ツアー中、唯一、静岡公演のみ、ピットが設けられない劇場形状のため、
「奈落」を用いることなく、亡骸が舞台上に留まるかたちで進行していったことも
ここに改めて書き添えておきます。
「その一瞬」の衝撃こそありませんが、逆に、舞台上が血で染まっていくかのような
おどろおどろしさを幻視するように感じたものです。
そしてその静岡公演以降、
冒頭部分が、舞台上を埋め尽くす夥しい死体のイメージで始まるかたちに改められたことも
大きな変更点と言えるでしょう。

(今回の劇的舞踊における斬新さの最たるもの、ロザラインとロレンスに関しては、
また別の場所(次号のサポーターズ会報)で、触れてみたいと考えています。
少し時間はあきますが、その際、こちらと併せてお読みいただけましたら幸いです。)

舞踊の枠組みに収まり切らない過剰さ加減には、
当然、当惑する向きもあるかもしれません。
しかし、作品同様、私たち自身が刷新されていく感覚は
あまり経験したことのない性質のものであり、
それはまさに「冒険」としか言いようのないものだったと思っています。

この日、当面これが最後の機会になると思いながら見つめた第一部の終わり、
舞台中央奥から白く胡乱な金森さんがゆっくり出てくる場面を観ているだけで、
客席にあって、全身を目のようにして見詰める体の、
その胸部から発する動悸が、あたかも出口を求めでもするかのように、
体内を揺さぶり、総身を経巡った果てに、
内耳に、そして外耳に至って、熱く激しい耳鳴りと化し、
同時に頭はのぼせていくような、まるで触知可能な身体感覚に囚われたことも
書き記しておきたいと思います。
気付くと、自然と拍手している自分がいました。

埼玉公演における驚きの最たるものは、
なんといっても、井関さんと金森さんのパドドゥがひとつ増えていたことを措いてありません。
そして、追加されたふたつめのパで、
ふたり(?←片方はアンドロイドだけに。)の立ち位置がより明瞭になる仕掛けでした。

最後の最後、所謂「屋台崩し」のようなボールチェーンの扱いに至っては、
見るたびごとに鳥肌が立つような感覚があり、この日も例外ではありませんでした。
舞台上、大千秋楽の全てが終わりを告げたとき、
渾身の熱演を繰り広げて、観客を魅了し尽くした舞踊家と俳優に対して、
鳴りやまぬ大きな拍手とあちこちから飛び交う「ブラボー!」の声たち、
更にはスタンディングオベーションが贈られたのは至極当然のことに過ぎませんでした。

拍手に応えるカーテンコール。
笑顔で並ぶ実演家たちの横一列。
中央に金森さん、その左隣(私たちから見て右側)に中川さん。
いつとも知れず金森さんの手のなかにあったそれに気付いたのは、
笑顔の金森さんからさりげなく、実にさりげなく、中川さんに向けて差し出され、
中川さんが反射的に、一層、相好を崩して受け取ったそのときでした。
「それ」、最終盤でベッド上から散らばった小道具の白い百合の花。
勿論、本物の花であろう筈もなく、
まき散らされた人工的な小道具のなかから拾い上げられたに過ぎないただの一片が、
ふたりが重ねてきたこれまでの時間を祝福する、
この上なく感動的なアイテムたり得ることを目撃したこの瞬間の感動には、
拙い言葉をどれだけ連ねても迫れないほどに味わい深いものがありました。
今、こうして思い出すだけでも熱いものが込み上げてきます。

意欲作『ロミオとジュリエットたち』が帰結した大きな感動に包まれながらも、
否、それが大きな感動であっただけに、同時に感じる思いにも強いものがあります。
7月に始まったツアーが全て終わってしまったことからくる寂寥感。
そして、中川さんと吉﨑さん、去っていく舞踊家ふたりへの感謝と喪失感。
かように、Noism 15thシーズンのスタートがいつになく寂しさが相半ばするものであったことも
この場では包み隠さずにおきます。
(shin)

「渾身の熱演が大きな感動を呼んだ『ロミジュリ(複)』大千秋楽(@埼玉)」への11件のフィードバック

  1. 皆さま
    感動の余韻も覚めやらぬ3連休最後の朝ですが、
    そこで目にした金森さんのツイートに、
    いてもたってもいられずにコメントを入れさせていただきました。
    >【お願い】応援してください、Noismのことを。
    >共有してください、劇場文化の課題を。
    >寄り添ってください、未知の旅路に。
    >信じてください、未来の舞踊家のために。
    >夢見てください、100年前の先達が夢見たように。
    >願っています、100年経ったらまた会うことを。
    >消え逝く定めを背負う舞踊家として。
    https://twitter.com/jokanamori/status/1041483449968689152?s=19

    そこで私も次のようなツイートをさせて貰っております。
    併せてお読みいただけましたら幸いです。
    >現在、新潟市の「ふるさと納税(ふるさと新潟市応援寄附金)」の
    >「使いみち一覧」の例示に、「Noism」の5文字を入れて貰おうと
    >声をあげているところです。
    >現在、入っていない方が不思議です。
    >もし、ご賛同頂けましたら、
    >総務部総務課宛てに要望していただけますと嬉しいです。
    https://www.city.niigata.lg.jp/cgi-bin/formmail/formmail.cgi?d=somu

    https://twitter.com/jlgodard04b/status/1041541934429351936?s=19

    私たちの大切なNoismを、私たちの手で
    しっかりと支えていく覚悟が必要な状況にあると言えます。
    皆さまのご理解とご協力とをお願いする次第です。
    (shin)

  2. ブラビーは初めて観る観客の心の間を奪った。
    ボールチェーンが落ちることを知っている人間の傲慢な欲求に余韻を奪われ、不快に終わりました。

  3. 余韻が消える前、または拍手に先立って叫ばれる「ブラヴォー」は俗に「フライングブラヴォー」と呼ばれ、自重されるべき行為である。
    素人はカーテンコールで叫ぶくらいが好ましい。

  4. 夏にもとある大規模な公演でブラボーのタイミングや手拍子が一部から途中聞こえてきて主催者からタイミングを考慮するようにとの御達しがでました。
    私はあのブラボーに近い席にいましたがカーテンコール前のブラボーはやはりいかがなものかと…あの方はティボルトがオケピに落ちた時も反射的にハ!と声が出て正直なところやめていただきたいと思いました。

    1. 匿名さま
      全3件の貴重なご意見を賜り、感謝いたします。

      私自身は初見ではなかったため、
      あのタイミングを「フライング」とは感じませんでしたが、
      初めての方のお立場で、余韻が奪われたのだとしたら、
      ご立腹のお気持ちでおられることは充分理解できます。
      そのうえ、お気持ちに反して、肯定的な論調で書きました点も、
      不愉快な気持ちに追い打ちをかけてしまっていたのでしょうから、
      大変申し訳なく思います。

      お達しが意味する内容につきましても、知らないばかりではないつもりでしたが、
      書き方が一方的だった嫌いがあります点、ここにお詫びいたします。
      色々なお立場に配慮しながら書くべきところでした。
      今後とも、本ブログをご覧いただけますように、
      ご気分を害された「ブラビー!」に関するくだりは削除し、
      書き改めさせていただきました。

      もとより、ご来訪を賜り、記事をお読みいただいたうえで、
      気分を害されるようなことはまったくもって本意ではありません。
      ですから、今後は充分に配慮しながら書いていきますことを
      お約束し、ご容赦をお願いする次第です。

      これに懲りず、また貴重なご意見を賜りますようお願い申し上げます。
      この度は誠に申し訳ありませんでした。
      (shin)

  5.  この状態で放置しておくと、ここはとんでもない言いがかりに屈してそのままなのか、みたいなことにもなりかねないので一言。私はNoismロミジュリの埼玉公演は見ていませんが、あえて申し上げます。

     この匿名の人は
    > 余韻が消える前、または拍手に先立って叫ばれる「ブラヴォー」は俗に「フライングブラヴォー」と呼ばれ、自重されるべき行為である。
    などとしたり顔で書いていますが、これは音楽会におけるマナーであって、舞踊分野に関してはまったく別です。舞踊では上演中いつ何時でも拍手をしたり、掛け声を発したりしても構わないとするのが伝統的なお作法です。もちろん作品内容に応じた適不適はありますし、的外れで失笑を買い、舞台を壊す方向に作用する掛け声もありますから、Bravoを飛ばす以上はそこの見極めができなければなりません。そのためには数多くの鑑賞経験が必要になります。今年の1月、新国立劇場で上演された「パ・ド・カトル」1曲目の途中で発せられた大音声のBravoは、不適切で的外れで舞台を壊した典型的な悪いBravoでしたね。

     世の中にはBravo嫌いな人がいることは事実ですし、地域差もあるようですが、客席から飛んでくるBravoがどれだけ実演家や演出・振付家を鼓舞し、勇気づけ、次への糧になるものなのか、Bravo排除主義者の人たちはきっと知らないんでしょう。私としてはBravo大いに言うべしの立場ですが、前述の通り適不適の見極めができないうちは、それこそカーテンコールまで待つとか、舞台を壊さないための配慮が必要ですね。

     冒頭に記したとおり、私は当該Braviを聞いていないので、それが舞台を壊す方向に作用したのかどうか、タイミング的な適不適はわかりません。そこで当日行った複数の人に聞いてみたんですが、フライングなどと言うことはまったくなく、むしろ絶妙のタイミングだったとのことでした。元記事を書いたshinさんも肯定的に捉えたからこそ当初は当該Braviに言及したタイトルを付けたんでしょう? 変える必要なんてさらさらないと思いますね。

     さらに
    > あの方はティボルトがオケピに落ちた時も反射的にハ!と声が出て正直なところやめていただきたいと思いました。
    の「ハ」はいわゆるジワでしょうが。まったく非難される謂われのないことです。ここまで来ると悪意を持った言いがかりに過ぎないですね。くだらない。匿名で言いがかりを付ける人に「申し訳ない」だなんて言う必要ありません。何だかなあ。

  6. あおやぎ さま
    コメント、有難うございました。
    更に、ご教示頂きました中身もとても勉強になりました。
    感謝いたします。

    まず、次の部分にお答えします。
    >元記事を書いたshinさんも肯定的に捉えたからこそ
    >当初は当該Braviに言及したタイトルを付けたんでしょう?

    その通りでした。
    但し、あのときの「ブラビー!」のタイミングを
    キチンと書き記す言葉の選択を誤っていたと反省しております。
    そのうまくない選択が「匿名」さんの不興を買った部分もあると。

    当初の記事につけたタイトルは、
    >間髪入れず「ブラビー!」の声が飛んだ
    >『ロミジュリ(複)』大千秋楽(@埼玉)
    というものだったのですが、
    正確には、「間髪入れず」ではありませんでした。
    そのときのの流れは
    今でも木霊のように耳に残っているのですが、
    私の感覚では、そこに一瞬の間があったことは明瞭に思い出すことができます。
    書き表すなら「ボールチェーン~間~『ブラビー!』」となり、
    「タイミング」的に言えば、「快」寄りのものだっただけに、
    それに基づいて、肯定的な書き方をした訳です。

    次に、元記事の当該部分も再掲します。
    >最後の最後、所謂「屋台崩し」のようなボールチェーンの扱いに
    >至っては、見るたびごとに鳥肌が立つような感覚があり、
    >この日も例外ではありませんでした。
    >その瞬間、後方やや脇寄りの席から、
    >「ブラビー!」の掛け声が飛びました。
    >その絶妙なタイミングに、
    >会場全体の高揚感が後押しされたかのようで、
    >その後は、鳴りやまぬ大きな拍手と
    >あちこちから飛び交う「ブラボー!」の声たち、
    >更にスタンディングオベーションへと引き継がれていきました。

    文中、この度の「タイミング」に関して触れた箇所は二箇所。
    「その瞬間、」と「その絶妙なタイミングに、」の部分であり、
    お互いに相容れないものを続けて使ってしまう失態を
    犯していることがわかります。

    タイトルの変更と、文の差し替えを行った最大の理由。
    それは、私の正確さを欠いた不用意な言葉遣いがもとで、
    これを目にするたび、不快な思いが蘇ってくる恐れがあるとしたら、
    それを何とかしたいとの思いからだったと
    今なら言い切ることができます。
    …今なら。

    私がこの元記事を書いた際、適切に言葉を選んでさえいたら、…
    と悔やまれる思いには強いものがあります。

    で、今の私なら、次のように書きたいところです。

    タイトルは、
    >幕切れの切れ味に絶妙の「ブラビー!」が飛んだ
    >『ロミジュリ(複)』大千秋楽(@埼玉)

    記事の方も、
    >この日も例外ではありませんでした。
    >一瞬の静寂ののち、後方やや脇寄りの席から、
    >「ブラビー!」の掛け声が飛びました。

    初めからそのあたりが書けていたなら、と悔やまれるのです。

    で、次は「ブラボー!」についてですが、
    ひとりよがりで無作法な「ブラボー!」は私も好みません。
    その点では、「匿名」さんも「あおやぎ」さんも違っている訳が
    ありません。
    とするなら、問題はその先です。
    私は自分が「ブラボー!」肯定派的な立ち位置にいることを
    改めて自覚しました。
    それは「あおやぎ」さんのコメントにおける眼目であるところの
    この部分、
    >客席から飛んでくるBravoがどれだけ実演家や演出・振付家を
    >鼓舞し、勇気づけ、次への糧になるものなのか、
    を共有するからです。

    更に、「あおやぎ」さんのこの部分です。
    >舞踊では上演中いつ何時でも拍手をしたり、
    >掛け声を発したりしても構わないとするのが伝統的なお作法です。
    >もちろん作品内容に応じた適不適はありますし、的外れで失笑を買い、
    >舞台を壊す方向に作用する掛け声もありますから、
    >Bravoを飛ばす以上はそこの見極めができなければなりません。

    これは、(「ブラボー!」でこそありませんが、)金森さんが拍手について語っていたこととピタリ重なり合うものです。(本ブログ2018年1月27日『Noism2定期公演vol.9中日、ダブルキャストを堪能』)
    >…作品の途中でも拍手していいのか、というよく訊ねられる質問がでて、
    >それに対する金森さんも、いつものように、自由に拍手して貰って構わない、
    >但し、反面、周りの空気を読むこともあるだろうし、
    >端から拍手しようと思って来られるとこれもまた困るけど、…

    で、この流れで、金森さんが、「いろんな人がいるのが劇場なんだよね」
    と続けたのを今も覚えています。

    「匿名」さんがコメントを寄せてくれたお陰で、
    私は自分の立ち位置を改めて認識するとともに、
    「あのブラビー!」を何度も思い出しては、
    それがもたらした「快」を追体験することで、
    自分の文章がキチンとそれを伝えていないことに
    気付くことができました。

    もともと、波風を立てたくないのであれば、
    文章など書かないに越したことはない訳で、
    それでも書いてみたい気持ちをくすぐってくるのがNoismなのです。
    私は今は書くことを選ぶつもりです。
    最大限の注意を払いつつ。

    今回に関するなら、キチンと書けなかったこと、
    その一点に、「申し訳ない」思いが生じる余地がありました。
    「言う必要」がなかった “Sorry it had to end this way.
    (こんな終わり方でごめんなさい。)”
    を言った大坂なおみに対して、私はやはり言う必要があった訳です。
    キチンと書けていなかったのですから。
    (しかし、或いは、そして、前のコメント中の「申し訳ない」は
    観点がズレていたことも今ならわかります。)

    でも、書かなかったなら、学べないものも多くありました。
    そこもはっきりしています。
    ですから、ここは次のように締め括りたいと思います。

    今回ここでのコメントのやりとりが、
    これを目にするひとりでも多くの方にとって、
    たとえ僅かなりとも生産的なものであることを願っております、と。
    (shin)

  7. 過日、あの日の「ブラビー!」を舞台上で受けた
    当の実演家たちのうち、おふたりと話す機会を得ましたので、
    実際、あの「ブラビー!」について訊ねてみました。
    「タイミングは如何でしたか。どう感じましたか」と。

    おふたりとも耳に入ったそうで、
    その時の様子も覚えていらっしゃいました。
    で、異口同音に「良かったと思いますよ」の答え。
    更におひとりは「気持ちよかったです」とも。
    もうおひとりもそれを聞きながら、頷いておられました。
    念のため、更に尋ねました。
    「早すぎたりはしませんでしたか」に対して、
    返ってきたのは「そんなことはありませんでした」という答えでした。

    すると、件の「ブラビー!」、
    こういうことになります。
    タイミングに難がなかったばかりか、
    実演家に「快」を運んだ。言い換えるなら、鼓舞しもした。
    つまり、何も「傲慢」なところのない、
    絶妙な、良い「ブラビー!」であったと。

    「匿名」さんのお気持ちもある訳ですので、
    これは書かずにおいてもよかったのかもしれませんが、
    それでも、この度、敢えて書き記したのは、
    あの「ブラビー!」を発した方の名誉のためとお考え下さい。
    そちらも放置しておく訳には参りませんでしたので…。
    お目汚しでした。
    (shin)

  8. 皆さま
    『ロミジュリ(複)』終演から4ヶ月あまりが過ぎ、今は公演中の『R.O.O.M』+『鏡の中の鏡』の話題で持ち切りですけれど、
    『ロミジュリ(複)』終演直後に、twitterに呟いた強引過ぎるツイートたち(2018/9/17)をまとめてここに載せさせて頂くことをお許し願います。
    偏に薄れゆく記憶に抗い、またいつかこの意欲作にまみえるときに備えての備忘録とでもお考え頂き、
    寛大なお心を期待するものです。

    ☆  ★  ☆  ★  ☆  ★  ☆

    ①勝手に命名「『ロミジュリ(複)』ロザラインは果たしてロミオが好きだったのか問題」。
    当初、ロミオに好かれていた時、その手をピシャリと打ち、ジュリエッツへの心変わりに見舞われて後は、制御不能に陥り、壊れたように踊る、ロザライン。
    自分から離れていくロミオに耐えられなかっただけとは考えられまいか。

    ②人を愛することができる「人」、及び、愛のために死ぬことができる「人」への憧れを抱いたアンドロイドかもと。
    とても穿った見方ですね、これ。しかしそう思えてならないのです。

    ③「完全性」に近い存在として、ロレンス医師の寵愛のもとにあることに飽きたらなくなり、或いは満たされなくなっただけなのか、と。
    それもこれもバルコニーから「不完全な存在」に過ぎないジュリエッツが一度は自分を愛したロミオを相手に、その「生」を迸らせている姿を見てしまったために、とか。

    ④というのも、全く「生気」から程遠い目をしたロザラインには、愛ほど似つかわしくないものもなかろうから。

    ⑤ラストに至り、ロザラインがロミオの車椅子を押して駆け回る場面はどこかぎこちなく、真実っぽさが希薄なように映ずるのだし、ベッドの上でロミオに覆い被さって、「うっうっうっ」とばかりに3度嗚咽する仕草に関しても、なにやらあざとさが付きまとう感じで、心を持たないアンドロイドの「限界」を表出するものではなかっただろうか。

    ⑥アンドロイドであること=古びて打ち捨てられてしまう迄は寵愛をまとう対象としてある筈で、それ故、そうした境遇とは相いれないロミオの心変わりを許すべくもなく、「愛」とは別にロミオの気持ちを取り戻したかっただけではないのか。「愛し愛され会いたいけれど…」で見せる戯画的で大袈裟な踊りからは真実らしい愛は感じられない。

    ⑦更には、公演期間中に2度差し替えられた手紙を読むロザラインの映像。
    最終的に選択されたのは読み終えた手紙が両手からするりと落ちるというもの。頓着することもなく、手紙が手から落ちるに任せるロザラインは蒸留水を飲んではいないのだから、42時間目覚めない立場ではなく、ロミオが己の刃で果てる前に起きることは可能。

    ⑧すると、何が見えてくるのか。
    それは心変わりをしたロミオを金輪際、ジュリエッツに渡すことなく、取り返すこと。
    もともとアンドロイドのロザラインにとっては儚い「命」など、その意味するところは窺い知ることすら出来ぬ代物に過ぎず、ただ、「人」がそうした「命」を賭けて誰かを愛する姿への憧れしかなかったのではないか。

    ⑨「愛」を表象するかに思える車椅子を押しての周回も、アラベスク然として車椅子に身を預ける行為も、ただジュリエッツをなぞって真似しただけの陳腐さが感じられはしなかったか。
    そのどこにもロミオなど不在で構わなかったのではないか。そう解するのでなければ、ロミオが自ら命を絶つ迄静かに待つことはない筈。

    ⑩ロレンス医師のもとを去るのは、死と無縁のまま、寵愛を永劫受け続けることに飽きたからに他ならず、彼女の関心の全ては、思うようにならずに、あれこれ思い悩みつつ、死すべき「生」を生きている「人」という不完全な存在の不可思議さに向かっていたのであって、決してロミオに向かっていたのではあるまい。

    ⑪というのも、たとえ、ロザラインが起き上がるのが、ロミオが自ら果てるより前だったにせよ、蒸留水を飲んだだけのジュリエッツが蘇生することは承知していたのであるから、ロミオが生きたままならば自分が選ばれることのない道理は端から理解していよう。「生」の流れる時間を止める必要があったのだ。

    ⑫心を持たないゆえ、愛することはなく、寵愛にも飽きたなら…。
    死すべき運命になく、およそ死ねないのなら…。
    ロザラインに残された一択は、命を懸けて人を愛する身振りをなぞることでしかあるまい。それがぴたり重なる一致点は「憧れつつ死んでいく(=壊れていく)とき」に訪れるのであり、そこで『Liebestod ―愛の死』の主題とも重なり合う。

    ⑬これらは全て「アンドロイドのロザラインは蒸留水を飲んだのか問題」というふうにも言い換え可能です。(笑)
    しかしながら、答えは明白なうえ、蒸留水自体がロザライン相手にその効能を発揮するとは考えられないため、これはそもそも「問題」という性格を微塵も備えていないことは自明。

    ⑭掠め取った手紙を自分のところで止めたロザラインには、追放の憂き目にあい、戻れば死が待つ身のロミオが、起き上がらないジュリエッツを前にしたならば、絶望のあまり、自らも命を絶つという確信があったものと思われる。そうして、ロミオが自ら命を絶つまで不動を決め込んでいたのに違いない。

    ⑮ラスト、客席から単眼鏡を使ってガン見したのだが、ロミオの亡骸と共に奈落へ落ちるときに至っても、ロザラインの両目は、「心」を持ってしまったアンドロイドのそれではなく、冒頭から終始変わらぬ無表情さを宿すのみであった。
    とすると、あの行為すらディストピアからのある種の離脱を表象するものとは考えにくい。

    ⑯この舞台でディストピアが提示されていたとするなら、果たしてそれはどこか?
    間違っても「病棟」ではない。監視下にあってなお、愛する自由も、憎む自由も、なんなら絶望する自由もあり得たのだから。
    本当のディストピアが暗示されるのは言うまでもなくラストだ。
    死ぬことすら、なぞられた身振りに過ぎないとしたら、そこには一切の自由は存しないのだから。

    ⑰そう考える根拠。
    舞台進行の流れとはいえ、もう3度目になる「落下」は、それを見詰める目に対して既に衝撃を与えることはない。単に、そうなる運命でしかないのだ。舞台上、他の者たちが呆然とするのは、呆然とする「自由」の行使ではないのか。生きる上で、一切の高揚から程遠い「生」を生きざるを得ない存在こそがディストピアを暗示するだろう。

    ⑱twitterの字数制限から「運命」としてしまったが、アンドロイドであるロザラインに対してその語は似つかわしいものではない。ならば、「プログラム」ではどうか。もともと自らには搭載されていない「高揚」機能への憧憬が、バルコニーのジュリエッツを眺めてしまって以降の彼女を駆り立てた動因ではないか。

    ⑲更に根本的な問題。「ロザラインは無事死ねるのか問題」或いは「奈落問題」。
    マキューシオ、ティボルト、ロミオにとっての「奈落」とロザラインにとっての「奈落」をどう見ればよいのか?
    そして、そもそも、病棟で患者たちが演じた設定なら、先の3人の死すら、我々が知る「生物の死」と同定し得るのか?

    ⑳それはまた、一度たりとも「奈落」を覗き込んでいない唯一の存在がロザラインであることから、「果たしてロザラインには奈落は存在するのか問題」としてもよいのかもしれない。

    (21)そのあたり、細かく見ると、マキューシオとティボルトは「死に体」で事切れるときに堕ちるので、「奈落に堕ちること」=「死」と見ることも可能かもしれないが、既に息絶えたロミオにあっては状況は少し異なる。
    人間にあって、その存在と同時に生じ、常にその存在を根本から揺るがす「死の恐怖」。「奈落」は「死」そのものではなく、その「恐怖」の可視化ではないのか。
    とすれば、ロザラインには「奈落」はあり得ず、心変わりから自らの許を去ったロミオを相手に「愛」を模倣し、そのうえ、「愛」同様に縁遠い感覚である他ない「死の恐怖」も実感してみたかった、それだけなのではなかったのか、…等々。

    これらが私の目に映じた『ロミジュリ(複)』であって、ロザライン界隈には色恋やロマンスといった要素は皆無だったというのが私の結論です。

    ☆  ★  ☆  ★  ☆  ★  ☆

    以上、誠にとりとめもない内容ですが、最後までお付き合い頂いたことに感謝します。
    私の内面に巣くった思いをこの場を借りて(臆面もなく)詳らかにさせていただき、少しすっきりしました。
    皆さんがこの傑出した舞台をご覧になって感じられた「あれやこれや」も知りたいと思うものです。
    (shin)

  9. shinさま
    追加コメントありがとうございました。
    『R.O.O.M.+鏡~』公演、真っ最中の合間の谷間ともいう日に、『ロミジュリ(複)』公演の感慨を再度(再々々・・・・度)思い起こさせていただき、ありがとうございます。

    目の前にいろいろな場面が思い浮かびます。
    音楽も衣裳も美しかったです。
    舞台上の溢れんばかりの情報や、会場ごとに違う雰囲気、更新されていく細部、静岡では奈落がありませんでしたが変更場面に違和感がなかったこと、等々々・・・

    初演の時は意外な纏末にとても驚きました。
    謎は謎のままですが、シェイクスピアの作品からこの世に新しく現れた、今の時代でなければありえない様相の設定でありながら、精緻で美しく、ロマンチックな印象が残る劇的舞踊と思います。
    情報過多な舞台でありながら、静かなイメージがあるのも不思議です。
    何度も観るというのは、そういうことなのかなと思いました。

    ある程度の時を経て、また考えさせていく機会をいただき、感謝しています。
    (fullmoon)

    1. fullmoon さま
      まさに核心を衝いたコメント、有難うございます。
      時を隔てて思い返すことを可能にし、末永くその豊かさに浸ることのできる刺激に満ちた舞台。まさにそれこそがNoismが私たちにもたらしてくれるものなのですね。
      金森さんは舞台について語るとき「刹那」なる語を口にされますが、それは「永遠」とも同義であるような、そんな「刹那」な訳です。
      こうして思い返していると、そのあたりが何の矛盾もなく、実感されてきます。そして、それは紛れもなく、『R.O.O.M.』+『鏡~』についても当てはまるものでしょう。
      また、この先、ある程度の時を隔てて、只今、公演中の「最新」2作について語ることも楽しみでなりません。そして、このブログが時を越える、そんな縦横無尽なやりとりの場であったなら光栄です。
      …そんなことを思いました。
      (shin)

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