金森さん「このタイミングでこのような体制で挑めることに感謝」(9/27記者会見)

2019年9月27日(金)午後2時半、「 りゅーとぴあ劇場専属舞踊団 Noism 第6期活動期間の更新『Noism1+Noism0  森優貴/金森穣 Double Bill』製作発表 記者会見」に参加してきました。

会場はりゅーとぴあ ・ 能楽堂のホワイエ、 出席者は中原八一新潟市長、金森さん、りゅーとぴあ支配人の仁多見浩さんの3名。傍らに井関さん・山田さんをはじめとするNoismメンバーが勢揃いするなか、中原市長の「よろしくお願いします」の言葉から会見は始まりました。

まず最初に、中原市長がこの一年間を「Noismの活動を理解する期間が必要だった」としながら、「Noismの活動に支障をきたさないように」これまで15年間の活動を検証し、さる8月24日、りゅーとぴあ及び金森さんに課題と方向性を伝えたところ、「本当に真摯に検討してくれた」と説明。Noism・りゅーとぴあと協力しながら、市民との関係を築き、レジデンシャル組織としての優良事例となること、新潟市の踊り文化に対し、好影響を与えることで、より一層の高評価を獲得していく期待を語りました。

仁多見支配人は、2022年までの活動を認めてもらったことに感謝しながら、課題には「身が引き締まる思いがする。りゅーとぴあとして真摯に受け止め、改善に取り組んでいきたい」と第一声。続けて、「意思疎通を図りながら、全国のモデルとなり得るよう努めていきたい」と。

金森さんは皮切りに、中原市長には、「難しい判断と決定」であっただろうことに思いを馳せて、そして仁多見支配人には、連携の重要性に鑑みて、「力強い協力」を申し出てくれたことに対して、ともに感謝を口にし、「このタイミングで、このような体制で挑めることに感謝します」とも。

次いで、まず、舞踊団の総称を、これまでの「Noism – RYUTOPIA Residential Dance Company」から「Noism Comapany Niigata」に改称する旨を発表。これは、国外での「RYUTOPIAとは?」と国内の「Residentialとは?」の疑問を一挙に解消しながら、より単刀直入に、「Niigata(新潟)」の名を国際的に発信することを可能にするもの、としました。

更に、新体制として、これまでのNoism1とNoism2に、プロフェッショナル選抜カンパニーNoism0を加えた、3部体制にすること、舞踊家とスタッフに関しては、舞踊家1名減、スタッフ1名増で臨むことが触れられました。

その後、「提言」を受けて纏められた「活動方針(案)」(文化政策課)に盛り込まれた6点の課題改善に向けた取り組みや方向性が説明されました。

①地域貢献のための活動: 市内の舞踊団体との連携(R2秋・新潟市洋舞踊協会合同公演における金森さんによる新作振付)、「Noismスクール(経験者向け・初心者向け)」の新規実施、「柳都会」・「公開リハーサル」等の継続実施、更に、市民へのスタジオBの提供等。

②国内他館との信頼関係・ネットワーク: 少数精鋭の選抜カンパニーNoism0(金森さん・井関さん・山田さん)は小規模の故、他館との連携のし易さというメリットがあり、連携には好都合と。

③Noism以外の舞踊の提供: 金森さん以外の振付家招聘公演として、年末からの『Noism1+Noism0 森優貴/金森穣 Double Bill』を実施。独・レーゲンスブルク歌劇場ダンスカンパニー芸術監督を辞し、帰国した森さんに帰国後1本目として、Noismへの振付を委嘱。

④コンプライアンス・意思疎通、⑤労務管理、⑥予算減の可能性: 規約等を再確認のうえ、適切に進める(④)、十分に協議のうえ、改善に努める(⑤⑥)、とされました。

金森さんの説明に続き、メンバーを代表して、井関さんと山田さんもこれからの活動について語りました。井関さんが自身の経験に重ねて、「若い世代の人たちにとって、時間・空間・人のサポートは重要。これからも与えていって欲しい」と語れば、山田さんも「(Noism2リハーサル監督という)責任ある立場として、遠い未来を見つめて、よりよい価値をつくっていきたい」と話しました。

その後、簡潔に、(極めて簡潔に、)『森優貴/金森穣 Double Bill』について触れられたあと、報道各社からの質疑応答に時間が割かれました。ここでは、それらを通して語られたことをまとめてご紹介します。

仁多見支配人: 公演を観ることが生き甲斐になったり、観ることで人生観が変わったり、町の賑わいにも繋がったりと、芸術活動の意味は大きい。公共劇場に課せられた責任の重さとともにやりがいを感じる。

Noismはりゅーとぴあ専属の舞踊団、それをどう支えていくかが課題解決に向けて最も重要なところ。職員全体がそういう意識を共有しながら進めていく。公演の度、スタッフには負担も大きい。実態に目を通しながら、金森さんと一緒に体制作りをしていきたい。

支配人になってから、初めてNoismの公演を観た。言葉にならない感動とはこういうものなんだなと知った。人生観も変わるくらい凄い。必ず感動します。まず一度観ていただきたい。

中原市長: 文化を創造し、世界に向けて発信していくところに予算を使う意味がある。「3年後」は正直、未定。レジデンシャルカンパニー制度が新潟市として持続可能か、全国的にも意味を持ち得るか、定期的な検証は必要。

今回、私が市長になって検討することになった。そのなかでも、金森さんはキチンとした話し方をされる。世界的にも評価される金森さんが真摯に受け止めてくれ、解決しようと決意してくれたことを有難く思う。こういう方から新たに色々取り組んでいただくのだから、必ず評価は高まっていくものと確信している。新たなファンも必ず生まれる筈。

名称も新たに「Noism第二幕」の開幕。芸術性の高い素晴らしい舞踊を楽しんでいただきたい。期待していただきたい。是非応援してくださいと言いたい。

金森さん: Noismの存在理念が討議されたのは今回が初めて。特別の感慨がある。それぞれの「課題」に対して驚きはなかったが、同時に、どれもNoismという一舞踊団だけで取り組める性質のものではない。支配人から「力強い協力」の言葉を得て、取り組めるんじゃないかと思うようになった。

「財政再建」問題は、新潟市民として「関係ない」と言って済ませられるものではない。粉骨砕身、頑張っていくことしかない。時間は大事だが、あればいいというものでもない。限られたなかで、成果を出していくことが問われている。具体的に動いて、適宜、その都度、改善していきたい。

かつて、芸術家の後ろにパトロンがいたものが、社会制度の中に落とし込んで劇場が成立するようになった。どのようなものを発信していけば地域のためになるのかという問題は、一芸術家としては相容れない部分もある。右目で新潟を、左目で世界を見て、その焦点に浮かび上がるものが自分の現実。

「新潟から世界へ」と言っても、誰も本気で信じてはくれなかったんじゃないかな。(笑)それから15年。今、それだけのレベルのものを地域に還元していきたい。

劇場の扉を開けて外に出ていくことをしながらも、本義は舞台表現。是非、観に来ていただきたい。

会見が始まると、すぐに固さはやわらぎ、終始、穏やかな表情で前向きに語る3人を目の前にして、課題は課題として、一致協力してそれに向き合おうとする新潟市とりゅーとぴあと金森さん(Noism)を認め、少しホッとし、漸く、あの「提言」に対して抱いた違和感も薄らぎました。

未だ、予算や市民貢献活動ほか、制約は多くありますが、「新生Noism Company Niigata」として新たなカンパニー・モデルを立ち上げていってくれるだろうこと、と同時に、支援の輪が広がり、「新たな金森ファン、Noismファン」(中原市長)に囲まれ、誰知らぬ者などない、揺るがぬ「新潟市の顔」となる日のことを思いました。それに向けて、私たちも頑張って支えて参りましょう。新たな一歩が踏み出されました。

終了は見事に予定時間ピッタリの午後3時半。日曜日の「柳都会」も楽しみです♪

(shin)

『still/speed/silence』立錐の余地ない利賀山房。木の香、闇、切っ先鋭い音、そして…

2019年9月22日(日)、第9回シアター・オリンピックスにおいて僅かに2回だけ上演されるNoism0『still/speed/silence』、その2回目を観に行ってきました。会場は富山県の「合掌文化村」利賀村、利賀芸術公園内の利賀山房(キャパ:250名)です。

いきなり少し時間を遡り、尚且つ、極めて個人的な事柄から書き起こしますが、ご容赦ください。

2019年6月30日(日)、まだこの年の夏があれほど暑い夏になるとは予想だにしていなかった頃、シアター・オリンピックス公演チケットの電話予約受付が始まりました。全公演一斉の受付でしたから、電話は容易には繋がりません。

更に会場・利賀山房に行くには、どうやっても山道をくねくね行く以外のアクセスなどある訳がありません。ネットで調べて以来、「細い山道じゃん。怖い」と尻込みする連れ合いはまだ行く決心がつかずにいました。「ひとりで行って」、お昼過ぎにそう言いながら電話をかける手伝いをしてくれていた彼女の電話の方が繋がるのですから皮肉です。というか、運命だったのかも。ふたりで行くことになったからです。

それから80日強を経て迎えたこの日、9月22日。件の山道を含む新潟・利賀間往復630km、合わせて8時間の日帰り自動車旅。距離的な隔たりはそのまま時間的な隔たりであり、それを越えていく移動はまさに「CREATING BRIDGES(橋を架ける)」がごとき趣きでした。半端ない緊張を強いられた運転の末、なんとか無事に利賀芸術公園に到着したのは午前11時。開演前にグルメ館を訪れて、友人・知人にも会い、ボルシチやらパスタやらを楽しんで、緊張をほぐした後、いざ、利賀山房へ。Noism0『still/speed/silence』です。

前売りは完売、キャンセル待ちの長い列もできていました。開演20分前の13:40、整理番号順に入場開始です。コンクリート造りの建物内に入り、靴を脱いで、会場に進むと、いきなりの明から暗。目に飛び込んでくる能舞台を思わせるステージも柱を含めてほぼ黒一色。唯一の例外は、その奥の襖が淡い黄のような色をしているのみ。足下、木造りの階段席は、鼻孔に心地よい木の香を伝えてきます。これが最後の鑑賞機会とあって、できるだけ詰めて座ることを求められた客席は立錐の余地もないほどで、腰を下ろした際の姿勢を変えることすらままならないくらいでした。

14:10、ステージ両脇に配されたテグム、筝、打楽器の生演奏が始まり、切っ先の鋭い楽の音が場内の空気を震わせるなか、上手側から黒い衣裳の金森さんが姿を現し、舞台上手の柱脇に置かれた楕円形の鏡を前に座ると、虚ろな目でそれを覗き込み、微動だにしません。そこに下手側から井関さんが登場。井関さんも黒い衣裳ですが、黒いのは衣裳だけでなく、鋭い目をした井関さんの存在そのものが妖しく危険な黒さを発散して止みません。このふたり、イニシアティヴを握るのは井関さんで、絡んでは、挑発し、操り、翻弄し、挑んだ挙句、金森さんの存在をその黒さで侵していきます。侵犯、越境、同化、葛藤、否定、争い…、そうした、まさに闇が跳梁する舞台。「黒」の権化、井関さん。こうした役どころは実に珍しいと言えます。

受け止める私たち観客は、目と耳に加え、鼻まで預けきったうえ、身動きもかなわず、ほぼ五感を握られ、既に手もなく、怪談じみた作品世界へと幽閉されてしまっています。否、日常から非日常へと、あらゆる隔たりを自ら越えて、進んで幽囚の身となることを選んだ者たちですが。

確かに、既視感めいたものもなくはありません。実際、能の『井筒』に似ているとの言葉も目にしましたし、坂口安吾『桜の森の満開の下』のようだと言う友人もいます。更に勅使河原宏『砂の女』めいたテイストがあるようにも思われました。しかし、そうした類似性を持ち出してみたところで、なおこの『still/speed/silence』が屹立するのは、実演芸術としての「一回性」が極限まで際立っているからだということに尽きるでしょう。私たち観客はむせ返るような場内に与えられたほんの僅かな専有面積に座して、あの50分を、五感を総動員して、共に生きたのですから。

ラスト、男は果たして女を殺したのか。はたまた、「真に殺された」のは男の方だったのか。答えは私たち一人ひとりに委ねられたままですが、正面、最奥の襖が開くにつれ、一面の黒のその向こう、建物の外の斜面に自生する草の葉の鮮やかな緑色が溢れんばかりの四角となって拡がり出し、私たちの目に飛び込んでくるではありませんか。美しさに固唾をのむ客席。そしてそれとともに一陣の涼風が私たちの顔を吹き抜けていきました。そのときの2重の「快」は、客席で見詰める私たちの人生に直にもたらされた「快」以外の何物でもなく、利賀山房でしか成立しない「快」だったと言えます。井関さんはその眩しいばかりの「緑色」のなかに姿を消し、次いで、襖が閉ざされると、戻ってきた闇のなかに残された金森さんも下手側に歩んで去っていきました。

緞帳はありません。楽の音が収まるが早いか、無人となった舞台に向け、盛大な拍手が送られました。それに応えて、金森さんと井関さんが現れると、音量は更に増しましたし、あちこちから「ブラボー!」の声が飛び交いました。それぞれの人生に物凄い50分間を作り出してくれたことに対して、拍手を惜しむ者はいません。やがて、大きな拍手がこだまするなか、ふたりは下手側に歩み去ります。場内後方、出入口付近に控えていたスタッフが何度か「どうも有難うございました。これで…」と終演を告げようとするのですが、観客は誰一人拍手を止めませんし、誰一人席を立とうともしません。薄暗がりの中に金森さんと井関さんの姿が微かに認められることもあったのかもしれません。拍手の音はますます強くなる一方でした。その流れで、笑顔のふたりが再びステージ中央に戻ってくると、それからはもうやんやの大喝采とスタンディングオベーションになるほかありませんでした。そんな予定外のなりゆきも渾身の実演芸術ゆえ。この日、利賀山房にいて、この「50分」を共有した者は、その「熱」を一生忘れないのだろうな、そんなふうに思いました。

「芸術の聖地」、その言葉が大袈裟でないことをまざまざと体感し、上気したまま新潟へと自動車を走らせたような次第です。様々な隔たりを越えて利賀に行って良かった。そんな思いを抱く豊穣な一日でした。

(shin)

シアター・オリンピックス:Noism0 『still/speed/silence』 9/20の回(サポーター 公演感想) 

2019年9月20日(金)、富山県南砺市利賀で行われているシアター・オリンピックスを観に行きました。

演目はNoism0『still/speed/silence』です。

富山県はおろか北陸地方に来るのも初めてです。利賀は山村で交通アクセスが良くなく、送迎はあるものの、この公演後は帰りの便がないため、10数年ぶりにペーパードライバーを脱出し、レンタカーで向かいました。とりあえず無事に帰れてほっとしました。

少し早く着いたので、グルメ館で昼食をいただき(ビーフストロガノフが美味しかった!)、近くの天竺温泉へ立ち寄り湯をしました。

「天竺」といえば西遊記で三蔵法師一行が目指した場所。また、今回は行けませんでしたが、村内には瞑想の郷もあり、この地のパワーを想像させます。

わずか5時間ほどの滞在でしたが、トンボやバッタなどの虫たち・ヘビ・大きい鳥(トンビ?)・イノシシ(の寝息)、半裸で川遊びをする外国人、に出会い盛りだくさんでした。

さて、前置きばかり長くなりましたが、Noism0『still/speed/silence』。

配布されたプログラムノートによると、作曲家の原田敬子さんには作品のタイトル(still/speed/silence)を伝えた上での委嘱だったそうです。りゅーとぴあの事業計画にも「3S(仮)」とあるのを見かけました。

※原田さんも書いていましたが、この「S」は鈴木忠志氏へのオマージュであることは間違いないでしょう。

ということで私は勝手に、鈴木忠志氏に金森さん井関さんの現在地を観せるような作品を想像し、「still/speed/silence」はとても金森さんらしい3語だ、などと期待していたのですが、期待は良い意味で裏切られました!目の前で絡み合う2人は妖しさ満点。人間ではない何かを感じさせます。

やはり原田さんの曲のテンションの高さが、この作品の方向性を決めたのだろう、と思いました。

また利賀山房のみならず芸術公園、村自体から感じるパワーにも音楽・舞踊が呼応しているような不思議な感覚でした。

観た直後から「もう一度観たい」「新潟や東京でも観たい」と思いましたが、やはりこの作品は利賀ならでは、なのかもしれません。

利賀で観ることができて本当に良かったと思いました。

(かずぼ)

『あわ雪』、「真なる美」に触れる3分間(@「国民文化祭」開会式)

2019年9月16日(月)の新潟市は、単に「敬老の日」であるだけでなく、「第34回国民文化祭・にいがた2019」及び「第19回全国障害者芸術・文化祭にいがた大会」の開会式が行われる日でもあり、天皇・皇后両陛下が来県され、同開会式にご出席されるとあって、新潟駅から会場の朱鷺メッセまでの通りは物々しい規制と混雑が予想されていました。

「自動車での接近は難しそう」と、新潟駅まで電車を利用したところ、遂に見ました車内モニターのNoism映像。先ず、「新潟から世界へ」の文字が映し出されたのち、『FratresI』のアノ場面、『R.O.O.M.』の稽古風景やら『ラ・バヤデール』、『NINA』をはじめ、様々な作品が短いながら次々に流れて、いい感じの回顧モードに、「こう来なくちゃ」って具合で、新作『あわ雪』への期待はいやが上にも高まります。電車を降りると、人出も多く、予想通りに物々しい新潟駅構内、そして東大通。徒歩で朱鷺メッセへと移動しました。

14時30分。臨んだ開会式は、天皇・皇后両陛下ご臨席のもと、NHK新潟放送局の山崎智彦アナウンサーと女優の星野知子さんが司会を担当され、執り行われました。

15時。式典に続いて、お待ちかねの「文化の丁字路 ~西と東が出会う新潟~」と題されたオープニングフェスティバルの幕開けです。こちらは、総合プロデューサーも務める作家の藤沢周さんが、子どもたちに向けて、火焔型土器の昔から、世阿弥、上杉謙信、良寛と辿りながら、新潟県の歴史語りをする体裁をとり、県内各地に伝わる郷土芸能の継承という側面と、「真なる美」(世阿弥)或いは「義」(上杉謙信)、はたまた人間存在の意味(良寛)を追い求める方向性とをふたつの大きな柱にして展開されていく、文字通り「ふっとつ」(新潟弁で「たくさん」「盛りだくさん」)な構成内容でした。

冒頭、鼓童による大太鼓で始まったのち、「真なる美」に触れる3分間はラスト近くの16時20分過ぎに訪れました。県内各地の伝統芸能がひとまず「佐渡おけさ」をもって締め括られると、張り出したステージの両端を奥から進み出てくるのは紛れもなく金森さんと井関さん。全く勾配がなくフラットなウェーブマーケットにあって、階段一段分にも満たない高さしかないステージでは、おふたりの肩より下は、大勢の人の頭の陰に隠れて見づらくなかったと言えば嘘になります。アベル・ガンス(仏)のサイレント映画『ナポレオン』(1927)を思い出させるかのような「トリプル・エクラン(3面マルチスクリーン)」の中央に、その両脇を静かに降る雪をイメージした映像に挟まれるかたちで投影される金森さんと井関さんの姿を、主に見上げているような場内でした。

『あわ雪』、金森さんも井関さんも白い衣裳を纏っています。タイトルからも容易に想像されるように、踊られるモチーフは「克雪」方向のそれではなく、春までの数か月、共に過ごすものの、やがては消えていく定めの雪。そして古来、この地に住む者の精神性に深く根をおろす類の、そんな雪。ピアノによる音楽のなか、音もなく舞う雪の如く、金森さんのリフトに優美に揺れる井関さん。ふたつの身体が絡まり合う様子など、まるで雪の結晶ででもあるかのように静謐な美しさを放っていました。やがて向こう向きに座ったかのような姿勢の金森さんが、更にその身の向こう側に井関さんを横たえて、動きが静止し、この上なく美しい3分は過ぎ去りました。静寂ののち、拍手をしながら後方を振り向くと、ロイヤルボックスの両陛下も柔らかな表情でしっかりと前をご覧になりながら拍手を送っておられました。その後、再び鼓童の太鼓の音が聞こえ出すと、両脇へと、それぞれ別方向にはけていく井関さんと金森さん。また別の機会に、再び『あわ雪』を楽しむ日が来ることを願って、否、信じて拍手しました。

途中に休憩もなく、トイレに立つことさえ許されない約3時間、そのなかのほんの3分間ではありましたが、その3分間が湛えるテンションは他とはかけ離れたもので、まったく異彩を放っていたと言うほかありませんでした。エピローグ、黒い洋服に着替えて登場した金森さんと井関さん。「りゅーとぴあでの本公演も観に来てください」という金森さんの言葉に、このなかから、その誘いに応える人たちが多く出てきて欲しいものだ、そう強く思いました。

話は変わりますが、入場時に手渡された紙の手提げはズシリと重く、「何が入っているのだろう?」

で、見てみると、重さの正体は新潟県の新しいブランド米「新之助」1kg。嬉しいサプライズでした。明日はそれを使っておにぎりを作ろうと家路についたのですが、帰りの電車でもまたNoism映像を目にすることができ、いい感じの締め括りになったことは言うまでもありません。そんな秋の祝日でした。

(shin)

勝手に命名「『ロミジュリ(複)』ロザラインは果たしてロミオが好きだったのか問題」(サポーター 公演感想)

☆劇的舞踊vol.4 『ROMEO & JULIETS』(新潟・富山・静岡・埼玉)

〇はじめに:  Noismの新展開を告げる会見を待ち、心中穏やかならざる今日この頃ですが、前回掲載の山野博大さんによる『ROMEO & JULIETS』批評繋がりで、今回アップさせていただきますのは、最初、twitterに連投し、次いで、このブログの記事「渾身の熱演が大きな感動を呼んだ『ロミジュリ(複)』大千秋楽(@埼玉)」(2018/9/17)のコメント欄にまとめて再掲したものに更に加筆修正を施したものです。各劇場に追いかけて観た、曖昧さのない「迷宮」、『ROMEO & JULIETS』。その「迷宮」と格闘した極私的な記録に過ぎないものではありますが、この時期、皆さまがNoismのこの「過去作」を思い出し、再びその豊饒さに浸るきっかけにでもなりましたら望外の喜びです。

①当初、ロミオに好かれていた時でさえ、その手をピシャリと打っていたというのに、やがて、彼のジュリエッツへの心変わりに見舞われて後は、制御不能に陥り、壊れたように踊る、ロザライン。自分から離れていくロミオに耐えられなかっただけとは考えられまいか。

②他人を愛することができたり、愛のために死ぬことができたりする「人」という存在への叶わぬ憧れを抱いたアンドロイドかもと。とても穿った見方ながら、しかし、そう思えてならないのです。

③「人」よりも「完全性」に近い存在として、ロレンス医師の寵愛のもとにあることに飽きたらなくなり、或いは満たされなくなっただけなのか、と。それもこれもバルコニーから「不完全な存在」に過ぎないジュリエッツが一度は自分を愛したロミオを相手に、その「生」を迸らせている姿を見てしまったために、とか。

④というのも、全く「生気」から程遠い目をしたロザラインには、愛ほど似つかわしくないものもなかろうから。

⑤ラストに至り、ロザラインがロミオの車椅子を押して駆け回る場面はどこかぎこちなく、真実っぽさが希薄なように映ずるのだし、ベッドの上でロミオに覆い被さって、「うっうっうっ」とばかりに3度嗚咽する仕草に関しても、なにやらあざとさが付きまとう感じで、心を持たないアンドロイドの「限界」を表出するものではなかっただろうか。

⑥アンドロイドであること=(古びて打ち捨てられたり、取り換えられたりしてしまう迄は)寵愛をまとう対象としてある筈で、それ故、その身の境遇とは相いれないロミオの心変わりを許すべくもなく、「愛」とは別にロミオの気持ちを取り戻したかっただけではないのか。「愛し愛され会いたいけれど…」で見せる戯画的で大袈裟な踊りからは愛の真実らしさは露ほども感じられず、単なる制御不能に陥った様子が見て取れるのみです。

⑦更には、公演期間中に2度差し替えられた手紙を読むロザラインの映像。 最終的に選択されたのは読み終えた手紙が両手からするりと落ちるというもの。頓着することもなく、手紙が手から落ちるに任せるロザラインは蒸留水を飲んではいないのだから、「42時間目覚めない」存在ではなく、ロミオが己の刃で果てる前に身を起こすことは普通に可能。

⑧すると、何が見えてくるか。それは心変わりをしたロミオを金輪際、ジュリエッツに渡すことなく、取り返すこと。もともと、アンドロイドのロザラインにとっては儚い「命」など、その意味するところも窺い知ることすら出来ぬ代物に過ぎず、ただ、「人」がそうした「命」なるものを賭けて誰かを愛する姿に対する憧れしかなかったのではないか。

⑨「愛」を表象するかに思える車椅子を押しての周回も、アラベスク然として車椅子に身を預ける行為も、ただジュリエッツをなぞって真似しただけの陳腐さが感じられはしなかったか。そのどこにもロミオなど不在で構わなかったのではないか。そう解するのでなければ、ロミオが自ら命を絶つ迄静かに待つなどあり得ぬ筈ではないか。

⑩ロレンス医師のもとを去るのは、死と無縁のまま、寵愛を永劫受け続けることに飽きたからに他ならず、彼女の関心の全ては、思うようにならずに、あれこれ思い悩みつつ、死すべき「生」を生きている「人」という不完全な存在の不可思議さに向かっていたのであって、決してロミオに向かっていたのではあるまい。

⑪というのも、たとえ、ロザラインが起き上がるのが、ロミオが自ら果てるより前だったにせよ、蒸留水を飲んだだけのジュリエッツが蘇生することはとうに承知していたのであるから、ロミオが生きたままならば自分が選ばれることのない道理は端から理解していた筈。ふたりの「生」が流れる時間を止める必要があったのだと。

⑫心を持たないゆえ、愛することはなく、更に寵愛にも飽きたなら…。加えて、死すべき運命になく、およそ死ねないのなら…。ロザラインに残された一択は、「命」を懸けて人を愛する身振りをなぞることでしかあるまい。それがぴたり重なる一致点は「憧れつつ死んでいく(=壊れていく)とき」に訪れるのであり、そこで『Liebestod ―愛の死』の主題とも重なり合う。

⑬これらは全て「アンドロイドのロザラインは蒸留水を飲んだのか問題」というふうにも言い換え可能でしょうが(笑)、答えは明白なうえ、蒸留水自体がロザライン相手にその効能を発揮するとは考えられないため、これはそもそも「問題」たる性格を微塵も備えていないでしょう。

⑭掠め取った手紙を自分のところで止めたロザラインには、追放の憂き目にあい、戻れば死が待つ身のロミオが、起き上がらないジュリエッツを前にしたならば、絶望のあまり、自らも命を絶つという確信があったものと思われる。そのうえで、ロミオが自ら命を絶つまで不動を決め込んでいたのに違いない。

⑮ラスト、(公演期間中、客席から愛用の単眼鏡を使ってガン見を繰り返したのですが、)ロミオの亡骸と共に奈落へ落ちるときに至っても、ロザラインの両目は、「心」を持ってしまったアンドロイドのそれではなく、冒頭から終始変わらぬ無表情さを宿すのみ。とすると、あの行為すらディストピアからのある種の離脱を表象するものとは考え難い。

⑯この舞台でディストピアが提示されていたとするなら、果たしてそれはどこか?間違っても「病棟」ではない。監視下にあってなお、愛する自由も、憎む自由も、なんなら絶望する自由もあり得たのだから。本当のディストピアが暗示されるのは言うまでもなくラスト。死ぬことすら、なぞられた身振りに過ぎないとしたら、そこには一切の自由は存しないのだから。

⑰そう考える根拠。舞台進行の流れとはいえ、もう3度目にもなる「落下」は、それを見詰める観客の目に対して既に衝撃を与えることはない。単に、そうなる運命でしかないのだ。舞台上、他の者たちが呆然とするのは、呆然とする「自由」の行使ではないのか。生きる上で、一切の高揚から程遠い「生」を生きざるを得ない存在こそがディストピアを暗示するだろう。

⑱(twitterの字数制限から)「運命」としてしまったものの、アンドロイドであるロザラインに対してその語は似つかわしいものではなく、ならば、「プログラム」ではどうか、と。もともと自らには搭載されていない「高揚」機能への憧憬が、バルコニーのジュリエッツを眺めてしまって以降の彼女を駆り立てた動因ではないか。

⑲更に根本的な問題。「ロザラインは(無事)死ねるのか問題」或いは「奈落問題」。マキューシオ、ティボルト、ロミオにとっての「奈落」とロザラインにとっての「奈落」をどう見ればよいのか?そして、そもそも、病棟で患者たちが演じる設定であるなら、先の3人の死すら、我々が知る「生物の死」と同定し得るのか?

⑳それはまた、一度たりとも「奈落」を覗き込んでいない唯一の存在がロザラインであることから、「果たしてロザラインには奈落は存在するのか問題」としてもよいのかもしれない。「人」にあって、その存在と同時に生じ、常にその存在を根本から脅かさずにはおかない「死の恐怖」。「奈落」は「死」そのものではなく、その「恐怖」の可視化ではないのか。すると、ロザラインには「奈落」はあり得ず、心変わりから自らの許を去ったロミオを相手に「愛」を模倣し、そのうえ、「愛」同様に縁遠い感覚である他ない「死の恐怖」も実感してみたかった、それだけなのではなかったか。

これらが私の目に映じた『ロミジュリ(複)』であって、ロザライン界隈には色恋やロマンスといった要素など皆無だったというのが私の結論となります。

(shin)

『ROMEO & JULIETS』、世界に誇るべき新バージョンの誕生

山野博大(舞踊評論家)

初出:サポーターズ会報第35号(2019年1月)

 新潟市の公共劇場りゅーとぴあの専属舞踊団Noism1が『ROMEO & JULIETS』を上演した。この振付を担当した金森穣は、最近のコンテンポラリー作品が複雑な動きの連鎖にこだわり過ぎ、「物語」を劇的に語るおもしろさから離れる傾向にあることを懸念したようだ。観客が難しいステップの成り行きなどを気にかけずに、舞台展開を気楽に楽しめるようにと「劇的舞踊」を企図した。そして2010年の『ホフマン物語』を皮切りに、2014年の『カルメン』、2016年の『ラ・バヤデール―幻の国』を順次発表して大きな反響を得た。その第4弾が『ROMEO & JULIETS』なのだ。これはシェイクスピアの書いた悲劇「ロミオとジュリエット」の舞踊化のはずだが、タイトルをよく見るとジュリエットが複数表示になっている。

 バレエ・ファンにはおなじみの、プロコフィエフ作曲の序曲が流れ、幕が開いた。シェイクスピアの書いた冒頭の台詞(日本語訳)が朗々と語られ、その主要部分はスクリーンに文字となって映し出された。ダンサーたちが現れると、その衣裳が長めの白衣であることに気付く。これは病院の眺めではないか。と思ううちにロミオ(武石守正)が車椅子に乗って登場。ジュリエットは複数の女性患者が……。舞台には、半透明のガラスをはめた縦長の衝立がいくつも並び、それをてきぎ移動させることで場面が変った。これは、白い壁とガラスの障壁で仕切られた病院の普通の眺めだった。冒頭でシェイクスピアの言葉を示したスクリーンには、舞台上のあちこちの様子がランダムに映され、病院内の監視モニターのように見えた。

 両家の壮絶な対決シーンが始まり、観客はあっという間にシェイクスピアの世界に引き込まれた。ジュリエット役の浅海侑加、鳥羽絢美、西岡ひなの、井本星那、池ヶ谷奏の5人がさまざまな現れ方で場面に関わった。キャピュレット家の婚約披露の宴会での、ロミオとジュリエットの出会いは、群舞の中にパリス(三島景太)とジュリエットの位置を微妙にずらした踊りを設定し、ロミオとの偶然の触れ合いの機会をこしらえた。バルコニー・シーンはジュリエットの映像を、高い位置のスクリーンに映して二人の位置関係を示しつつ、愛が急速に深まる様子をたっぷりと描いた。さらに、ティボルト(中川賢)とマキューシオ(チャン・シャンユー)の決闘シーン、それに続くティボルトとロミオの死闘が、スリリングに設定され、観客はそれらが病院の中の患者同士の出来事であることを、しばし忘れた。

 後半冒頭に金森の長いソロがあった。金森は病院の医師で患者全体をコントロールする立場にある。物語の上ではロレンスの役を演じてジュリエットに秘薬を与えるので、このソロには彼が全体を仕切る張本人であることを示す意味があったかもしれない。井関佐和子は、ロザラインと看護師の2役を演じてひんぱんに物語の流れに関わり、ダンスの見せ場をはなやかに盛り立てた。最後の墓場のシーンでは、舞台中央のベッドに誰かが横たわっている。そこへロミオが現れて二人の死の場面となる。どうやら先に横たわっていたのは井関が演ずるロザライン(または看護師)だったらしい。それを見た観客サイドは、シェイクスピアの元のストーリーを思い出して両家の和解を想像するなど、つい先を急ぎがちだ。しかしよく考えてみると、ここにロザラインが登場するのは「異常」ではないか。井関の演ずる看護師が、前の場面でアンドロイド風の動きをしていたことなどを思い返すうちに、これはシェイクスピアの芝居の最終シーンではなく、どうやら病院の一風景らしいと気付く。舞台には患者たちの何気ない日常がもどっていた。

 プロコフィエフの音楽でラブロフスキーやクランコらが振付けた「ロミオとジュリエット」が、シェイクスピアの原作を忠実に再現したものであることを我々は知っている。病院の中という状況設定以外は、展開のポイントをまったく変えることなく、金森も自分の『ROMEO & JULIETS』を作った。彼の「劇的舞踊」は、観客の心の中にあるシェイクスピア原作の記憶を刺激して、別に設定した状況に同化させ、そこに新しいダンスの場面をふんだんに織り込むことで成り立つ「舞踊作品」だった。

 病院という閉ざされた世界で、名作バレエのストーリーを再現した例としては、マッツ・エック振付の精神病院内の『ジゼル』(1982年作)がある。金森の『ROMEO & JULIETS』は、無理のないストーリー展開、要所に置かれたダンスのおもしろさ、音楽、舞台美術の的確な運用などを備えており、まさに劇的な出来栄え。世界に誇るべき病院版『ロミオとジュリエット』の誕生だった。

サポーターズ会報第35号より

(2018年9月14日/彩の国さいたま芸術劇場大ホール)

『クワトロ フロマージュ』、…あの日、Noism2で…

夏の終わり、8月31日 、土曜日の夜。

新潟市中央区のコーヒーショップ「器(UTSUWA)」で、ダンス公演『クワトロ フロマージュ Quattro Fromage』が開催されました。

2016年9月から2018年7月までの2年間を Noism2 で共に過ごした5人のダンサーたちによる自主公演。

その5人。片山夏波さん (元 Noism 準メンバー)、門山楓 さん(元 Noism2)、西澤真耶さん (Noism1)、牧野彩季さん (元 Noism2)、三好綾音さん (Noism 準メンバー) です。

このメンバーだと『よるのち』(2017年6月)、『私を泣かせてください』(2018年1月) の印象が強いでしょうか。または、酷暑の『ゾーン』(2018年7月)を思い出される方も多いかもしれませんね。

この一夜限りの公演は、片山さん発案の企画で、東京に行く前、最後に、2年間一緒に闘った仲間たちと新潟で踊りたいという思いから、「器」のマスターに頼んで、実現したものなのだそうです。

バッハのピアノ曲ほか、さまざまな音楽で、さまざまな組み合わせで踊る彼女たち。三好さんはピアノ演奏もしていました。

約40分の作品。フィナーレは全員で。

終始、瑞々しい情感が溢れていました。

(fullmoon)

新潟市が活動継続方針案を公表、ボールは市からNoism側へ

8月29日、新潟市はNoism活動継続を条件付きで、2022年8月末まで延長するとし、Noismの活動内容検証と今後の方針案を市のHPに公表しました。(以下のリンクからご覧いただけます。)

https://www.city.niigata.lg.jp/kanko/bunka/shinko/bunkagyousei/buyodankensyo.html

Noism側はこの条件に同意するかどうか前向きに検討するとのことですが、正式決定は今後の協議に委ねられています。

■新潟市(文化スポーツ部 文化政策課)のHPより、「りゅーとぴあレジデンシャルカンパニーの今後の活動方針(案)」は次の通りです。

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【活動方針】

◎レジデンシャル制度の発展・成熟を図り、創造活動を行う国内他都市の公共ホールにも波及する優良な事例となるよう、レジデンシャル活動に取り組む。

レジデンシャル活動が、公共ホールに求められる役割を果たしているか、外部評価を含め毎年度成果を検証し、改善に取り組む。

【今後のNoism 活動】

◎Noism 設置目的の(2)及び(3)を達成するため、以下に掲げる改善すべき項目について合意がなされた場合、活動期間を2 年間延長し2022 年8 月までとする。

<専属舞踊団の設置目的>

(1) 新潟において、質の高い新たな舞踊作品を創造し、全国・世界に向けて発信する。

(2) 地方から大都市に向けての新たな舞台作品の創造・発信のネットワークを形成する。

(3) 活動を通して、新潟における舞踊の普及・育成などを図り、市民文化の振興に貢献する。

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①地域貢献のための活動を積極的に実施する。

例)洋舞踊協会や高校ダンス部等とのコラボレーション、小・中・高校等へのアウトリーチ(学校訪問)活動等

②国内他館との信頼関係を築き、ネットワークを拡大する。

③りゅーとぴあ舞踊部門としてNoism 以外の公演も市民に提供する。

④業務の進め方については、りゅーとぴあの規約等コンプライアンスを遵守し、十分に意思の疎通を図る。

例)プロデュース、マネジメント担当者の配置と活用

⑤超過勤務の縮減など、スタッフの労務管理に配慮する。

⑥Noism の予算額は、りゅーとぴあの文化事業全体のバランスで調整するため、減少する可能性がある。

【評価・検証】

◎改善項目の実施状況について、活動年度終了後に自己評価及び外部評価を実施する。

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高い芸術性は評価されましたが、めでたさも中くらい、とはこのことでしょうか。

示された多岐にわたる条件を全てクリアするには、市や財団の多大な協力と、更なる予算が必要不可欠と思います。金は出さぬが口は出す、みたいなことでは困る訳です。世界に冠たるカンパニーを抱える都市という側面も最大限考慮しながら協議を進めて欲しいものです。

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皆さま、この度、公表された活動方針案ほかについて、いかがお感じでしょうか。コメント欄にて皆さまの思いをお聞かせいただけましたら幸いです。

(fullmoon / shin)

Noism《15周年記念公演》で『Mirroring Memories―それは尊き光のごとく』 『Fratres I』を見る

山野博大(舞踊評論家)

 Noismの《15周年記念公演》が、『Mirroring Memories―それは尊き光のごとく』と『Fratres I』の2作品により行われた。どちらも金森穣の振付だ。

 『Mirroring Memories』は、昨年4月《上野の森バレエホリデイ2018》Noism1 特別公演で初演したものの再演。初演の会場は、東京文化会館小ホールだったが、今回はりゅーとぴあに続き、東京のめぐろパーシモンホールという開放感を伴う明るい感じの空間での上演だった。 私は「めぐろ」公演を見た。天井の高い石造りの荘重な雰囲気を漂わせた上野から移ったことで、舞台の印象が大きく変わった。ドアーサイズの鏡12枚(上野では10枚だった)を横に並べ、その半透明の鏡の前と後にあるものを同時に見せる仕掛の中で、彼がこれまでに作ったさまざまな物語舞踊の見せ場を次々と並べた。全体の流れは初演とだいたい同じだったが、観客が客席から鏡の列を眺める角度の違い、鏡の前に広がる空間の大きさなどが「めぐろ」の観客をよりいっそう作品の奥へと引き込むことになった。

 微妙な角度で並べられた鏡のひとつひとつに、その前で踊る者の後姿が少しずつ違って映る。ソロであっても、その背後に12人分の動きが出現する光景は、見る者にある種の快感をもたらす。そのような空間での冒頭の金森穣のソロは、ローザンヌのベジャールのアトリエで、彼が振付を習った当時を振り返るシーン。金森は、師の舞踊劇創作の手法を独自に発展させて、作品を創り続けてきたのであり、その初心を改めて観客に示したのだ。金森のしっかりと体幹を鍛えた肉体から送り出される舞踊表現は、ベジャールへの想いをストレートに伝えるものだった。

 『Mirroring Memories』は、彼がこれまでに作ってきた作品のハイライトシーンをいろいろと並べて見せたものであり、前に見た時とほぼ同様の進行だった。しかし個々の場面の印象はかなり変わっていた。再演の舞台を見る観客には、その作品に対する「慣れ」が働き、理解度が増す。作品は再演されるごとに、作者と観客との距離感を縮めて行く。今回はその「慣れ」に劇場の構造の違い、そしてNoism全体の努力の積み重ねが加わったことで、金森舞踊の核心がよりいっそう明らかになった。

 やはり「慣れ」の効果は大きい。再演を見る観客はより深く場面に入り込んで、その踊りのひとつひとつをゆっくりと楽しむことができるようになる。しかし今回は、それ以上にダンサーひとりひとりが振付をしっかりと理解して、作品とみごとに一体化したところが、初演との大きな違いだった。『マッチ売りの話』の中でマッチを次々と点火させながら息絶えたかのような娘を前にした金森穣と井関佐和子の踊りの、大きく全体を包み込んだ感動的な愛情表現をはじめ、その他の場面でも個々のダンサーの肉体の動きがより強く心に沁み入る瞬間が多かった。

 『Fratres I』は、アルヴォ・ペルトの音楽による15人の群舞作品だった。「Fratres」は、ラテン語で親族、兄弟、同士を意味する言葉だそうだが、人と人の関係が薄くなり、引きこもりが多くなったり、いじめで死を選ぶ子どもが後をたたない今日この頃、現代の日本人には、心に重くのしかかるタイトルだ。それに対して金森は、全員が感情を交えずに同じ動きをこなす連鎖を見せ、その後に個々のダンサーに天井からとつぜん白い紛(※)のシャワーを浴びせかけるという思いがけない舞台を作り上げた。

 『Mirroring Memories』は、その中に並べた物語舞踊のひとつひとつに、それぞれ長い時間をかけてきた内容いっぱいの名作カタログだった。それに対して新作の『Fratres I』は、全員が同じ動きに従うことの多い、単刀直入の群舞。両作品の感触の違いは明らかで、最後をさらりと切り上げた組合せの妙が快かった。長く続く盛大な拍手の裡に、Noism《15周年記念公演》の幕が降りたことが、その何よりの証しだった。金森穣という逸材を選び出し、15年という時間をかけて、これだけ高度な舞踊芸術を世に送り出した新潟市の、多大なる貢献に感謝しなければならない。

(2019年7月27日所見)

※ くず米と確認

「Noismサマースクール2019」最終日を見学してきました♪(2019/08/04その2)

2019年8月4日(日)、Noism2特別ショーイングのあと、「Noismサマースクール2019」の最終日を見学してきました。

7/31~8/4の5日間、14:00~18:30、Noismメソッド・バレエ・レパートリーを学びます。
定員25名。1クラス受講~全クラス5日間通し受講OK。13歳~35歳。
「舞踊経験3年以上」ということですが、バレエをやっている人が断然多かったと思います。
それもかなり上級レベル。
各クラスとも参加者は各25名。初めての参加は2,3名いましたが、だいたいは通しの人が多かったのでは。

Noismメソッドは、講師:山田勇気さん、アシスタント:浅海侑加さん、音出し:カイ・トミオカさん
メソッドは、がんばれば、私もマネくらいはできる「かも」しれない・・・

Noismバレエは、講師:池ヶ谷奏さん、アシスタント:Noism1メンバー数名、音出し:西澤麻耶さん
これは、無理。かなり高度。
バーにはメンバーも一緒につき、バーレッスンのあと、センターで難しいことをやります。
上手な参加者が何人もいてすごいです。
でも、なんといっても池ヶ谷さんがすばらしい!

テクニックも素晴らしいですが、Noismバレエの極意、上に行く時、下にも行く、ということをわかりやすく伝えていました。
そのほか前に行く時はうしろを、横に行く時は反対側の横を意識すること等、素人の私も「なるほど!」と思いました。

Noismレパートリーは、講師:西岡ひなのさん、アシスタント:ジョフォア・ポプラヴスキーさん、カイ・トミオカさん、音出し:三好綾音さん
レパートリーは『ZAZA』から「群れ」、『Mirroring …』バージョン。
最初は全員でおさらい。それから2グループに分かれて、更にその後、少人数のグループに分かれて踊ります。
皆さん上手でビックリ!
これはメンバーもかなり刺激になると思います。と言うくらい うまい!

レパートリーは『Fratres I』も5日間やったそうですが、私は途中退席したので、最後が見られず残念。。。

Noism2ショーイングと、サマースクールを最後までご覧になられた会員の方からいただいたメールをご紹介します。

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イベントおつかれさまでした。
Noism2も表現が豊かになってきました。目的に向かって進んで欲しいと思っています。

SUMMER SCHOOL 初めて見ましたが、Noismにとっても大きな「活動」だと思っています。最後まで見ました。
レパートリーは『ZAZA』より「 群れ」、『Fratres I』 5日間の練習でしたが、生徒さんの真剣さ、素晴らしかった。(当然、Noism全員も)
最後、Noism1の全員メンバーが座って生徒を見守っていました。
大きな拍手喝采!!

生徒それぞれの想いが有ったと思う。。
こんな、「素晴らしい活動」をやっている・・・
「Noism」を誇りと思っています。

金森さん、井関さんとお話ししました。
今回の練習を見ましたが、「こうやって、作品を創っていくんだね!」と話しました。そしたらお二人が、「その通り!」と。

これから、お二人で富山公演に向かって練習だそうです。
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メールどうもありがとうございました!

Noism1、Noism2、そして、外部に向けたワークショップ活動があるのは、Noismにとって とても良いことと感じました。
そして、富山公演もそうですが、Noism0の活動もあります!
充実の活動内容で、ますますNoismから目が離せません。

今月末までに発表の市長判断。
発展的継続の吉報が待たれます。

(fullmoon)