Noism2特別ショーイングが15th seasonを締め括る(2019/08/04その1)

2019年8月4日(日)12:30。この日も新潟は判で押したように暑い一日。「来る日も来る日も」、そう思うのも間違いないのでしょうが、流れる時間はまた、確実にこれまでとは異なる「別の一日」を用意して刻まれていました。

何故と言って、それはこの日を最後にNoismを離れるメンバーがいることをも意味するからです。先日の公演のことを書いた際、Noism1の浅海さんとシャンユーさん、そして準メンバーの片山さんについては触れました。

この日はこのNoism2特別ショーイングを最後に、門山楓さん、鈴木夢生さん、岩城美桜さん、森川真央さんが離れていくことになります。寂しくない筈がありません。

そんな思いも抱きながら、「特別ショーイング」って、いったい何を見せて貰えるのだろう、様々にドキドキしながら足を運ぶスタジオBでした。

で、驚き!若い舞踊家で再び『Mirroring Memories』からの抜粋が観られるなど、想像だにしていなかったからです。心は一気に沸点に達します。

まずは第1部、その「Noismレパートリー」。本家『Mirroring …』が黒衣の登場と情動に訴えかける音楽とで場面を繋いでいったのに対して、本日のバージョンは繋ぎの音楽なしに、前の場面のラストに、次の場面の舞踊家が現れ、前後の舞踊家が不動の姿勢でオーバーラップしながら、場面転換が行われていきます。衣裳や小道具の類もなく、純粋に、各人の身体ひとつのみによるチャレンジを見詰め、一人ひとりが「Noism」を体現しようと精一杯踊る姿に打たれました。

「本家」との最も大きな違いは、4人が配された3番目の「Contrapunctus」(『Psychic 3.11』)でしょう。スタジオB下手側の鈴木さんと岩城さん+上手側の池田さんと橋本さんによって、デュオ×2のかたちで踊られていったのでした。ラストでは、3人が床に倒れてしまうなか、左から4人目、岩城さんひとりが片膝をつき、耳を塞ぎました。

そして勿論、1部ラストのソロ、門山さんの「ミカエラの孤独」(劇的舞踊『カルメン』)が目に焼き付いています。彼女持ち前の若さで踊られるミカエラは、これまでに観たどのミカエラとも異なり、今の門山さんを見詰めるためのものだったと言えます。ラスト近くで発せられる泣き笑いの叫びを、門山さんの「3年間」が全て込められているように聞いたのは、私ひとりではなかったでしょう。胸が締め付けられる思いがしました。

スタジオ内は暗くなりましたが、拍手をする雰囲気とも異なる肌合いのうちに、薄明のなか、第2部の用意が進みます。舞踊家たちによって、踊るスペースぎりぎり、最前線に、白い百合が六輪、等間隔に置かれました。

ワークインプログレス『touch-me-not』(仮)。タイトルは「ホウセンカ」、或いは沖縄では「てぃんさぐ」として知られる赤い花のことであり、熟すと弾けて種子を飛ばす花です。「触らないで」という花言葉が、9人のメンバーの「今時分」を含意し、意味深な印象を与えます。そこに「百合」です。ん、しかし、「黒一点」カナール・ミラン・ハジメくんもいるぞ。例外もあるな。

で、みんな白い衣裳かと思えば、ひとり(『火の鳥』の)仮面をつけた女性だけ黒い衣裳を着ているじゃありませんか。仮面をつけていない他の白8人から、ええっと、彼女は橋本さんだ、と割り出すものの、またしても「黒」の例外。

しかし、チェンバロの音に重ねて歌われるドイツ語とおぼしきチャントには何やら背徳的な響きも漂い、それに合わせて踊る9人は同じ青年期にあることで、女性・男性の違いやら、白と黒の違いやらを越えて、各人の生と性とが、更に性と聖とが交錯し、自らの手に余るしかないあの年頃特有の危うさ、戸惑い、憂い、禁忌、哀感といったものを9つの身体で表出していきました。それは誰しも避けて通れず、誰しも思い当たるところがある心情を踊るような、今の彼(女)らにのみ許されるような舞踊であり、一貫して、決して眩くはないものの、やや陰りを帯びて鈍く輝く類の青年期のフラジャイルで歪な美しさ。零れ落ちる未だ不定形の官能性。…堪能いたしました。

全てが終わり、暗転。その後、赤い薔薇を抱えて登場し、一列になって拍手に応えた若い舞踊家たち。私たちも彼(女)らの前途を祝して長いこと大きな拍手をしたり、掛け声をかけたりしたかったのですが、緞帳がなく、カーテンコールには不向きでした。彼(女)らがはけた後、その場所に残されたままの薔薇と仮面…。

しかし、お互い、このまま終わる訳にはいかないとの思いが共有されたのでしょう。Noism2リハーサル監督の山田勇気さんが「これでおしまいです」と告げた後でしたが、誰が合図するでもなく、極めて自然に、舞踊家たちが止まない拍手に応えて出てくる流れになったのでした。一様に照れくさそうに、しかし、笑顔で。観ていた私たちも再び、精一杯、拍手を強めることで応えました。

その後、立ち去りがたく、ホワイエに立ちすさんでいると、これを境にそれぞれ進む道が異なる時を迎えた「同士」たちが抱き合う姿や、そっと目を拭う姿などを目にし、一人ひとりの前途が洋々たることを祈らずにはいられませんでした。

こうしてNoismの15th シーズンの幕がおりました。来シーズンの幕が上がる迄には、メンバーの入れ替えがあるばかりでなく、活動継続の可否を巡る現在の「棚上げ状況」も決着をみていることになる訳です。正直、今、心は落ち着くべくもありません。しかし、全国から寄せられる熱い思いを力に、私たちはただ信じて待つのみです。「Noismのある新潟市」が継続されていくことを。私たちの前途に、Noismとともに歩む未来が待っていることを。一緒にその吉報が届く日を待ちましょう。

(shin)

舞踊の力見せつけた♪Noism15周年記念公演・大千穐楽

2019年7月28日(日)の東京、めぐろパーシモンホールはNoism15周年記念公演の大千穐楽の日、即ち、今季最終公演の日。朝のうちの雨があがると、またしても気温はぐんぐん上昇。しかし、前日に比べると、夏らしい空も広がり、やや不快感は薄い気もしました。それでも暑いことには変わりありませんでしたけれど。

前日と同じように柿の木坂をのぼるのですが、気持ちは異なります。既に、公演最終日の寂しさが心のどこかに巣くっているからです。これが見納めとなるメンバーもいるからです。

ホワイエに歩を進めると、中川賢さん、亀井彩加さん、牧野彩季さんも入って来られて、それぞれご挨拶できましたし、ISSEY MIYAKEデザイナー・宮前義之さんの姿をお見掛けするなど、勿論、そこここに「大楽」特有の華やぎも感じることが出来ました。

そんななか、この日も公演の幕があがる時間が訪れます。様々な色味をもつ『Mirroring Memories-それは尊き光のごとく』(65分)から。

個人的な話で恐縮なのですが、この日の公演を最後にNoismを離れるおふたり、チャン・シャンユーさんのバートル(『ラ・バヤデール-幻の国』(2016)より「ミランの幻影」)、そして、黒から白へ「少女」を踊る浅海侑加さん(『マッチ売りの話』(2017)より「拭えぬ原罪」~ラスト)の場面が、踊りに万感の思いが込められているように映り、と同時に、自然とこれまでの記憶も重なってきて、片時も目を離したくない、そういう気持ちで目を凝らしました。恐らく私だけではなかったろうと思いますが。

自分の足で立たねばならない時の訪れに、不安もありながら、胸に覚悟を刻んだ「少女」浅海さん。その姿が12枚の「鏡」に映って、幕。次の演目がありますから、余韻もそこそこに、一旦、棚上げするかのように客電が点き、休憩となるのは前日までと変わりません。

そして、『Fratres I』(15分)。15人の舞踊家による、俗を離れた聖の、そして祈りの舞踊。

陰影。静謐。ステージ上方、舞踊家たちの遥か高いところにはスモークが漂い、全体的に薄暗いなか、フード付きの黒く長い衣裳に身を包み、修道僧然とした15人は微動だにすることなく、蹲踞の姿勢で美しい陣形を呈し、顔と剥き出しの2本の腕のみが照明で鈍い黄金色に照らされ、それはそれは息をのむ美しさです。ペルトの音楽に合わせた動きは、手のみのミニマルなものから始まり、腕へ、上半身へ、脚へ、全身へと広がり、徐々に大きなものとなっていきます。

我が身に降りかかるものは、他の者の身の上にも。耐えるような、足掻くような、身を掻きむしるような。地霊を治めるような、呼び覚ますような。天から降臨するものを待つような。個々に、交わることなくも、同士と共に一糸乱れず。それは「一(いつ)にして全」の様相。

やがて、その身に降り注ぐ15本の光の滝。鮮やかな光を受けて落下し続けるもの、正体は米。受け止めるのか、抗うのか。祝福でもないのでしょうが、試練とばかりにも見えません。動きを止めたままの総身でそれを浴びたのち、頭上に両の掌をかざし、受けようとでもするかのような姿勢を経て、今度は全身で弾きつつ、踊ることに専心していく舞踊家たち。その姿が、目を射抜きます。心に突き刺さります。

そんな米も降り注ぐのをやめる時が到来します。降り注いだ大量の米は、今は足許にあり、舞踊家たちそれぞれの動きの軌跡を描き、残すことになるでしょう。やがて舞踊家たちはそれまでの陣形を離れ、円弧を形作ります。床を両手で叩く仕草まで含めて、(あたかもベジャールの『ボレロ』を思わせるような、しかし)不在の中心に向けられた崇拝のよう。そこへ、その不在を埋めるかのように、同時に、今度こそ舞踊家たちの覚悟を祝福するかのように、再び、より太く、より鮮明に光を反射させながら落下を始める勢いを増した米の滝。胸に手を当てる15人。中空には弧をなす一筋の曙光。いまだ間断なく落下を続ける米、米、米。そこに幕がおりてくる…。

待っていたのは、一瞬の静寂ののちの割れんばかりの大きな拍手、続いて「ブラボー!」の掛け声。但し、荘厳で厳粛な空気に圧倒されて、腰を上げることが躊躇われたのは私だけではなかったようです。最初は拍手喝采のみでした。しかし、カーテンコールが繰り返されるうちに、徐々に「縛り」は解けて、少しずつスタンディングオベーションを贈る人たちも出てきます。会場中が感動と感謝を表す熱狂の渦に呑み込まれていきました。

客電が点り、終演。

…その筈でした。観客はみんなそう思っていた筈です。明るくなったのですから。ところが、幕がもう一度あがったのです。嬉しいサプライズです。

舞台には先刻までとは異なり、互いに背中に手をまわして深々と上半身を折る舞踊家たちの姿がありました。これがNoism最後となるシャンユーさん、準メンバーの片山さんも笑顔です。他方、少し前から浅海さんは涙を流し、その彼女の背中に井関さんが腕をまわしています。

やがて、金森さんが万雷の拍手に応えて、客席に向けて拍手を返すに至り、まるで堰を切ったかのように、大勢による、本当に大勢によるスタンディングオベーションの光景が現出したのでした。舞踊の力を媒介にして、ひとつになっためぐろパーシモンホール・大ホール。居合わせた者みなが生涯続く感動のときを刻み込んだ、そう言ったとしても決して大袈裟ではないと思います。

心をうち震わせたまま、ホワイエに出てみると、グッズ売り場には大勢の方が足を運んでおられ、Tシャツ、DVDなどをお買い求めになっていましたし、活動支援会員になろうとポスターに見入る方も多数見られました。

こんなに大きな感動を届けてくれるなら、また観たい、ずっと観ていたい、そうした皆さんの思いがダイレクトに伝わってきました。嬉しく、誇らしく、そして心強い光景でした。

7月も残すところ僅か。もうすぐ8月の声を聞きます。中原新潟市長が活動継続に関して方向性を示すときがやって来ます。観る者すべてに、こんなに大きな感動を届けてくれる舞踊団Noismに限って、間違いはない筈です。皆さんと一緒に、吉報が届くのを待つのみです。

(shin)

酷暑の東京に静かな熱狂、めぐろパーシモン2日目

2019年7月27日(土)、台風到来を案じながら、新幹線で東京入りしてみると、幸い、風雨はなかったものの、何かねっとりと粘つくような暑さは、もう温帯のそれとは思えず、亜熱帯化でもしたかと感じられてしまうような、もの凄い不快感に見舞われた酷暑の一日。

そんななか、東急東横線を都立大学駅で降り、柿の木坂の傾斜を汗ばみながらのぼると、まず、緑が目に入り、パーシモンホールがある区民キャンパスが見えてきました。図書館、体育館も併設される施設はさまざまな用途で人びとが集う、開放的で、魅力的なもの。素敵な公演会場です。

開演1時間前には当日券をお求めになる方の列ができ、区民キャンパス内の人の往来も徐々に大ホール中心にシフトしていきました。

開場されると、華やぎは今度はホワイエに。この日は、評論家の山野博大さん、乗越たかおさんの姿がありましたし、埼玉、愛知ほか各地の劇場関係の方たちもお越しになられていましたが、決して「お仕事」だけのおつもりではなかったでしょう。

開演ギリギリまでホワイエは談笑される方々、飲み物片手に喉を潤す方々、Noismグッズを求められる方々の姿で溢れていました。(なお、Noismロゴバッジは好評につき、sold outってことみたいです。他もどうぞお早目に。)

そして開演。『Mirroring Memoriesーそれは尊き光のごとく』65分です。この日の私は最前列からの鑑賞だったのですが、ほぼステージ高から視線を送ることになり、少し仰角、やや見上げる両目には、いつにもなく神々しさと同時に生命のもつ生々しさを伴って映じました。この日、至近距離より見詰めた舞台から、軽々、易々踊られているように見えて、生身の舞踊家たちには、重力も体重も摩擦も、私たち客席と同様に存するという当たり前過ぎる事実がビンビン、目に、肌に突き刺さってくるように感じられ、観ているうちに、作品テーマと相俟って、覚悟、精進、継承、そして希望、そんな言葉たちが浮かんできました。リフトも物凄く高く高く感じられ、心底圧倒されたことも書き記しておきます。もっと拍手していたかった、贅沢な、贅沢過ぎる時間でした。

10分の休憩では、ホワイエで友人、知人と一緒になり、いえ、一緒になったものの、みんな一様に、相応しい言葉など見つからない風情で、遠い目で反芻に耽るばかりでした。その失語感こそ、優れた芸術がもたらすものに他ならず、その際の「もどかしさ」を味わうために劇場に足を運んでいるのだなぁと改めて思い知らされたような次第です。(汗)

続いて、『Fratres I』15分の舞台です。音楽、照明、肉体がひとつになり、静謐、崇高な空気感を作り出します。その神々しい美しさといったらありません。紋切型の思考では、精神の対立項として置かれる身体だったりもしますが、金森さんを含むNoism15名で踊られるこの短いピースは、その2者が遠く隔たったものではなく、身体にして精神、否、身体即精神であること、あり得ることを、ただ見詰めるだけで容易に納得させてしまう驚異の力に満ちた15分なのだと言い切りましょう。後半、装置のアクシデント(*)にハラハラしながらも、一期一会です、その日見得た舞台だけが見る者の人生と交わる唯一無二の舞台なのであって、ただ受容することを措いて他にない、そんな初歩的なことも再確認致しました。だって、狼狽えも、たじろぎもせず、舞台に献身する舞踊家たちを見たらそれでもう充分、パーフェクトな筈です。それ以上、何があるでしょうか。

この日の客席は、どちらかと言うと静かに拍手を送るタイプの観客が多かったようでしたが、カーテンコールが繰り返され、笑顔の舞踊家たちを目にすると、気持ちの昂りを抑えていられなくなり、拍手も音量を高め、徐々に掛け声も飛ぶようになっていきました。そのなりゆきは温かみが感じられるものでした。

圧倒され尽くして、終演後のホワイエに立ちずさんでいると、家族や知人、友人に会うために、舞踊家たちが次々に楽屋から出て来る姿を目にしました。先刻までの張り詰めた様子から解放された素顔の舞踊家たちへの労いの思いを胸に会場を後にしました。「あと1日」、まだご覧になられていない方、必見ですよ。

(shin)

新潟日報「窓」欄再び♪―『魅力あるノイズム残して』掲載(2019/07/27)

皆さま、本日(7/27)の新潟日報朝刊「窓」欄に、皆さまの声を代表するかたちで、『魅力あるノイズム残して』という投稿を掲載していただきました。

こちらからご覧下さい♪ https://twitter.com/NoismUnofficial/status/1154873751709687808?s=19

折しも、東京公演が始まったタイミングでの掲載。地方紙でもあり、小さな声かもしれませんが、機運を盛り上げていく一助にでもなりましたら、幸いです。

皆さまからの更なるご支援をお願いする次第です。

また、こちらもご覧頂けましたら幸いです。新潟日報「窓」欄掲載、『ノイズムの活動支えたい』! →反響続々!コメント欄にもお目通し願います♪ (2018/03/11記事)

(shin)

『Mirroring …』+『Fratres I』めぐろパーシモン見参♪(東京公演初日)

2019年7月26日(金)。始まりは酷暑の新潟。お昼過ぎに、市議会議長あてに延期になっていた活動継続を求める要望書を提出し、その足で東京に向かいました。
目黒パーシモンホール。14年前に金森さんの『フェスティバル』を観るために訪れた人は多いと思いますが、私もその中の一人。懐かしいような不思議な気持ちでの再訪です。

エントランスやロビーでは関東在住の知人友人たちと前公演以来の再会♪

会場の大ホールは天井が高く、広々した空間です。
ほぼ満席の客席。静かに開演を待ちます。

『Mirroring Memories』、そして休憩のあとの『Fratres I』。どちらも神々しいばかりの集団の力に打たれます。

 『Fratres I』が終わり、幕が上がると拍手とブラボーの嵐!!そしてスタンディング!! 台風間近の蒸し暑い東京に、敬虔で静謐な、やがて熱狂の時空がひろがりました。 

14年よりも前、帰国直後の金森さんの作品『悲歌のシンフォニー』を観た方から、「あれは○○ですよね。原点回帰したのですね」というお話を伺いました。奥が深いです。中日、千穐楽も楽しみです♪

*まだ2公演を残すことに鑑み、文中、1箇所、「○○」と伏せ字とさせていただきました。ご了承願います。

(fullmoon)

Noism番外編・『ODORU FUKU』上映&トークショー(@シネウインド)

Noism15周年記念公演と重なり、そして繋がる日程の2019年7月20~22日の3日間、新潟市のシネウインドにて、早春(3月24日)の新潟県政記念館で開催されたUTOPIA秋冬コレクションのファッションショー「オドル フク」の映像を編集して新たに出来上がった『ODORU FUKU』の上映が行われました。

私はNoism新潟公演楽日のあくる日、3日間の最終日(7/22・月)にお邪魔しました。この日を選んだのは、上映後、UTOPIAさん×池ヶ谷奏さんのトークショーが予定されていたからです。(他の日も魅力的なトークゲストさんたちが迎えられていましたが、Noism公演から直で駆け付けるのは、やや忙しなく感じられたもので、当初からこの日「一択」でした。)

少し早めにシネウインドに到着してみると、そこにはUTOPIAさんのポップアップストアが出来上がっていて、UTOPIAさんの姿がありました。で、それに加えて、池ヶ谷さんも目に留まり、嬉しさマックス♪おふたりと話をしながら過ごしていると、Noismサポーターも含めて、観客がどんどん集まってきます。他に、今回上映の映像を担当された梨本諦鳴(なしもとたお)さんの姿も見られましたし、Noismの山田勇気さん、出演された浅海侑加さんとカイ・トミオカさんも駆け付けて来られました。

19:30、先ず、映像から。3月のショーを観ていなかったもので、(実際には、YouTubeで観ていたのでしたが、)何もかもが新鮮に映りました。Noism1メンバーによるNoismとは異なるパフォーマンス。そしてそれを支える裏方さんたち。さぞや準備も大変だったのだろうなぁとも。

「ODORU」の役割で出演されていたNoism1メンバーは前述の池ヶ谷さん、浅海さん、カイさんに加えて、ジョフォア・ポプラヴスキーさん、井本星那さんと、併せて5人でしたが、その他、チャン・シャンユーさんの姿も銀幕に映し出されていました。(浅海さんとシャンユーさんはNoismを離れるということもあり、よく見とかなきゃと思ったりもしました。)

(Photo by Shinobu Kobayashi)
(Photo by Shinobu Kobayashi)

34分間の上映後、お待ちかねのトークショーの始まりです。司会は堀綾香さん(三条市・nailAtelier Twill)。親しい間柄の3人と見え、寛いだ雰囲気のなか、トークは進んでいきました。以下に、話された内容から少しご紹介します。

  • 従来型のファッションショーは「高嶺の花」みたいな感じがしたり、メディアや玄人、業界の人のためのものとの感じがして、もっと面白いものがつくれるのに、と感じていた。新潟に住む人たちに、踊りを通じて、異空間を楽しんでもらいたいと思った。(UTOPIAさん)
  • 衣裳は五泉ニット製。どんな動きをしても、服が揺れてくれる。こんな動きをしたら揺れてくれるよねとか話しながら、振りも変えていった。(池ヶ谷さん)
  • 「旅する衣」をテーマに、「19歳の少女」の旅先での出会いとか経験などをまず「詩」にして、昨年冬から洋服作りなどもスタートさせた。池ヶ谷さんにも同じ「詩」を渡して、踊りを作ってもらうかたちをとった。どんなものになるか楽しみだった。(UTOPIAさん)
  • Noismにおける創作は芸術監督(金森さん)がやるが、今回は自分が構成を考えて、みんなで振りを作っていった。みんなの個性や好きな動きをピックアップして作っていったので、より「フリーダム」を感じた。(池ヶ谷さん)
  • 映像化されたものを見ると、ガラッと変わったものになっていて新鮮だった。音楽も変わっているし、様々な視点から見ることが出来たし、洋服に寄った場面など素材感がわかって、迫力があった。(池ヶ谷さん)
  • まだ始まったばかりという感じ。新潟の「文化」も踏まえて、「行先」を考えていきたい。今、小千谷縮(おぢやちぢみ)に興味があり、学んでいるところ。新しい素材、新しいアプローチを取り入れて、また、新潟でファッションショーをやりたい。(UTOPIAさん)
  • 自分の作品をつくれる場を増やしていきたい。「新潟のよさ」を伝えられる人になりたい。(池ヶ谷さん)
  • 会場からの質問①「洋服とNoismのダンスで、それぞれの色が『衝突』するようなことは生じなかったのか」に答えて: *池ヶ谷さん「Noismらしく動くという意識はなかった。どう動いたら、素材をどう見せられるかについて、ディスカッションすることを楽しんだ」  *UTOPIAさん「以前、『水と土の芸術祭』の折、人を介して、池ヶ谷さんから依頼を受けて、衣裳を担当したことがあり、その際、ただ止まって美しいだけでなく、例えば、捻じれたときのシルエット的な美しさを求めていくなど、本当に勉強になった。今回に関しては、Noismダンサーが着るからという意識はなく、過度に、洋服を踊りに寄せたりすることはしなかった」
  • 会場からの質問②「春の県政記念館でのショーのときの音楽は誰が選んだのか」に答えて: *池ヶ谷さん「私が、自分の好きな曲(5曲)を使った。いつか使いたいとセレクションしていた5曲だった。歌詞に合わせて振りを考えたような部分もあった」  *UTOPIAさん「今回の映像に付けられたものは、いちから作ってもらった音楽だった」

トークショー終了後も、ポップアップストアでUTOPIAさん製作の洋服などを見ながら、話しに興じる姿が多く見られ、万代シティ第二駐車場ビルの「あの一角」は常より遅い時間まで煌々と灯りが点されるなか、賑わいを残していました。蒸し暑い夏の夜のこと…。

(shin)

舞台と客席に幸福な一体感、15周年記念公演・新潟楽日♪

2019年7月21日(日)の新潟市は、3日間の15周年記念公演期間中、唯一「晴れ」と呼んでよい一日。少し動くだけで汗ばむ気温の中、自動ドアを通って、りゅーとぴあに入ったとき、エアコンが利いた館内の涼しさに救われた気がしたのは私一人ではなかった筈です。

活動期間についての結論が出ていないなか、新潟公演の楽日の舞台を観ようと集まってきた人たちは、胸中、それぞれに何とかして表出したい強い思いを抱えているようでした。ですから、開演前のホワイエは華やぎに混じって、何か大事なものに向き合う前の決然たる空気感があるようにも感じられました。

それが錯覚でなかったことは程なく示されることになります。最初の演目『Mirroring Memories-それは尊き光のごとく』が金森さんのソロから始まりました。冒頭すぐのことです。「ブチッ」、音が一瞬飛ぶ小さなアクシデントがあり、客席もハラハラ。しかし、当の金森さんが心を込めて踊りあげていくので、観る側も案じる気持ちを傍らに、固唾をのんで見詰めることができたのでした。金森さんの放つ気が客席に及び、観客も舞台と一体化していきます。その結果、金森さんのソロが終わったその瞬間、期せずして拍手と「ブラボー!」の掛け声が起きたのです。おとなしい反応で知られる新潟の客席では実に珍しいことだったと言えるでしょう。

その後、観客側から舞台上の演者に届けたい思いは、シーンが終わるたびに拍手のかたちをとって劇場内に木霊することとなったのでした。その場にいて、周囲と一緒に拍手していると、目頭が熱くなってくるのがわかりました。一体感が高まっていく劇場の、それはそれは感動的なこと!その場に居合わせたことで、多幸感に浸ることができました。

私たちの大切なNoism。カーテンコールのない『Mirroring …』のあとに、そしてカーテンコールが繰り返された『Fratres I』のあとにも勿論、大きな拍手と「ブラボー!」の掛け声が響いたことは言うに及ばないでしょう。

幸福感が極まるカーテンコールの最終盤、横一列に並んだ舞踊家たち。つつっとその中央位置を離れた金森さん、舞台下手袖に移動すると、今季末にNoismを離れるふたりの舞踊家に贈るためのふたつの花束を抱えて戻ります。オレンジ系の花束はシャンユーさんに、次いで、赤系の花束は浅海さんに手渡されました。渡すたびに、愛情と労いを込めたハグが添えられたのですが、身長差のある浅海さんに対しては、中腰になってハグしようとする金森さんのユーモラスな姿に、会場からは温かみのある笑みが零れ、幾分か寂しさが中和されるように感じました。まったく素敵な光景だったと思います。

更に、カーテンコールの一番最後には、舞台上の金森さんからスタッフに対して、そして、客席に向けて拍手をする仕草が出ると、それが横一列に並んだ舞踊家全員に拡がり、つまりは、場内にいた全ての者が拍手に参加するかたちになることで、幸福な一体感も最高潮に達し、新潟の楽日は締め括られていきました。笑顔の舞踊家、笑顔の観客…。

その後、暫くして、おりていた緞帳が再びあがると、すっかり後片付けが済んだ舞台上、金森さんによるアフタートークです。いつにも増して多くの質問シートが寄せられ、それらに答えるかたちで進められていきました。以下に、金森さんが話された内容を少しご紹介いたします。(公演内容に深く関係あるものに関しては、東京公演が控えている事情から、ここでは触れずにおきます。)

  • 『Fratres I』に関して、こんなに集中を要する10分ってあるのだろうかと感じる。
  • 使用楽曲中、歌詞のあるものについては、その意味から振付を行っている部分もあるので、この後、NoismのHPにアップすることにしたい。
  • 黒衣を用いたきっかけ: 日本に帰国後、文楽を観て、いるけれど、いない、或いは、いないものとして享受する奥深さに衝撃を受け、その豊かさに惹かれて、『Nameless Hands』にて初めて登場させた。人生の節目節目で、何かしらの力を感じて生きてきたこととも無関係ではないと思う。
  • アフタートークについて: 欧米でもカンパニーや劇場によって有無の別がある。(NDTはなし。リヨン・オペラ座はプレ・トーク形式。)自分としては、生の質問を聞きたいという思いがあるほか、舞踊家がどのように過ごしているのか知ってもらうことで、劇場文化を共有したいという思いから行ってきた。これからも新潟ではやっていきたい。
  • 発想のタイミング: 何でもないときに思いつく場合も多いが、それは常に考えているから。今回も、お風呂に入っているときに着想を得た。
  • 踊りが持つ力: 非言語的表現。空間のなかに人がいて、明かりが当たり、音楽が流れると、何も言わずして、それだけで豊饒な奥深さを表現し得る。言語化も数値化もできないものを表現する力が踊りにはある。
  • 長い作品と短い作品について: 長い作品は緊張感の持続が緩む瞬間があり、どう緩ませて、どう引き締めるか。短い作品はクレッシェンドでいけてしまうところがある。長短、どちらも好きである。
  • 『Fratres I』に関して、祈りについて: いつ頃からかわからないが、朝、稽古場に行き、自分の身体に耳を澄ましてみる行為が祈りに通じてきた。精神的、超越的なものへの献身。身を賭して、毎日、祈っている。
  • Noismが目指すもの: 舞踊の歴史を再学習し、身体に落とし込み、お客さんに対する問題提起として届けていくなか、ジャンル分けが無効となるような、「何かNoismなんだよね」としか言えないものを目指している。
  • 世界と地元(新潟): 誤解を恐れずに言うならば、芸術家としては、常に世界の中にいたい。新潟にいたことで、自分の作風がどうなったかという分析はしていないが、幸い、ふたつの目があるので、左右の目で世界と地元を見ていきたい。
  • 伝え聞く恩師(モーリス・ベジャール)の遺言、「過去を振り返ってはならない。前に進むんだ」の通り、小さなことであっても、常になにか新しいことをしていきたい。
  • 「Noismを支援したい」と、その方途を訊ねる声に答えて、金森さん、「客席を埋めてくれること、そしてお金の話になって恐縮だが、活動支援会員になってくれることがある。でも、一番はやはり、こうして観に来てくれること。周りの人を騙してでも連れて来てください」と笑いを誘うことも忘れませんでした。
  • 身体と向き合い、今、できることを続けていくことで、祈ることしかできない。これからも見続けてください。等々…。

今週金曜日からの3日間(7/26金、27土、28日)は、めぐろパーシモンホール・大ホールでの東京公演が控えています。身体に加えて、音楽、照明、衣裳、演出その他、混然一体となって観る者の心に食い込むのは、新潟も東京も変わらないことでしょう。お待たせしました。目黒でご覧になられる方、どうぞ目一杯ご期待ください♪

(shin)

Noism15周年記念公演・新潟2日目および交流会のことなど

2019年7月20日(土)、この日は朝から落ち着かない天候で、基本、雨模様ながら、ほぼ数分ごとに止んだり降ったりを繰り返すため、それに合わせて傘を閉じたり開いたりと忙しいうえ、蒸し暑いのは前日同様で、とにかく、始末に負えない天気の新潟市でした。

それ以外にも、あらゆる種類の「始末に負えなさ」を越えて、私たちに突き刺さってきたもの、それがNoismの15周年記念公演(中日)であったことは説明を要しますまい。

りゅーとぴあ・劇場の舞台で展開されたのは、始末に負えない天候やら、その他、始末に負えない個人的な事情やらとは隔絶した、いわば普遍的な敬意やオマージュ、更には普遍的な祈りの舞踊。

体感温度的に言うなら、震えたり、胸が熱くなったり、舞台を見詰める身体は、実際の寒暖計が示す数値をよそに、それとはまったく無縁の温度を体感し続ける65分間(『Mirrroring Memories-それは尊き光のごとく』)だったり、15分間(『Fratres I』)だったりした訳です。あるときは凍えたり、またあるときは熱く滾ったり。これ、Noismの舞台を観ているときには、極々自然なことに過ぎません。

前日に比して、割とおとなしめだった2日目の客席でしたが、『Fratres I』が終わった後、カーテンコールを重ねるうちに、この日も「ブラボー!」やらスタンディングオベーションやらは拡がりを見せましたし、新潟市の観客も変わってきているなとの印象を持ちました。そして豊かな情感を体感した人の表情は例外なく幸福そうな笑顔になるものです。終演後のホワイエに溢れていたのはまさしくそうした笑顔に他ならず、Tシャツを求めようとサイズを思案する姿や、活動支援申し込みのブースで書類に必要事項を書き込む姿が多数見られたことも特記しておきたいと思います。

とかく「わかる/わからない」で語られがちですけれど、それを越えて、更に深いところで観た者を揺さぶる存在、それがNoismなのです。観た者の心に深く食い込むNoism、一人でも多くの方に、是非とも「生」の舞台の凄さを体感していただきたいと思います。たとえ、頭では容易に整理がつかなかったにせよ、身体的に物凄い側面を目撃し続けたことで、確実に何かが伝わってくる筈です。驚くに値することかもしれませんが、これ、Noismでは特段珍しいことではありません。

Noismに注いだまなざしは、想像を超えるほどに大きな感情の奔流と化してあなたに戻ってくることでしょう。あなたに送り返されるもの、それは未だ経験されたことがない未踏の感情と言えるかもしれません。それはひとり優れた芸術のみが可能とするところであり、Noismは、15年の長きにわたり、一貫して、そうしたことをなし得る稀有な存在であり続けているのです。

かように、観終わると語りたくなるのがNoismです。そしてその反面、なかなかうまくは語り得ないのもまたNoismです。

そんな思いを抑えきれない者たちが、この日の公演後、オリエントイタリアン「Iry(イリィ)」に集いました。NoismサポーターズUnofficialとさわさわ会の合同交流会です。遠くは横浜からの参加者も交え、美味しいお料理と飲み物をいただきながら、それぞれが金森さんとNoism、或いは井関佐和子さんへの熱い思いを語り、頷き、共感したり、新たな発見をしたりと、とても幸福で有意義な時間を過ごすことができたと思います。今回、都合がつかず、参加を見送った方も、次回は参加を検討してみてください。愛情が深まること間違いなしです。

で、早くも新潟公演は楽日を迎えます。あれほど待ち遠しかった公演も、いざ幕が上がると、あっという間ですね。

終演後には、金森さんのアフタートークも予定されております。この際、どんなことも金森さんに訊いちゃいましょう。きっと、金森さんは丁寧に答えてくださる筈で、翻って、もっともっとNoismを身近に感じられるようになる筈です。新潟楽日、是非ともお運びください。

(shin)

超えていく金森穣Noism♪ 15周年記念公演・新潟初日

2019年7月19日(金)。一時、物凄い雨量が人を慌てさせた午前中を、その後、雨脚は弱まるも、蒸せかえるような息苦しい午後の時間を凌いで迎えた19時。喧しい世間をよそに、その時その時に最善の選択をしていかんとする金森さんが仕掛けた「15周年記念公演」、その初日。

ホワイエには、「新潟の奇跡」でもあるNoism15年間の軌跡がところ狭しと掲げられ、「祝祭空間」の趣きが濃厚です。過去作品のチラシを集めたボードに、頭上高くズラリ並んだ公演ポスターたち、更に、篠山紀信さん撮影の『中国の不思議な役人』の井関さんパネルに、『NINA』中国公演時の数種の大判ポスターなども目を引きます。どれも、じっくり眺めていたいものばかりなのですが、圧倒された私などは、落ち着きを失ってしまい、なんとかスマホに幾枚か画像を記録させることができただけ、そんな塩梅でした。(汗)

映り込みご容赦願います。個人的には、「Mirroring Memory」となっております。(笑)

そして19時。いよいよ公演の幕があがりました。まずは、『Mirroring Memories-それは尊き光のごとく』。昨春、上野の森バレエホリデイでのみ上演されただけの記念碑的な作品の改訂版です。2007年、金森さんのお誕生日(11月22日)に、恩師モーリス・ベジャールがお亡くなりになるという奇縁。それを機に、ご自分の作風も変わったと回顧される金森さん。「抗うことのできないどうしようもない力」の象徴として頻出する黒衣に纏わる10の場面を抜粋して、金森さんのソロパートの冒頭部と新たな振付を含む感動的なラストで挟んで構成されています。65分間の愉悦と感動。抜粋元の作品名も示されますので、鑑賞の手助けになります。ご覧になられた後にポスターやチラシを探してみるのも楽しいかもしれませんね。

しかし、かく言う私は、『Mirroring …』を再見したら、もうその感動の大きさにもちこたえているのに精一杯で、10分の休憩はあたふたするばかりで、とてもとてもなにかに充てるなどできなかったのですが…。(再びの汗)

休憩後、新作『Fratres I』の「本番」に向き合いました。絶句。公開リハーサルを2度見せてもらっていたというのに…。文字通りの絶句。これは!金森さんがメディア向けの3度目の公開リハーサル後の囲み取材で、「トップシークレット」という表現を用いた意味が判ろうというものでした。超弩級!ただただ物凄いものを観たとしか…。

確かに公開リハでも見ていました。基本的には同じものでしょう。しかし、これは別物です!断言します。まんまと金森さんにしてやられた、そんな気もするくらいです。まあ、それもいつものことなのですけれど。練度を増し、照明と演出も加えた舞台には驚愕する以外ありません。超えていくのです、金森穣Noismは。ですから、彼らから目を離すことはできないのです。あの透徹した美しさ、呼吸することさえ忘れるほどの厳粛さはまさに圧巻。魂が震えるというのはこのことです。わずか15分というのに、完全に観る者を現実から別次元へと連れ去ってしまいます。それ以上はここでは書きません。是非、ご体感ください。

終演後、客席もビビッドに呼応しました。割れんばかりの拍手に、飛び交う「ブラボー!」の声。緞帳が下がり上がりするたびに増していくスタンディングオベーションの人数。見回すと、幸福そうに顔を上気させて拍手し続ける人以外目に入ってきません。それくらい、圧倒的な15分間の視覚体験です!

一方、前半の『Mirroring …』のあとは緞帳が下がると、カーテンコールもなく、あっけないほどに、すぐ客電が点き、休憩を知らせるアナウンスが入りますから、拍手は後悔なきよう、短期集中で、出し惜しみ厳禁ですね。

超えていくのです、金森穣Noismは。まさにまさに。この公演を契機に、彼ら自らの手で新たな契約更新を勝ち得ていくこと間違いなし、そう確信した宵でした。「新潟の奇跡」、永遠に♪

最後に物販情報です。今回、初登場の夏らしいボーダーのTシャツが色・サイズ違いで2種(紺・グレー、各3500円)に、バッジとワッペン(各1200円)がございます。いつ着ようかしら。どこに付けようかしら。ご鑑賞の記念に、そしてNoism支援の一助に是非ご検討ください。

(shin)

東京文化会館小ホールに登場したNoism

Noism1特別公演:『Mirroring Memories-それは尊き光のごとく』 〈上野の森バレエホリデイ2018〉(2018/04/28~30)

山野博大(バレエ評論家)

初出:サポーターズ会報第34号(2018年7月)

 東京で本格的なバレエ公演が行われるところとしては、上野公園にある東京文化会館の大ホールが広く知られている。その正面入り口の左手の緩やかなスロープを登ったところにあるコンサート用の小ホールが舞踊のために使われることは最近ではほとんどない。しかしここは天井の高い石造りの荘重な雰囲気を漂わせた空間であり、かつてはときどき舞踊にも使われていたのだ。その小ホールに、会館主催の《上野の森バレエホリデイ2018》の特別公演として新潟市の公共ホールりゅーとぴあの専属舞踊団 Noism1 が登場した。そして金森穣の新作『Mirroring Memories -それは尊き光のごとく』を上演した。ドアーサイズの鏡10枚を横に並べた舞台がひろがっていた。鏡は半透明でその後ろにあるものに光が当たると、前と後ろが同時に見える仕掛だ。鏡をいろいろに並べ替えて舞台を作った。

 金森のソロから始まった。シェイクスピアの芝居などで開幕に役者が登場し口上を述べる場面を思い出した。しかしこれは、エコール=アトリエ・ルードラ・ベジャール・ローザンヌで、彼が振付を習った当時の初心を振り返るシーンだった。金森は、師の舞踊劇創作の手法を彼の方法で踏襲し、作品を創り続けてきた。ここでは、2008年の『人形の家』より「彼と彼女」、09年の『黒衣の僧』より「病んだ医者と貞操な娼婦」、10年の『ホフマン物語』より「アントニアの病」、11年の『Psychic 3.11』より「Contrapunctus」、12年の『Nameless Voice』より「シーン9-家族」、14年の『カルメン』より「ミカエラの孤独」、15年の『ASU』より「生贄」、16年の『ラ・バヤデール-幻の国』より「ミランの幻影」、13年の『ZAZA』より「群れ」、17年の『マッチ売りの話』より「拭えぬ原罪」のハイライトを次々に披露した。

 黒衣(くろご)とか、後見(こうけん)と呼ばれる舞台で演技者を助ける役割の者が、日本の能、歌舞伎、日本舞踊などの世界には存在する。彼らは着物の肌脱ぎの手伝い、早替わりの糸の引き抜き、小道具その他の受け渡し、不要となったものの取り片付け、役者の座る椅子の調整などを行っているが、もともとは演技者が舞台を続けられなくなった時に、即座に代わることを主な役割とする人たちだった。客席にいる将軍などの要人に対して、舞台の中断があってはならないという配慮から用意されたと言われている。

 その黒衣が金森の作品にはしばしば登場して重要な役割を担ってきた。後見は着物姿だが、黒衣は黒装束に黒頭巾。日本の古典芸能の世界では、どちらも観客には見えていないことを約束事として舞台は進行する。ところが金森の使う黒衣は、黒の装束は同じでも、その役割はずっと重い。ドラマの進行そのものが黒衣のコントロール下にあるような感じを受ける場面もあるほどだ。主役同士の互いの意志だけで世の中の諸事が進むわけではなく、何かより大きな力によって思いがけない結末に転じて行くのが現実だ。そのようなところで、彼らの存在が際立つ。『Mirroring Memories』を見て、私はその感をいっそう深くした。

 最後は金森と井関佐和子のデュエットだった。女性ひとりを舞台中央に残して彼らは鏡の背後に…。鏡のそれぞれには、それまで彼の作品を踊っていたダンサーたちがすでに並んでいた。その眺めは、役者の絵看板を並べた芝居小屋の風景であり、人気俳優のブロマイドを並べたような感じでもあった。彼は、日本の舞台芸能独特の黒衣を有効に活用する手法も加味して、師匠のベジャールに倣い舞踊劇を作り続けてきた。ここで上演された『Mirroring Memories』では、ハイライトを並べたことにより、彼の手法がより明確になった。 

 私は、彼が選んだ作品のすべてを見ていなかったし、そのハイライト部分がオリジナルのどのあたりだったかを明確に特定できないこともあった。また舞踊作家自身が自身の過去の作品を再演すると、どうしても今の自分を抑えきれず、オリジナルから離れるものだ。そんなこともあって、次々に手際よく展開された上野文化会館小ホールでのダンスの奔流を、私は彼の最新作という印象で見せてもらった。

サポーターズ会報第34号より