何回も見なければいけない『マッチ売りの話』+『passacaglia』

山野博大(舞踊評論家)

初出:サポーターズ会報第31号(2017年5月

 Noismが《近代童話劇シリーズ》の第二作『マッチ売りの話』を『passacaglia』と共に初演した。2017年1月20日に本拠地りゅーとぴあのスタジオBで初日の幕を開け、2月9日からは、彩の国さいたま芸術劇場小ホールで上演した。新潟に戻っての再上演の後にはルーマニア公演の予定もある。日本における創作バレエの初演としては、異例の上演回数だ。

 『マッチ売りの話』も金森穣の演出・振付を、井関佐和子らNoism1の主力メンバーが踊る中編だった。アンデルセンの童話と別役実が1966年に早稲田小劇場のために書き岸田国士戯曲賞を受賞した不条理劇『マッチ売りの少女』の両方が、金森の舞踊台本の背景となっていた。

 《近代童話劇シリーズ》は、第一作の『箱入り娘』もそうだったが、子どもに語って聞かせるとすぐに理解してもらえる童話の舞踊化である『眠れる森の美女』『シンデレラ』『白雪姫』『オンディーヌ』などのようには出来ていない。『マッチ売りの話』も別役の不条理テイストで濃厚に色づけされていた。論理的に説明したり理解したりしにくい状況の中で、登場人物が意味不明に近い出会いや動きを繰り返した。公演パンフレットに書かれた配役(それぞれの年齢が細かく指定されている)の横に「疑問符の相関性」という但し書きがあり、そこに「少女は老人夫婦の孫である?」「少女は女の20年前の姿である?」「女は娼婦の20年後の姿?」などの「問いかけ」が列記されている。これを読むと、舞台上で演じられている出来事の不可解さがいっそう増すことになる。

 ストーリーの展開がよく理解できる舞台や小説が、じつは何が起こるか先のことは何も判らない世の中の現実と似ても似つかない絵空事であることを、ベケットの『ゴドーを待ちながら』やイヨネスコの『犀』、別役実の諸作品に接してしまった私たちは知っている。それを舞踊でやっているのが金森穣の《近代童話劇シリーズ》なのだ。

 まず巨大なスカートの上から客席を見下ろす精霊(井関佐和子)の姿を見せる。次いで出演者全員が面をかぶり、凝った作りの衣裳をまとって細かくからだをふるわせたりする動きを見せ、個々の人物を表す。そこで提示されたドラマの断片のひとつひとつは、踊りとして緻密に仕上げられていた。「童話」のバレエ化だったら、かわいそうな少女に焦点があたるはずなのだが、いくら待ってもそのようなことにはならなかった。

 精霊が登場して、舞台に置かれた装置を片づけるように次々と指示を与えると、舞台上はきれいさっぱり。ダンサーたちも面を外し衣裳を変え、抽象的な動きによる『passacaglia』を踊る。前半のドラマの断片を連ねたような『マッチ売りの話』とはまったく別の世界が広がった。観客は、ここで初めて「舞踊」を見たという安心感に浸ることができたのではないだろうか。それと同時に前半の舞台の不条理性への理解が心の中にじわじわと広がってくることを感じたに違いない。

 しかし一回見ただけでは、この実感を素直に受け入れる心境にはなかなかなれないことも事実。『ゴドーを待ちながら』は、何度も見ているうちに、だんだん何事も起こらない舞台を平気で見て、楽しめるようになる。『マッチ売りの話』+『passacaglia』では、それと同じような或る種の「慣れ」が必要だ。何回も何回も見るうちに、不条理な現実世界に立ち向かえる勇気が身内に湧き起こってくると思う。

サポーターズ会報第31号より

(彩の国さいたま芸術劇場小ホール)

井関佐和子が踊った『Liebestod-愛の死』

山野博大(バレエ評論家)

初出:サポーターズ会報第32号(2017年12月)

 2017年5月26日にりゅーとぴあで初演された金森穣の新作『Liebestod-愛の死』を、6月2日に彩の国さいたま芸術劇場で見た。これはワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』をベースにして創られた、男女二人だけの踊りだ。井関佐和子と吉﨑裕哉が踊った。金森はこのデュエットが『トリスタンとイゾルデ』の舞踊化であるとは言っていない。しかし見る側が、ワーグナーの音楽を聞いてかってに想像をふくらませることを予測して振付けたに違いないと私は思った。

 妖しい「トリスタン和音」が彩の国さいたま芸術劇場の大空間に響き渡る。タッパの高い舞台の背後には、滑らかで重厚な質感の幕が丈高く吊られている。この幕が物語の展開に重要な役割を果たす。舞台には、コーンウォールを治めるマルケ王に嫁ぐために船に乗るアイルランドの王女イゾルデの姿があった。王の甥であるトリスタンが彼女の警固役としてつき従っているのだが、この二人は恋に落ちてしまう。イゾルデは、トリスタンと共に死ぬことを決意して、侍女に毒薬を持ってくることを命ずる。ところが侍女の持ってきたのは「愛の薬」だった。船がコーンウォールに着くまでに、二人の愛はいっそう深まっていた。

 マルケ王に嫁いだイゾルデのところへ、王が狩に出た隙をねらってトリスタンが忍んでくる。イゾルデと愛を語り合うところへ王が……。王の忠臣メロートがトリスタンに斬りかかる。トリスタンは自ら刀を落とし、メロートに斬られる。このあたりはほとんどトリスタンひとりの演技で処理されている。瀕死のトリスタンは背景の幕の下に転がされ消えて行く。

 残されたイゾルデの嘆きの踊りとなる。井関が背後に高く吊られた幕を手でたたき、幕を波打たせると悲しみの輪が幾重にも広がり、それが嘆きの感情を表した。イゾルデが前に進み出て死の決意を示す。その直後に背後の幕が落ちて彼女の姿を覆い隠す。その幕の下で二人が立ち上がる気配があり、あの世での愛の成就を暗示して作品は終わる。井関の渾身の演技が深く心に残った。

 かつては、すべての振付者がバレリーナのことを目立たせるために、あれこれと演出を考え奉仕するのが常だった。しかし、しだいに振付者の地位が高まり、作品の創造ということに舞台の重点が移ってきた。それに伴って、近年ではバレリーナの方が振付者のためにがんばることが普通になっている。

 井関の踊る金森作品を私はずっと見てきたが、常に井関は金森の作品の完成のために力のすべてを注ぎ込んでいた。彼女は自身の舞踊生活について「Noism井関佐和子 未知なる道」という本(2014年・平凡社刊)を出しているが、その中でも金森の作品のためにどうしたら役に立てるかということを、繰り返し書いている。例えば「舞台の上では“井関佐和子”ではなく、誰も見たことのない“カルメン”を見せたい」というように……。

 しかし『Liebestod-愛の死』における金森は、バレリーナ井関佐和子をまず観客にアピールすることを第一と考えて作品に取り組んでいたと私は思う。井関の方は今までと変わらず“井関佐和子”ではなく、誰も見たことのない“イゾルデ”を見せようとがんばっていた。その結果は、バレリーナと振付者の力が合体して1+1=2以上の大きな結果をもたらすことになった。

 金森が、この作品を『トリスタンとイゾルデ』のバレエ化だと言わなかったのは、井関が“井関佐和子”のままで踊ることを望んでいたからではないか。全体の構成、細部の振付も、イゾルデの感情描写にウエイトをかける一方、トリスタンの方は背景と一体化して見せるという、明らかに均衡を失した配分がなされていた。『Liebestod-愛の死』は、井関佐和子のイゾルデでしか見てはいけない愛のデュエットだったのだ。

サポーターズ会報第32号より

(2017年6月2日/彩の国さいたま芸術劇場 大ホール)

「世界に繋がる新潟のシンボルでありたい」(金森さん@BSN「揺らぐ劇場 Noism継続問題の深層」)

この度の台風19号の被害に遭われた方々に対し、改めまして心よりお見舞い申し上げます。

(新潟日報10/19朝刊・テレビ欄より)

さて、先週の放送予定が延期となったBSNテレビのゆうなびスペシャル「揺らぐ劇場 Noism継続問題の深層」が、この日(10/19・土)放送されました。ご覧になられましたか。新潟県外の方にも放送内容をお知らせしたいと思い、かいつまんでレポートいたします。

「30分番組」は、9月の活動更新記者会見の模様から始まりました。『Fratres I』と『Mirroring Memories』からの場面が続き、5月の『カルメン』モスクワ公演の様子が流され、芸術性の高さが伝えられる一方、「地方の現実」として、税金を投入する以上、地域への貢献が求められる事情が示されました。相克、或いは止揚。Noismの存在をめぐって、「新潟は何を問われたのか」との番組テーマが掲げられます。

「りゅーとぴあ」: 市民活動は勿論、3部門(音楽・演劇・舞踊)を核に創造型事業を展開。市からの事業費補助は、Noismを含む舞踊部門に約5,000万円、音楽部門・演劇部門他に約1億4,400万円。(いずれも年間平均)

金森さん「東京の公演を買ってくることがメインの劇場文化は『中央集権』を助長するだけ。劇場は本来、文化による『地方分権』を成立させ得る拠点」 → 篠田昭前市長は「新潟から世界に発信していく」ビジョンに惹かれて惚れ込んだと話し、2004年、公共劇場がプロのダンスカンパニーを抱えるという国内初めての取り組みが始まった経緯を説明。しかし、前例のない挑戦を待ち受けていた厳しい現実。例えば、「時間と場所」。「Noismに独占されては困る」など、契約更新のたびに難題に直面してきた。「劇場はプロが作品をつくる場所」とする金森さん。生じる摩擦。舞踊団と行政とが互いに妥協点を見出しながら積み重ねてきた15年。

*ワレリー・シャドリンさん(チェーホフ国際演劇祭ゼネラルディレクター:5月に『カルメン』を招聘) 「日本の若い世代の演出家の中で金森さんほど才能がある人を私は知りません」 → 終了後、早速、次回(2021年)の出演を依頼。しかし、継続問題の渦中にあるため、返答できず。

*篠山紀信さん(写真家:Noismの15年間を撮り続ける) 「(『Fratres I』を評して)金森さん独特のストイシズム。そのことの感動だね」「金森さんがここ(新潟市)に来て、本当に良かったと思う。これ以上の待遇はなかっただろう。新潟の宝物だと思う、本当に」

*篠田昭前市長 「全国に『りゅーとぴあ』を知らしめているものは何かと言えば、そのほとんどがNoismの活動によるもの」 しかし、…

  • 昨年11月の市長交代期を挟み、基金の減少など厳しい財政状況を背景に、中原八一新市長が様々な事業の見直しを表明。=「Noism活動継続問題」
  • 6月の新潟市議会:Noismの活動継続を疑問視する声があがる。「存在すら知らない市民もいる」
  • 7月、市民有志が市長に活動継続の要望書を提出。
  • 同7月、文化政策の専門家を構成員とする「劇場専属舞踊団検証会議」が初めて開かれる。市の税金で支えていくことの意味が議論される。
  • 8月末、契約更新に向けた市の意向が金森さんに伝えられる。(地域貢献活動を含む6つの課題を提示し、改善への取り組みを条件とする。)

Noismの海外公演: これまで15年間で11か国、22都市、58公演。「欧米に敵うんだ。欧米の人が『すげぇ!』って言うものを創れる。しかも、中央からじゃなく、地方から。それが我々のやっていること」(金森さん)

「地域貢献」か「世界と繋がる芸術の創造」か。地方は芸術にどう関わっていくべきなのか。相克、否、止揚。

ひとつの答えを導き出した場所:富山県南砺市利賀村。1976年、主宰する劇団ごと東京から移転してきた演出家・鈴木忠志さんは、過疎の村を「演劇の聖地」に育て上げた。現在、村や県のみならず、国、政治・経済界を巻き込む支援を得ている。世界と繋がる芸術に地域が価値を見出し、共に歩む。活動の集大成とも言える国際演劇祭「シアター・オリンピックス」は、人口500人に届かない村に国内外から2万人を集める。

*鈴木忠志さんは「支援への還元」に関して、「本当の芸術活動、優れた芸術家は人類の財産になることを目指す。地域の利益のためにやっていたら利益誘導にしかならない」とし、金森さんについても「芸術的には今の日本で大変優れた仕事をしている。応援しなければいけない」と話し、地域全体で取り組むことの重要性を強調。

平田オリザさん(劇作家・演出家)「Noismの活動の価値は圧倒的なものがある。それをどう生かすかは新潟市の側の問題」

金森さんは「世界に繋がる新潟のシンボルでありたい。自分たちのこの街が世界と繋がっている。特に若い子たちはどんな仕事を志すにしろ、世界に対して広い視野を持って貰いたい。経済的に大変であっても、人や心の部分、文化の部分では国際的であって欲しい。自分はそのために呼ばれたと思っているからね」とあくまでもこの街(新潟市)に思いを馳せ、未来を見据えて語りました。

番組ラストのナレーションは「日本でただひとつの劇場専属舞踊団を抱くこの街は、何を目指し、どこへ向かうのか」 金森さんが唱えるブレることのない「劇場100年構想」を想起してみるなら、その答えは明白でしょう。私たち一人ひとりの豊かな人生、それを措いて他に何があるというのでしょう。

皆さんはどうご覧になりましたか。そして、拙いレポートではありますが、ご覧になれなかった方に内容の一端でもお届けできていたら幸いです。

(shin)

活動期間更新記者会見について、みたびの新潟日報「窓」

本日(10/12)の新潟日報「窓」欄に、過日の活動期間更新記者会見に臨んだ印象を綴る拙稿「『ノイズム第2章』に期待」を掲載していただきました。折しも、BSNゆうなびスペシャルで「揺らぐ劇場 Noism継続問題の深層」(17:00~)が放送される朝。

あの日、テレビや新聞では伝わり難かった「会見場」の雰囲気、その一端でもご紹介したいと考え、書いたものでした。真新しい内容ではありませんが、お読みいただけましたら幸いです。 

上で触れました本夕放送のBSNゆうなびスペシャルにつきましては、こちらも新潟日報から。

(新潟日報10/10朝刊より)
(朝日新聞10/12朝刊・テレビ欄より)

併せまして、よろしければ、こちら9/27の記事(金森さん「このタイミングでこのような体制で挑めることに感謝」(9/27記者会見))もご再読ください。

(shin)

【追記】「揺らぐ劇場 Noism継続問題の深層」は台風の影響から、この日は放送されず、一週間後に日を改めて放送されました。こちら10/19のレポートをご覧ください。

白鳥は何を夢見る

Noism1 『NINA』 『The Dream of the Swan』

山野博大(舞踊評論家)

初出:サポーターズ会報第33号(2018年4月)

 Noism1の埼玉公演で『NINA』を見た。この作品は、2005年の初演から金森穣の代表作と云われ、国内外で数多く上演されてきた。私は、これを見るのが初めてだったので、期待して客席についた。

 ところが幕があいて最初の作品は、井関佐和子の踊る金森の最新作『The Dream of the Swan』だった。舞台にはベッドが置かれ、そこに井関がひとり寝ているという意外なシチュエーションに、心が揺れた。病院でよく見るようなベッドの上には、室内灯がさがり、やや狭い空間の印象。どう見てもバレリーナが寝ている優雅な部屋とは思えない。そこでの井関の動きは、寝ていることの苦しさから、なんとか脱出しようといった「もがき」から始まった。細かな動きを積み重ね、ついにベッドの外へ。彼女の動きはますます加速され、ついには狂おしいまでに高調し、ベッドの周辺にまで広がったが、それはすべて 夢の中のことなのだ。すべては、バレリーナを夢見る少女の生態の精密な描写だった(もしかすると怪我で動けないダンサーの・・・)。井関の迫真の演技が、見る者の心を鋭くえぐった。しかしそこに描かれていたのは、どこかにはなやかささえ感じさせる、よくある普通の情景だった。

 バレリーナが踊るソロ作品は、意外なことにほとんど無い。アンナ・パヴロワが踊ったフォーキンの名作『瀕死の白鳥』ぐらいしか思い出せない。バレエの世界で女性がソロを踊る時には、グラン・パ・ド・ドゥのバリエーションが選ばれることが多い。そんなバレエ界に出現した『The Dream of the Swan』は今後たびたび見たい作品のひとつになる可能性を秘めている。

 『NINA-物質化する生け贄』は今から10年以上前に発表された人工の知能を備えたロボットの反乱を描いたようにも見える問題作だ。冒頭の大音響で観客を別の世界へ隔離して、以後の衝撃的な展開を語りつぐ。その前に『The Dream of the Swan』を置いて、異界への転異の衝撃を和らげた金森の配慮には意味があった。今後、このふたつの作品は同時に上演されるようになるのかもしれない。

 初めて見た『NINA』は、期待通りのインパクトのある作品だった。Noism1のダンサーたちの、感情を交えない動きの不気味な展開は、我々の生きる未来の風景だった。彼らの好演を恐々見終わった後、『The Dream of the Swan』の人間感情の横溢するどこか危うい世界をもう一度懐かしく思い出すことになった。

サポーターズ会報第33号より

(2018年2月18日/彩の国さいたま芸術劇場 大ホール)