和気藹々、全員が喜色満面の井関さんお誕生会(さわさわ会懇親会)♪

今回で6回目となる井関さんのお誕生会(さわさわ会懇親会)が2019年11月16日(土)、新潟市中央区・燕三条イタイリアンBitを会場に開かれました。出席者は井関さんと金森さんを含めて26名。今年も美味しいお料理を囲みながら、和気藹々、笑顔と歓談する楽し気な声がいつ果てることなく続く、それはそれは楽しい宴となりました。

殊に今年はNoism継続問題も片付き、同時にNoism0が始動するなど、嬉しいニュースも重なり、参加された皆さんは一人残らず、喜色満面。心置きなく、お祝いモード全開といった風情でした。

外は雨がそぼ降る新潟市でしたが、この店内は別世界。年に一回、今年も井関さんのお誕生日をお祝いしながら、全員が幸福感に満たされるという贅沢で、得難い時間を過ごしました。

予定時間を延長したお祝い会の最後は、井関さん、金森さんを交えての大撮影大会。おふたりとフレームに納まるのはどれもいい笑顔ばかりでした。「いいな♪」と思われた向きは是非ともさわさわ会にご入会いただき、来年のこの会にご一緒しませんか。素敵な時間が過ごせること請け合いですよ。

(shin)

秋の鳥取・BeSeTo演劇祭/鳥の演劇祭の『Mirroring Memorries』(2019 ver.)初日

2019年11月9日(土)の鳥取県は鹿野町・旧小鷲河小学校体育館。鳥取市から鳥取自動車道道を使っておよそ30分。例年ならこの時期、鮮やかな紅葉に囲まれているのだろう山あいの水辺。はるばる新潟から訪れて、観てきました『Mirroring Memorries ––それは尊き光のごとく』(2019 ver.)、第26回BeSeTo演劇祭/第12回鳥の演劇祭での初日公演。

個人的には、さして旅好きという訳でもないので、Noismを観ていなかったら、恐らく生涯、足を運ぶこともなかっただろう地、鳥取。更に今年9月に富山県の利賀村に一念発起してシアター・オリンピックスを観に行く選択をしていなかったら、縁遠いままであっただろう地、鳥取。それが、「行ってみるのも面白いじゃない」と考えてしまえるようになり、公演前日の早朝、車で新潟を発ち、約10時間のドライヴで鳥取入りをするなど、以前の私からは考えられないことでした。鳥取に着いてみると晴天で、まだ日も高かったので、小学校の教科書で見た知識の持ち合わせしかなかった鳥取砂丘を訪れ、雲ひとつない青空の下、一足毎、靴が砂に埋まるさえ厭わず、敢えて急峻な斜面を選び、無駄にダッシュで上り下りして、足は上がらないは、息は切れるは、思う存分に「砂丘」を体感する機会を得たのでした。長々と余談でした。スミマセン。

そして迎えた鳥取公演初日、天気予報では下り坂の雨予報。それも公演時間帯あたりが「雨」とのこと。天気を心配しながら、お昼時分に鹿野町に移動してみると、やはり、少しして天気雨に。やがてやや大粒の降りに変わりましたが、さして長く、さしてたくさん降ることもなく上がり、気温が一気に下がることもないまま夕刻を迎えられたのはラッキーでした。

開場直前の様子

午後4時過ぎ、今回の会場となる、かつての小学校体育館脇で料金2500円を払って受付。同じく新潟から駆け付けた顔や、Noismを介して知り合った遠方の友人の顔。そして旧メンバーの浅海さんとご家族。途端にアウェイ感が薄らぐとともに、「いよいよだな」という気分になってきます。

午後5時を告げるサイレンと音楽が山々に谺し、程なくスタッフの指示で入場。正面奥にミラー。その手前、床に敷かれたリノリウムが一番低く、それを階段状に設えられた仮設の客席から見る按配です。満員の客席。私たち知人グループは運良く揃って最前列に腰掛けることが出来ました。そちら、背もたれがないのはいつものこと。演者を間近から見上げることになる席です。そして体育館の床ですから、ただの板張りとは異なります。床下はスプリング構造になっているため、演者が起こした振動が足裏から直に伝わり、こちらの体も共振するような感覚を覚えました。

私をして鳥取まで足を運ばせたもの、それは、2日間限りのキャストを観たいがため。浅海さん、中川さん、シャンユーさん、西岡さんがいなくなり、メンバーが変わって、どんなキャストで、どんな肌合いに仕上がっているのか見逃せないという気持ちからでした。

〈キャストその1〉
〈キャストその2〉

まず、「彼と彼女」、人形(彼女)は西澤真耶さん。白塗りの顔は可愛らしい西洋のお人形さんそのもの、ぴったりの配役に映りました。黒衣のひとりには初登場のスティーヴン・クィルダンさん。彼は続けて、「病んだ医者と貞操な娼婦」と、更に「生贄」「群れ」でも黒衣で踊り、「拭えぬ原罪」からの『Schmerzen(痛み)』において仮面を外して初めて顔認識に至ったのですが、異国の地でのカンパニーに充分溶け込み、違和感はありませんでした。

浅海さん役を引き継ぐのはやはり鳥羽絢美さんです。「アントニアの病」「シーン9–家族」、そしてラストの少女役、どれも彼女らしい弾むようなリズム感を堪能しました。

西岡さんが演じた「Contrapunctus–対位法」を踊ったのは井本星那さん。かつて少年らしく映っていた役どころでしたが、井本さんの持ち味から、女性らしさが拡がっていたように思いました。

中川さんの後を継ぐのは誰か、それが今回の一番の関心事だったと言えます。まずは、「シーン9–家族」の「P」役はNoism2の坪田光さん。当初キャスティングされていたメンバー(タイロンさん)が怪我のため、急遽、抜擢されてのデビュー、頑張っていたと思います。

そして、「ミランの幻影」におけるバートル。中川さんからシャンユーさんへ渡されたバトンを今回託されたのは、チャーリー・リャンさん。共通するのはどこかフェミニンな雰囲気を滲ませる存在感でしょうか。井関さんとの切なく華麗なデュエットですから緊張感も半端なかったでしょうが、若々しいバートルを見せてくれました。

その他、キャストに異同のない部分はどっしり安定のパフォーマンスを楽しみましたし、何度も繰り返し観てきた演目でしたが、このキャストを見詰めるなかで、部分部分に様々な感じ方が生じてくることに面白さを感じる1時間強でした。

終演。緞帳はありません。顕わしになったままのミラーを背に全員が並ぶと、会場から大きな拍手が送られ、2度の「カーテンコール」。山陰のNoismにお客さんはみんな大満足だったようです。

その後、BeSeTo演劇祭日本委員会代表/鳥の劇場芸術監督の中島諒人さんと、簡単に汗仕舞いをしたばかりの金森さんによる短めのアフタートークがあり、中島さんの質問に金森さんが答えるかたちで進められました。

質問はまず、上演作の経緯から始まり、恩師ベジャールとの関係などが紹介されていきました。そのなかで、中島さんがタイトルの日本語訳はどうなるか訊ねると、金森さんは構成のプロセスとも重なるとしながら、「乱反射する記憶」と訳出してくれました。

「劇場専属舞踊団」を糸口にしたやりとりの過程で、金森さんはNoismを「プライベートなカンパニーではない」とし、金森さんに依存せず、次代に引き継ぐ長期的なヴィジョンを口にされ、「新しいかたち、どういったかたちで持続可能なのか、我々に課せられた課題である」と語りました。

場内が笑いとともに沸き立ったのは、話がNoism存続問題に及び、市民への還元が課題とされる状況に関して、中島さんが敢えて「不本意?」と本音に切り込んだ時でした。一切動ぜぬ金森さんはすかさず「それは日本のなかで専属舞踊団を抱えることの現実であり、後世に残るモデルケースを築いていくべく3年間頑張る」と、ここでも新生Noismを感じさせる前向きな姿勢で後ろ向きな心配をシャットアウトした際の清々しさと言ったらありませんでした。その返答を聞いた中島さんも「コミュニティと関わる面白くてクリエイティヴな還元方法を発明すること。アーティストとして見つけることもある」と即座に同じ方向に目をやって応じ、トークは閉じられていきました。

会場から外に出ても、闇が迫る旧校庭にはたちずさむ人たちの多いこと。山陰のNoismが多くの人を魅了したことは言うまでもありません。その場に居合わせることが出来て嬉しく思いました。

(shin)

「私がダンスを始めた頃」⑫ タイロン・ロビンソン

私は常にヒップホップやR&Bが聞こえてくる家庭で育ちました。そうした環境だったからこそリズムや動きに対する興味が芽生えたのだと思います。もしあなたもその場にいたら、いつだって若い日の私がリビングでパフォーマンスに興じていたり、乗り気でない友人たち主演のダンス作品を作っていたりするのを目にすることができたことでしょう。

様々な趣味やスポーツにトライしてきましたが、どれも本当に私の興味を刺激してはくれませんでした。10歳の時、母が初めて私をダンスクラスに連れて行ってくれて、動きに対するこの興味の探究を後押ししてくれるまでは。私は自分が夢中になれる居場所を見つけたのですが、そこからが私の才能と技術への挑戦でした。そこは創造的で、自由であることを求められる場所でした。

私は高校に通っている間もダンスを続けました。私が通っていたのはダンス専門の高校で、そこで初めてコンテンポラリーダンスと出会いました。私はアブストラクト(抽象的)なコンテンポラリーダンスに夢中になり、この魅力的な分野の研究を始めました。他の生徒たちが綺麗な動きやターンの数に執心しているあいだ、私はと言うと、自らの体を地面に投げ出して踊るダンサーのビデオに畏敬の念を抱き、振付における静止の美を見出していました。

ダンスに対する愛と才能はあったと思いますが、それでも私は一度たりともキャリアを考える選択肢として捉えたことはありませんでした。もともと私は建築家になりたかったのです。しかし、不運にも、学校での私の成績ではそれが叶うことは考えられないことでした。私は決して学力のある生徒ではありませんでしたし、単位を落としたことで、最終学年を前にして高校を辞めることになってしまったのです。しかし、ひとりのとても協力的なダンスの先生の励ましと手助けのお陰で、ダンスを学べる大学に進学できました。それは一般的な教育システムによらない道でしたが、従来のシステムには生徒たちがその真の知性や可能性を証明するのに適さない部分もあると身をもって示すことになったと思います。

私はWestern Australian Academy of Performing Arts(WAAPA:西オーストラリア・パフォーミングアート・アカデミー)で学び始めて、学ぶことに対するより強い喜びとともに、歴史におけるダンスの影響と身体に興味を抱きました。また、そこで、他のアーティストとの親密な関係を育み、周囲をインスパイアする助言者から学び、そしてパフォーミングアーツを職業にする可能性を見出すことが出来ました。2011年にダンスの学士号(BA)を取得して卒業すると、私はすぐにオーストラリア国内でフリーランスのダンス/パフォーマンスのアーティストとして様々なダンスの仕事を手に入れ、プロとしての人生を歩み出したのです。

プロとしてのキャリアを始めて間もなく、実演家であるよりも振付家であることに興味を抱いている自分に気付き、実演よりも振付の努力にフォーカスし始めました。しかし、じきにクリエイションの壁にぶち当たることになりました。充分な経験を持たないことは創作のビジョンを形にしようともがくことを意味したのです。振付家として成功するために、振付家としては勿論、ダンサーとも変わらぬくらいにアクティヴである必要がある、そう判断したのでした。振付の方法論の抽斗(ひきだし)を豊かにするために他の振付家とともに働いて、彼らから学びながら。

まだ「若い」アーティストと言ってよい年齢にある私は、世代も人種も社会的な背景も異にする様々なアーティストたちの振付のプロセスを掘り下げ、研究を続けています。特にアーティスト同士であるなら、私たちはお互いから学び合うものはたくさんあると思います。そして私が得た知識が他者をインスパイアする芸術創造に役立つことを願うものです。

(日本語訳:shin)

以下はタイロンさんが書いた元原稿(英語)です。併せてご覧ください。

Tyrone Robinson

I grew up in a household where the presence of hip-hop and R&B music could always be heard. I suppose this is where my interest in rhythm and movement began. You could always find a young me preforming in the living room, and directing choreographed dance pieces staring my reluctant friends.

I had tried different hobbies and sports but none ever really sparked my interest. It wasn’t until my mother encouraged me to explore this interest in movement by taking me to my first dance class at the age of ten. I had found a place that catered to my love of attention but still challenged my abilities. It was a space to be creative, it was a space to be free.

I continued dance throughout high school, where I attended a specialist dance high school. This was my first contact with contemporary dance. I had become enamoured with contemporary & abstract dance, and began doing my own research into this fascinating sector of the dance world. While other students were obsessing over pretty movements and how many turns they could do, I was in awe of the videos of dancers throwing themselves at the ground and finding the beauty of stillness in choreography.

Although I had the love and talent for dance I still never thought of it as being an eligible option for a career. I had originally wanted to be an architect, unfortunately my grades in school were never going to allow that to happen. I had never really been an academically strong student, and with failing grades I dropped out of high school before my final year. But with the encouragement and help from one of my very supportive dance teachers, I found myself in University studying dance; circumventing the educational system, and proving that most archaic educational systems do not allow students to show their true intelligence and prove their potential.

I began to study at the Western Academy of Performing Arts, finding a renewed joy for learning and an interest in the effects of dance on history and the body. It was there where I fostered close relationships with other artists, learnt from inspiring mentors and discovered the possibility of a career in the performing arts. I graduated with a Bachelor of Arts in 2011 and began my professional life immediately, securing various dance jobs as a freelance dance/performance artist, in Australia.

It didn’t take long after beginning my professional career, that I realised I had more interest in being a choreographer than a performer. I began to focus more on choreographic endeavours, and less on performing. Yet early on I found myself hitting creative walls, and not having enough experience meant that I struggled to see my creative visions come to fruition. I decided that in order for me to be a successful choreographer I needed to stay as active as a dancer as I am a choreographer; working with and learning from different choreographers to build my arsenal of choreographic methods.

At an age where I would still consider myself to be a “young” artist, I continue my research, delving into the choreographic processes of different artists of various generational, racial and social backgrounds. I believe we have a lot to learn from each other especially as artists, and I hope the knowledge I gain will help me create art that inspires others.

(1992年オーストラリア生まれ)