「柳都会」Vol.28 矢部達哉×井関佐和子(2024/2/4)を聴いてきました♪

2024年2月4日(日)、暦の上では「春」となるこの日の午後2時半から、りゅーとぴあ〈能楽堂〉にて、東京都交響楽団のソロ・コンサートマスターを務める矢部達哉さんをお迎えしての「柳都会」を聴いてきました。

―届けているのは本物。音楽と舞踊の関係性、不可分性。

柳都会vol.28 矢部達哉×井関佐和子 | Noism Web Site

今回の「柳都会」は、聞き手の井関さんが話をお聞きしたいお相手として、矢部さんを希望されたところ、快諾をいただき、実現したものとのこと。そして、開催日時が近付いてくるなか、SNSに「ミニ・ワークショップもある」という追加情報も出されるなど、これまでにないスタイルへの期待も膨らみました。

予定時間となり、井関さんからのご紹介で登場した矢部さん。鏡板の「松」の手前、「人生で初めて履いた」という足袋姿+「お見せするだけ」のヴァイオリンを携えたそのお姿はそれだけでもうかなり微笑ましいものがありましたが、その後、トークの間に、何度もヴァイオリンを弾いて説明してくださった矢部さんのお人柄に場内の誰もが惹かれることになりました。終始、穏やかな語り口で、ユーモアを交えて話された矢部さん。ここでは話された内容からかいつまんでご紹介しようと思います。

*矢部さんとNoismとの出会い
2011年、〈サイトウ・キネン・フェスティバル松本2011〉でのバルトーク『中国の不思議な役人』のとき。
矢部さん: 『中国の不思議な役人』は信じられないくらい難しい曲。しかし、指揮者から「舞台の上(Noism)はあまりにも完璧でびっくりする」と言われていて、ピットの中からは見えなかったのだが、舞台の上と繋がっている感覚があった。後からビデオで観て、(Noismに)一気に興味が湧いて、それ以来、自分の人生の中で欠かせないものとなっている。尊敬し過ぎていて、ただのファンという感じ。

*矢部さんとヴァイオリン
・矢部さん5歳: ヴァイオリンは、クリスマスに親が出し抜けに買ってきて、「あなた、コレやるんですよ」と言われて、始めたもの。それがずっと続いて今日に至るのだが、現実は甘くない。「100年にひとり」とかいう存在になるなど、「皮膚感覚で無理」とすぐにわかった。
・矢部さん高1: 病気で学校に行けなかった頃、マーラーのオーケストラ曲と出会い、「これが弾きたい」という気持ちになって、オーケストラでヴァイオリンを弾くことが目標に定まった。
・オーケストラとソリスト: 実力、メンタリティや意識のほか、奏法も違う。オーケストラは調和が大事なのに対して、ソリストは孤独に耐えることができて、一人で2000人の聴衆の一番後ろまで音を届かせなければならない。(一方からもう一方への転向はそれぞれに難しい。)
しかし、ソリストも弾く曲を自分で選べる訳ではない。例えば、メンデルスゾーン、チャイコススキー、シベリウスなどは1年に何度も弾かねばならない。一方、オーケストラでは色々な曲、色々な指揮者に出会えるメリットがある。
・矢部さん22歳: 4つのオケからオファーがあったなか、東京都交響楽団のコンサートマスターになる。その際は、急遽の展開だったため、オケ側の事前協議や準備もままならず、(ご自身は何も事情を知らないながらも、)「不完全なかたちでお迎えして申し訳ない。これからのことはもう少ししてから」と言われての4月のスタートだった。→その後、「大丈夫になりました」と言われたのは、1990年6月6日に「信じられないくらい美しい音楽」マーラーの交響曲第3番・第6楽章を演奏した日のことで、きたる6月に「20周年記念公演」で同曲を踊るNoismとシンクロする。

*コンサートマスターの仕事 
矢部さん: 指揮者とオーケストラは大抵、喧嘩するもの(笑)。そのとき、間に立って、いいかたちに持っていく役割。(穣さんほどじゃないけれど、)生意気だったかもしれないが(笑)、「長い目で見てあげよう」と思われていたのだろう。同時に、最初の4~5年くらいは、「子ども」で大丈夫かとも見られていたようで、「ごめんなさい」という感じで座っていたりもした。
井関さん: 若くしてコンサートマスターになる人はいるのか。
矢部さん: そんな時代もあり、昔は何人かいたが、ここ30年程でオーケストラの技量が格段にアップしてしまって、現在は難しい。

*(舞踊の)カウントと(オーケストラの)指揮者
井関さん: 舞踊の場合、指揮者にあたるのはカウント。カウントを数えて踊るのだが、最終的には、カウントを数えていると「見えなくなる」。 
矢部さん: (例えば、小澤征爾さんとか)本当に凄い指揮者は見なくても伝わってしまう。磁場ができて、自由に弾かせて貰っている感じになる。そのとき、舞台上は有機的に繋がっていて、触発され、相乗効果で演奏している感覚に。それがオーケストラで演奏する醍醐味。

*音楽性をめぐって
矢部さん: 才能もあるが、表現、音の陰翳、色の捉え方が大事。
井関さん: 舞踊家が音楽を身体に落とし込んでいくやり方は、個人によって異なる。矢部さんはどういうふうにキャッチしているのか。
矢部さん: 簡単に言うと、「作曲家の僕(しもべ)」として。例えば、ベートーヴェン。200年も経っているのだが、ビクともせず、生き残っている。普遍的な力で、現在に至るまで、どの時代の人の心も捕らえてきた。生き残らせる役割を仰せつかっている。音楽によって聴衆との間に生まれる空気を共有することが目的。

井関さん: 作曲家の意図を汲みつつ、オケにあって個性は必要なのか。
矢部さん: 生まれ育った環境も心の在り方も異なるのだから、個性は違って当たり前。
ピタリ合っただけの音楽は異様で、生きた音楽にはなり得ない。小澤さんは、個を出した上で有機的に調和することを求めた。

矢部さん: 音楽史上、最も偉大な3人(バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン)の音楽は色々な解釈、色々なアプローチを受け付ける。スパゲティ・ナポリタンにも色々なものがあるのと同じ(笑)。(ナポリタンである必要もないが(笑)。)

*呼吸をめぐって
井関さん: 踊っているときの自分の呼吸に興味がある。昨日、弾いて貰うのを聴いていて、矢部さんの呼吸にも。
矢部さん: あっ、そうか。(呼吸)しているんでしょうね。呼吸を入れると、身体が自然に動くが、止めると、身体も止まる。酸素を取り入れた方が流れがよくなる。
井関さん: 呼吸のコントロールで表現が変わってくる。自分の呼吸に気をつけていると、「離れる」こと、「引く」ことができて、身体に影響が大きい。
矢部さん: ヴァイオリンの場合、ダウンボウでは吐き出して、アップボウでは吸う。音の方向性(上に行くものと下に行くもの)に違いがある。

(5分間の休憩後には、予告されていた「ミニ・ワークショップ」から再開される。)

*金森さんの音楽センスと「ミニ・ワークショップ」
(金森さんも加わって、再開)
金森さん: 「雇われ演出家」の金森穣です(笑)。
矢部さん: 穣さんの音楽センスは、まわりの芸術家のなかでも傑出していて、まさに天才。音の陰翳、色を捉えた演出、ずっと興味があった。ドビュッシーの交響詩『海』、ずっと好きで、繰り返し聴いてきたが、『かぐや姫』で聴いたときが一番よかった。それが「金森マジック」。

「ミニ・ワークショップ」: 矢部さんが、金森さん×東京バレエ団『かぐや姫』で金森さんが使用しているドビュッシーの『亜麻色の乙女』、『海』(のそれぞれ一部)を弾き、その場で金森さんが即興で井関さんに振り付ける様子を観る、実に贅沢な時間…♪

矢部さん: (「ミニ・ワークショップ」では)ただ弾いていただけではなくて、彼ら(金森さんと井関さん)の動きを観ることで、陰翳が変わった。触発されて、別の弾き方をしてみたくなる。相乗効果。とてもクリエイティヴ。
金森さん: 呼吸の「間(ま)」、振付を考えるうえで大きいかもしれない。言葉がないもの、説明のしようがないものを届ける。非言語での想起。
矢部さん: 芸術は受け取る側に委ねられている。(恣意的に歪めることは違うが。)今あるメロディがより綺麗に聞こえる、「金森マジック」。
(この間、約15分。金森さん退場)

*呼吸、カウント、一体感…
井関さん: 最近、「声」が入っているもので踊る機会が多い。歌手の呼吸を聴き込んで踊っている。矢部さんの呼吸をキャッチできたときに一体化できる。
矢部さん: (小澤さんをはじめ、)偉大な指揮者は例外なく呼吸から受け取るものが多い。呼吸によって出て来る音楽が異なる。
井関さん: 一旦、繋がってしまうと、テンポはそれほど重要ではなくなる。信頼関係かもしれない。
矢部さん: 音楽よりカウントを優先させてしまうと、ズレてしまうかもしれない。うねり、抑揚、陰翳…音楽が身体に入ってくると、自ずと身体の使い方が変わってくるのではないか。

矢部さん: まっさらな楽譜に「ボウイング」を書き込むのもコンサートマスターの仕事。でも、違うんじゃないかと言われて、消しゴムで直すなんてことも(笑)。
井関さん: 普通に矢部さんのお仕事見学に行きたい。
矢部さん: そんなに面白くはない…(笑)。

(と、ここで井関さんが終了時刻の午後4時になっていることに気付き、告げる…)

矢部さん: あら、そうね。また遊びに来ます。今度は舞踊について質問したいことがたくさんあるから、それはまた機会を改めて。

…と、そんな感じでした。
矢部さんは「お見せするだけ」の筈だった(?)ヴァイオリンで、上に記した曲のほか、オーケストラとソリストの弾き方の違いを説明する際に、ブラームスの交響曲第1番からのソロ・パートを、更に、アップボウとダウンボウの違いに関しては、マスネの「タイスの瞑想曲」も(一部)弾いてくださいました。お陰で、(金森さん登場の「ミニ・ワークショップ」も含めて、)おふたりの本当に濃密、かつ、わかり易いやりとりを堪能させて貰えました。そんな豊かな時間を過ごせたことに、感謝しかありません。(何しろ終わったばかりで、こんなことを書くのは欲張りも過ぎる気がしますが、)是非、舞踊に関して改めての「機会」が実現しますように♪

(shin)




「柳都会」Vol.27 栗川治×山田勇気(2023/7/23)を聴いてきました♪

2023年7月23日(日)、暑い日が続く文月下旬、日曜日の夕方、スタジオBを会場にNoism地域活動部門芸術監督・山田勇気さんが初めてホストを務めるかたちで開催された「柳都会」vol.27を聴いてきました。

山田さんの「柳都会」デビューとなる今回のゲストは栗川治さん(立命館大学大学院先端総合学術研究科博士課程ほか)。視覚障がいを持つ栗川さんは、2019年から続く「視覚障がい者のためのからだワークショップ」に初回から参加し、山田さんと共に、同ワークショップの充実・発展に多大な寄与をしながら、普通に、一観客として、本番の公演にも足を運ばれておられます。

栗川さんには、いったいどんな世界が「みえている」のか。打合せ、メール、ワークショップ、公演を通して重ねてきたやり取りを手掛かりに、参加者の皆さんとも一緒に身体や芸術についてイメージを膨らませ、思索を深めます。

Noism Web Site より

申し込みの動きも早く、定員に達して迎えたこの日の会場。参加者は全員、おふたりによる大いに刺激的な対談を堪能しました。

障がいのある人も障がいのない人と同様に、普通の生活を送るべきであり、双方、社会生活を共にするべきとする「ノーマライゼイション(Normalization)」の考え方に基づいた社会参加を行い、サッカー観戦などにも出向く栗川さん。観客4万人のビッグスワンでは、ゴールを外したときや決めたときをはじめ、その場の雰囲気、臨場感に、「見えていないんだけど、その場に身を置いているだけで楽しい」と語り、聞いているし、感じているし、「見ている」だけではない(視覚優位ではない)「五感で開く可能性」に関して、「視覚障がい者のためのからだワークショップ」のこれまでを紹介することを中心に、山田さんと示唆に富む対談を聞かせてくれました。ここでは、かいつまんでそのやりとりのご紹介を試みようと思います。

(1)ワークショップ1回目(2019年12月18日): 手のひら合わせ→相手を感じて動く/踊りになっていく
・この時期は、Noism存続問題で大変だった時期と重なり、一層の地域貢献が求められていた。
・サッカー観戦と異なり、声を出せない劇場の性格から、いきなりの舞踊鑑賞は課題も多い。互いに理解し合う必要があった。
・栗川さん「実際に舞踊家の身体に触ってみてくださいと言われ、全身を触りまくった」
・山田さん「手が求めている。手が目である。触りにきているその勢いに頭が真っ白になった」
・栗川さん「肌と肌の触れ合いのなかで一緒に動いていくことに大きな意味がある。視覚障がい者に対する一般的な鑑賞サポートの在り方が、(1)オーディオガイドによる『ことば』を使った説明、(2)事前事後に組まれる『タッチツアー』と呼ばれる大道具や小道具を触る機会の提供だったりするなか、『ことば』に依らないで、ダンスを感じて、体験することを目指すもので、『とてもよかった』。『ことば』は理解するには優れたツールであるが、ダンスを鑑賞するには、足りないし、場合によっては害になり得る。本来、『ことば』では表現出来ない筈のものを『ことば』に還元してはダメ」

(2)ワークショップ2回目(2020年12月19日): Noismの作品『春の祭典』を踊ってみる
・実際の舞台を経験して貰えないかが出発点。
・『春の祭典』の冒頭部、椅子に座って、踵で床をリズミカルに踏み落とす。(2グループで違うリズムで)
・また、『夏の名残のバラ』の音楽に合わせて、身体で相手を感じて、繋がり、踊った。
・栗川さん「金森さんが『ダンスによる音楽や物語の可視化』と言ったものを、再不可視化したとき、何が残るかを楽しみにして本番の公演を観に来た。音、重量感、拍手、米の音や振動、息遣い等、触れるように感じることが出来た。体験したものが始まる瞬間には『来たー!」という嬉しさがあり、身体が覚えているものは一緒に動いて踊っているように感じた。しかし、映像作品(映像舞踊『BOLERO 2020』)には何も感じなかった」 
・栗川さん「視覚的には『見る』とは網膜に映すことを意味するが、網膜を介さなくても頭にイメージが浮かべば『見た』ことになるのではないか。何らかのかたちで外界をキャッチすることが『見る』ではないか」
・山田さん「踊っているとき、まだ見えないものやこれからの動き等、半分はイメージの中にいる。そういう時間軸のなかで踊っている。
・栗川さん「目で『見る』というのはほんの一部に過ぎない。視覚は強烈な感覚であるだけに人を惑わすこともある」
・山田さん「そのことは舞踊の本質と関係ある。いろんな要素が絡み合って、いい舞踊となる」

(3)ワークショップ3回目(2022年3月12日): Noismの作品『Nameless Hands - 人形の家』を踊ってみる
・栗川さんから「物語、ストーリー、Noismの世界観を感じたい」とのリクエストを受けて実施。
・山田さん「『ことば』だけでなく、身体で直接、伝え導いて振り付けることは出来ないかと考え、人形浄瑠璃にヒントを得た、黒衣による人形振りの作品を選んだ」
・栗川さん「本当に後ろから抱きかかえられて、人形となり、それが踊りになっていくのは面白かった」
・山田さん「最後はアラベスク、足を上げる動きまでいった」

(4)ワークショップ4回目(2022年12月17日): 『Der Wanderer - さすらい人』を踊ってみた
・スタジオBに設えられた本番の舞台で、空間も共有し、本番の曲を踊るに至った。
・更にワークショップの終わりには、車座になってのディスカッションの時間が初めて設けられ、感想や疑問を出し合った。
・栗川さん「本番も観に来たが、スタジオBでは、(劇場ほど大きい空間ではないので、)空気を切って動く動きまでを全身で感じることが出来た。また、歌曲の歌詞も貰っていたので、点訳したものに触りながら鑑賞することが出来た。リハーサルでは倒れて死んでいる筈がハアハアしていたのが、本番ではピタッと息を止めていた」(笑)
・山田さん「栗川さんが来ているときの本番では、踊りが『やかましくなる』。(笑)そこにいる人にどうしたら何かが届けられるか、届けたいと思うから」

(5)『Floating Field』 声の踊り: 新たな試み、その映像の紹介
・山田さん「舞台上のあちこちで展開される、抽象的で踊りそのもののような作品『Floating Field』。それを踊っている映像に、演出振付・二見一幸さんの許可を得て、Noism2のメンバーたちによって、『シュッ』『ダッ』『ドンドン』などの声(一種のオノマトペ)をインプロ(即興)でかぶせて録音してみた」
・栗川さん「割といいかもしれない。可能性があるかもしれない。意味のある『ことば』よりもスピード感やきざみがあって、動きに近い。例えば、リヒャルト・ワーグナーは楽劇を創るにあたって、キャラクターの音形を『ライトモチーフ』として予め設定しておいて、それを用いて構築していくスタイルをとった。また、これはこれで現代音楽としても面白いんじゃないか」

*会場からの質問01: ワークショップといった体験なしに、実際の舞台を見ることは可能か?
 -栗川さん: 「領域」ダブルビル公演は体験なしに観た。金森さんと井関さんの『Silentium』はとても静かな作品だったので、ステージの気配を感じ取るハードルは高かったが、『Floating Field』の方は動きが激しいので感じ易かった。

*会場からの質問02: ダンスという非日常の体験を経て、日常の何かが変わったようなことはあるか?
 -栗川さん: 便秘気味だったが、「ピョンピョン」とか「ブルブル」とか、身体を大きく動かしたり、細かく動かしたりして、便通がよくなった。内臓にもいいのでは。Noismのお陰かなと。(笑)

*会場からの質問03: 視覚障がい者のためのからだワークショップ、ひとつの舞台のように見えた。見学できないか?
 -山田さん: 人数が多くなると大変なところもあるが、今後、目が見える人と一緒にやることなどもあっていいかもしれない。

…と、そんな感じだったでしょうか。一緒によりよいものを目指して、模索し、工夫に工夫を重ねて、「視覚障がい者のためのからだワークショップ」をアップグレードしてきたおふたり。「柳都会」の終わりにあたり、山田さんが「ワークショップで出会えた人たちに感謝します。踊りが広がり、身体感覚が深くなった」と語れば、栗川さんは「一緒に芸術を創っていきたい」と応じました。

手探りで始められたのだろう「ワークショップ」が僅か4回で大きな進歩を遂げてきたことに驚きを隠せません。

そして、何より、山田さんのみならず、金森さんも井関さんも常々、ワークショップに出られる視覚障がい者の方たちの感覚が、「本当に踊れる舞踊家のようだ」と語っている、その一端を垣間見ることができて、多くの学びを得ることが出来ましたし、今回の「柳都会」のおふたりのやりとりの中心にあった『見る』ことや、逆に、やや旗色の悪い趣だった『ことば』の働きについて、更なる思索に誘われる刺激に満ちた時間となりました。そうした空気感だけでも伝えることができたら幸いです。それではこのへんで今回の「柳都会」レポートを終わりとさせて頂きます。

(shin)


「柳都会」vol.26 渋谷修太×金森穣(2023/03/18)を聴いてきました♪

ここ数日の暖かさはどこへやら、冷たい雨がそぼ降る2023年3月18日(土)の寒い新潟市。雨もあがった夕刻16:30からの「柳都会」vol.26 渋谷修太×金森穣を聴いてきました。(@りゅーとぴあ〈能楽堂〉)

この日のゲストはアプリとデータをテーマに事業展開するIT企業・フラー株式会社の代表取締役会長 渋谷修太さんとあって、ビジネススーツ姿の来場者もおられるなど、いつもの「柳都会」とは少し雰囲気も異なるように感じました。そしてこれを書く私はと言えば、デジタルにはとんと疎いもので、「ついていけるかなぁ?」という不安が拭えずに会場入りしたような次第でした。しかし、渋谷さんの人間味溢れる人柄と語りの上手さに惹き付けられてあっという間に終了予定時刻になっていた、そんな対談でした。ここでは話された内容からかいつまんでご紹介しようと思います。

冒頭、この日の占いで「口は災いの元」と出たので気を付けるという金森さん。つかみはOK。そこからは主に渋谷さんがご自身とフラー株式会社についての話をされるかたちで進んでいきました。

*起業家の力で、故郷を元気に。
渋谷修太さんは1988年、新潟県生まれ。佐渡に実家も、親の仕事の都合により、→妙高→南魚沼→新潟と転校→長岡高専へ進学(プログラミング・テクノロジーを学ぶ)→筑波大学に編入学(経済・経営を学ぶ)→IT企業・グリー株式会社に勤務(2年強働く)→1911年、愛着のある新潟で、長岡高専時代の仲間と一緒にフラー株式会社を設立した。「友達と一緒にいたい。どうしたら『卒業』しないで済むんだろうか。会社があれば」の思い。創業時、5人→現在、150人が働く会社へ。
高専: 高等専門学校。中学卒業で入学することができ、5年間の一貫教育で優れた専門技術者を養成するための高等教育機関。全国に57校ある。「かつてアメリカのオバマ元大統領は『日本で一番優れた教育機関』と評した」と渋谷さん。

2016年、アメリカの経済誌「Forbes」から、年に一度選出する「アジアを代表する30歳未満の30人」に選出されたことを報せるメールが届いた。同年の選出者には、他に田中将大、錦織圭、内村航平もいて、そこに「起業家」が並ぶことはアメリカでは驚きなく受け止められることであり、日本で「『おおっ!』ってなるのをやめさせたい」(渋谷さん)思いがある。評価されたのはアントレプレナー(起業家)としての「数値」:会社を成長させるスピードや資金調達力(当時、10億円くらい集めていた!)

2021年、EY「アントレプレナー・オブ・ザ・イヤー・ジャパン」10人のうちのひとり(Exceptional Growth(=並外れた成長)部門)に選出される。「地方創生DX(デジタル・トランスフォーメーション:デジタルでの変革)のリーダー」

*フラー株式会社 
「自動車だったらトヨタ、家電だったらソニーといった、日本発で世界一といえるような会社をITの世界でも創りたい。」
デジタルパートナー事業: パートナーに寄り添い、共に創り、本当に必要なものを届け、企業がデジタル化していくのを支える。
一番大事にしているのは人。IT企業には在庫はない。コストの大半は人件費。
社員の平均年齢:32歳。高専出身者:27%。
地方拠点を活かした開発体制:都心から離れた拠点率:100%。(←Uターン就職の受け皿に。)

*社会全体がHAPPYになることを目指す、地方のデジタル化
【例】長岡花火のアプリ開発: 大勢の人が集まることで電波が繋がり難くなるウェブサイトに対して、使えるのがアプリ。
金森さん: どうして? その瞬間、最新の情報にアクセスできるの?
渋谷さん: 事前にアプリをダウンロードしておけば、最新の情報も情報量は少ないので、キャッチできるときにキャッチすることが可能。

「デジタル化」はあくまでも手段。「長岡花火が良くなるんだったら、デジタルでなくても何でもやろうよ」→ゴミ拾いなども行った。→そこを見てくれて評価してくれる会社(任天堂)もあった。

*2本社体制(新潟&柏の葉)、それぞれの地域を活かした活動
統計によれば、東京で働く人の4割が地元に戻りたい思いを持つが、仕事が理由で叶わない。→ささるキャッチコピーを投下。
・交通広告: 改札を出ると、またはエスカレーターに乗ると、「フラー」の広告。
・年末・年始のTV 15秒CM: 年末・年始、普段はTVを見ない若者が、お茶の間で家族と一緒に点いちゃっているTVを見ている時間帯にCM。
「ふるさとに帰ったら挑戦は終わりだと思っていた。この会社と出会うまでは。」
「諦めなくていいんだ。新潟に戻るのも、ITの仕事も。」 

*「地域に優しいデジタル化を通じて、世界一、ヒトを惹きつける会社を創る。」
ソフトウェアの地産地消。持続可能であること。地域の課題を地域で解決することは働くモチベーションになる。地域に雇用を生み出す正しいサイクルを目指す。

金森さん: 経営者の面のほか、デジタルのプロダクトやコンテンツはどうしているの?
渋谷さん: デザイナーとエンジニアに任せている。「自分よりできるヤツいる。みんなで一緒につくればいいんだ」自分は説明やお金集め、人集めに特化。
金森さん: 日本のプログラマーは現在、最先端ではない。「外国へ行きたい」とかならないの?
渋谷さん: シリコンバレーで感じたのは、「こいつらもめちゃめちゃ凄くはないな」ということ。但し、挑戦はするし、プレゼンは上手い。日本にも優秀なエンジニアはいる。
金森さん: テクノロジーの進化に対応する必要はある。
渋谷さん: 英語のメディア等に情報を取りにいくことは必要。更に実際に自分で使ってみることが重要。

3年前、故郷・新潟に移住して感じたリアルな現場: ファミリー経営が多い地方の企業は社長交代期に、60代から30代へとか、「世代がとぶ」環境があり、一気にデジタル化が進む傾向もある。

新潟には、100年続く老舗企業も多く、そうした既存企業の更なる飛躍と新潟初の新規事業の促進をDXで支えていくことを目差す。
全国的にも起業家が少なかった新潟において、新潟ベンチャー協会として若手起業家合宿などの活動を行うことで、現在、若手起業家は増加している。「ローカル発。世界に新潟から。」
金森さん: 同業他社が増えていいの?
渋谷さん: 人に関しては、ある程度、「集積地」を作らなければならない。フラーなのか東京なのかではなく。給与のレンジや競争の適正化が図れる。自分としては、「競争」ではなく「共創」のイメージがある。

*AIで仕事は変わる
金森さん: テクノロジーやAIの進化で人はどんどん要らなくなっていくとみられている。この先もアプリを作るのは人間?
渋谷さん: ゆくゆくはAIが作るようになるだろう。AIで仕事は急速に変わる。AIを使いこなし、味方につける術を身につけていくことが求められる。スティーヴ・ジョブズも「既存の仕事はなくなるが、クリエイティヴなことに使う時間は増える」と言っている。時間が節約され、膨大な時間が生まれる。それを人間にしかできないことに使うこと。

*活躍できる土壌、文化、場所
シリコンバレーの風土・環境: イノベーション施設「wework」には遊ぶ環境も用意されていて、昼からビールも飲める。精神的に何がよしとされているか。ハード面でもクリエイティヴな環境があることが大事。→プラーカに「新潟版」を作って貰った。「NINNO(ニーノ)」:新潟とイノベーションを掛け合わせた造語。
金森さん: 環境に惹かれる人間の感性を育てることも重要。劇場はクリエイティヴィティが発動する場という思いでやっている。ローカルに消費されるだけでなく、世界と繋がっていることが感性にとって大事。
渋谷さん: アメリカのポートランドの例をみるまでもなく、芸術とクリエイティヴな人材の相関性は高い。「Noism、希望だな」と思う。個と集団を扱ったこの間の作品(『Der Wanderer-さすらい人』)、(会社)集団が大きくなってきていて凄くささった。
金森さん: 世界の主要な劇場には多数の日本人がいる。帰って来ようにも(金銭的にも、精神的にも)来られる環境がない。
渋谷さん: 活躍できる土壌、文化、場所が必要なのはアートもITも同じ。仕事をつくれば戻って来られる。

会場からの質問
01a: 社名「フラー(FULLER)」の意味・由来は?
-渋谷さん: サッカーボール状の構造をもつC60フラーレンに由来する。強固な構造をもつと同時に他とも吸着する側面を併せ持つ。また、「ソニー」や「ヤフー」のようなカタカナ2文字+伸ばし記号にもしたかった。
01b: 「起業家」の意味は?
-渋谷さん: 社会に今、存在していない解決策をつくる存在。何かインパクトを起こし続けたい。
01c: 友達と一緒に会社を作った。その組織論は?
-渋谷さん: 最初はよくても、10年続くのは6%に過ぎない。自分はビジネスアイディアよりも友達が大事。みんなでやることが大事。友達と一緒だったので、苦難・困難も乗り越えることができた。

02: 2011年の創業。物凄い勢いで勝ち上がってきた。その秘訣は?
-渋谷さん: シンプルに言うと、助けて貰った。愛された。アプリ製作から「新潟においでよ」と言って貰えた。先輩経営者の方々が協力してくれて今に至っている。自分としては誰よりも新潟を愛している。住みたい人が住めるようになって欲しい。そのために、何かしらできることがあればやりたい。

03a: 人とのコミュニケーションの取り方、人との関わりのなかで身につけていくこと希薄になっていないか?
-渋谷さん: 自分はコンピュータよりも人が好き。デジタルも使うことによって人と一緒にやっていけるものと信じている。アイディアはひとりのときよりも人と出会うことによって生み出される。
03b: 介護分野でのデジタル化進んでいないが、どう考えるか?
-渋谷さん: デジタル化は時間を生み出す。介護もデジタル化が必要となる分野。大事である。

04: 企業やアプリにおけるアイディアや著作権はどうなっているか?
-渋谷さん: IT分野では、アイディアだけでは意味がない。誰もが同じようなことを思いつくが、実行が大事な分野。Facebookのマーク・ザッカーバーグも”Demo is better than words.”と言っている。また、意匠面でもユーザーにとってインターフェイスは似通っていた方が使い易い。インターネットという環境をみんなで作り上げているように思う。
-金森さん: インターネットとはそもそもオープンソースであり、地球規模の民主化。一方、舞踊における固有性、脳や身体などは真似できないものだが、舞台のイメージやビジョンについては訴えられることもある。
人と違うことが大事だったのが20世紀とすれば、過去から学び、影響を受けることを恥じずに次の一歩を踏み出すのが21世紀。

*結びに
渋谷さん: 新潟はシリコンバレー同様、自然が豊かな良い場所。エンジニアのなかには登山やサーフィン等、外に出て行くことを好む者も多く、ITと自然豊かな場所や芸術的に盛り上がっている場所とは相性がよい。
1888年の新潟は全国で一番人口が多い町だった。一度できた町にはポテンシャルがある。若い人が増えて欲しい。戻りたい人が戻れて、住んで楽しい町になって欲しい。
金森さん: (渋谷さんは)「もう有能な政治家にしか見えないね」(笑)

…金森さんにそんなオチまでつけて貰って終了したこの日の「柳都会」でした。
ざっと、そんな感じでしょうか。何かしら伝わっていたら幸いです。途中に(トイレ)休憩も挟まず、聴く者をぐいぐい引き込んでいく、圧倒的に、或いはめちゃめちゃ面白い90分間でしたから。

聴き終えたら終えたで、渋谷さんについてもっともっと知りたい気分になり、物販コーナーにて著書の『友達経営』(徳間書店)を求めたところ、その後いろいろありで、渋谷さんのサインもいただけました。

そんなこんなで、とても刺激的で有意義な時間を楽しみました。以上、報告とさせていただきます。

(shin)

中村祥子さん×井関佐和子さんの「柳都会」vol.25を聴いてきました♪

Noism×鼓童『鬼』京都公演チケットの先行発売が始まった2022年4月16日(土)、夕刻16;30から、りゅーとぴあの能楽堂で開催された「柳都会」vol.25。初ホスト(ホステス)役を務める井関さんたっての希望で招かれたゲストは中村祥子さん。「舞踊家として生きる2人の女性、初の対談」を聴いてきました。

会場となった能楽堂に集まってきた聴衆はこれまでの柳都会とは違った雰囲気で、バレエダンサー中村さんお目当てという方も多かった様子。今回が初めての柳都会参加という方が大勢いらっしゃいました。

16:32。先ずは井関さんが、そして彼女の紹介を受けた中村さんが、それぞれ黒のワンピースに白い足袋を履き、摺り足で、橋掛かりから本舞台に用意された椅子へと進み出ました。

以下、この日のお話から少し紹介を試みたいと思います。

まず、スイスのローザンヌ国際バレエコンクールで出会った、中村さん16歳、井関さん17歳の頃の話から。
その時、初めてコンテンポラリーに挑戦したという中村さん、斜めの床で踊った『海賊』のヴァリエーションで「すってんころりん」とやってしまったことが紹介されるも、「転倒など重要なことではなく、将来性を見極めるのがローザンヌ」と井関さん。
その後、「挽回しなきゃ」との思いで踊った『告白』、中村さんは「何かが降りてきた」感覚で、(理由はわからないとしながらも、)亡くなったお祖母ちゃんと連動して踊り、自分なりに解釈して踊ることを体験、オーディエンス賞を受賞するに至ったとのこと。そしてスカラーシップを得て、シュトゥットガルトへ。

そこからクラシックバレエとコンテンポラリーと、2人の道は別々になるが、その奇縁を繋いでくれていたのが、2人とロパートキナ(ロシア:1973~)を好んだライターの故・浦野芳子さんで、平凡社から2人の本を出版してくれた、と井関さん。

シュトゥットガルトでの中村さん、靱帯断裂の大怪我をして帰国。そのまま契約が切れると、今度はウィーンへ。
やっと入ったバレエ団。コールドバレエだったところ、ソリストの役を貰い、意気込んで、ダブルピルエットの場面で3回まわったら、またしても「すってんころりん」。監督から「舞台全てを台無しにした。お金を払って観に来てくれたお客さんにも失礼」と言われ、プロの厳しさ、プロとは何か、みんなで作り上げていく責任を学んだ。
「『コールドが踊れないと、センターは踊れない』と言いますよね」と井関さん。

井関さんが、ナタリア・マカロワさん(ロシア:1940~)に指導を受けたことがある中村さんに、その印象を訊ねます。答えて中村さん、小柄ながら、「スーパーサイヤ人」のようなオーラを出していた人で、「ひとつひとつの形や振りではなく、内側のものを出すこと。何を表現したいのか見せなさい」と言われたことを紹介。その後、自分のこだわりを入れて踊ろうと思うようになったとのこと。
そして中村さん、ベルリンでウラジーミル・マラーホフ(ウクライナ:1968~)監督のもと、プリンシパルに昇格後も、自分らしさを忘れてはいけない、自分にしか出せないものを、自分ができるベストを、との思いで踊ってきたと。

日本のバレエ環境について:
「こういうふうにやらなきゃ」というふうに固まっていて、狭い。「自分をオープンにできる環境」や自由さがないのが残念と井関さんが言えば、中村さんも、「海外にはいろんなダンサーがいて、エクササイズにしても、みんな違った。美しくいたいという思いがあり、みんな違った格好をしていた。鏡に映してやる気を出したり」と。

ルーティーンに関して:
井関さんが、30代前半はルーティーンが凄かったと言うと、中村さん、「私も!」。「少しズレたら、ピリピリしていた」(井関さん)、「全く同じ道を通り、同じ物を食べないと舞台がうまくいかないみたいに考えて、凄くツラい生き方をしていた」(中村さん)
「その頃、自分は『失敗しない女』だと思っていた。今は『失敗してもいいや』と、舞台ではそれすら自由だと感じられるようになった。隣にいる47歳の人(金森さん)は、積み上げてきたものを崩して、失敗しないギリギリのところを狙える強さがある人」(井関さん)、「挑戦するのが好き。挑戦しないと」(中村さん)

中村さんと井関さん、中村さんと金森さん:
井関さんが柳都会に中村さんを呼んだのが先で、その後、金森さんが中村さん(と厚地康雄さん)を振り付けることになったもの、と明した井関さん。
中村さんは「金森さんは雲の上の人」で、「穣さんの作品を踊れるなんてあり得ないと思っていた」のだが、「NHKバレエの饗宴」に際して、自らの挑戦として、「穣さんの作品を踊らせて頂きたい」と申し出たとのこと。
そのオファーに、井関さんが「熱意は伝わるもの。穣さんはすぐにOKしていた」と話すと、中村さん、「厚地くんは『穣さんが忙しくて断られますように』と言っていた」など、リハーサルまでの間、2人とも不安だったと舞台裏を語った。で、そうして迎えたリハーサルを終えてみて、厚地さんは「一生の宝物になります」と言い、中村さんも「良いものを作りたい。穣さんの世界観に近付きたい」とその思いを口にしたところで、時間は17:20。そこから10分間の休憩に入りました。

(休憩中に、井関さんが紹介していた中村さんの本『SHOKO』をamazonでポチった私です。蛇足でした。)

休憩後は会場からの質問シートを基に、井関さんが中村さんに訊ねるかたちで進行されました。なかからいくつか、簡潔に質問と答えを記していきます。

*中村さんの今後の活動は?
中村さん「Kバレエ団を退団して、今はフリー。バレエの他にも、幅広いことが見えてきた。こういう時期も必要だったと受け止めている。もっと踊りたいとも」
井関さん「表現は息の長いもの。同世代の中村さんは大切な存在」

*一番楽しいこと、一番ツラいことは?
井関さん「楽しいこととツラいことは重なっていることが多い」
中村さん「若い頃と違い、日によって波がある。自分の求める動きじゃなかったりする日はツラい。それを受け入れて、前へ行く」
井関さん「ずっと集中しているのは無理。ONとOFFは大事。最近、Noismも良い感じの波が出来てきた」(笑)

*身体を鍛えること:
井関さん「していない」
中村さん「していない。背中の筋肉が綺麗と言われ、『絶対にしてますよね』と言われるが。でも、リハーサルが始まると、ババババァンって(筋肉が)付いてくる。要は使い方と意識なんですよね」
井関さん「脳からの指示で筋肉は変えられる」

*足袋とトゥシューズ:
中村さんの足のサイズは25.0cmなのに、そのサイズの足袋が入らず、26.0cmの足袋を履いて能舞台に立つことになったのは、甲高だったため。
中村さんの「トゥシューズはスリッパ」発言に、井関さん「!」

*食事で気をつけていること:
「イメージはササミ。ササミですよね。チョコレート、食べないですよね」と言われたりすることが多いという中村さん、「チョコレートは普通に食べるけれど、踊り出したらすぐにシュッとなる。筋肉もついてくる」

*バレエ、ちっとも上達しない。どうやればいい?
中村さん「私もまだまだだと思いながらレッスンしている。終わりがない世界。調子が悪いときには受け入れるしかなく、それを乗り越えてやろうと思える。スタジオに行くだけで気持ちがリセットされる。終わって外に出たときに新たな気持ちになっている。それだけで良いのかなと」

*ルーティーンに入れている食べ物は?
中村さん「納豆や卵といったタンパク質を摂るようにしている。他に、これは初めて言うけど、ヤクルト1000を飲んでいる。(息子はヤクルト400)」
井関さん「うちの人(金森さん)も毎朝、ヤクルトを飲んでいる。市内のスーパーからヤクルト、消えたりして」(笑)

*舞台に出るとき、緊張するのだが、どうすれば?
中村「緊張していてもいい。昔はお客さんへの意識強くて、怖いくらいの緊張感があったりしたが、ある時、舞台のここ、ハコで、自分のファンタジーを作って、自分の世界を楽しもうと思えるようにもなった。要は考え方次第」
井関さん「緊張しない方がヤバイ」
中村さん「ミラクルな舞台の経験ありますか」
井関さん「一度、幽体離脱のような経験がある。『今、舞台から出て行ってもいいよ』ともう1人の自分が言っていて、本当に自由な選択の感覚があった」
中村さん「『白鳥』を踊っている、ゆったりしていた時、何でも出来ちゃうみたいな、余裕の瞬間を味わったことがある」

*ダンサーとして一番の喜びは?
中村さん「終わった瞬間の客席からの拍手。『こういうふうに感じて貰えたんだ』と、それを浴びたとき」
井関さん「終わったときの(客席との)波長がピタッときたとき」
中村さん「踊っているあいだ、普通、客席は見えないのだが、『クレオパトラ』では落ちるとき、見える瞬間がある。これだけの人が一緒に舞台を支えてくれているんだという有難みを感じる」
井関さん「舞台は一期一会の会話」

…とまあ、そんな具合でしたでしょうか。完全にご紹介することは出来ませんが、雰囲気だけでも伝わっていたらと思います。(18:08終了)

中村さんと井関さん。「Fratres(同志)感」溢れるおふたりはもう息がピッタリ合っていて、いつまでも話していられるといった感じでした。金森さんの振付で一緒に踊る機会なんかも妄想されるだけでなく、早晩実現する日がやって来るのでは、とそんな途方もない期待も芽生えたトークイベントでした。

この後、インスタライヴに場所を移して、「柳都会」初、終了後の楽屋トークが配信されました。その模様はこちらからアーカイヴでご覧ください。(スタッフのように動く金森さんも楽しいですよ。)

(shin)

「柳都会」vol.24:小林十市さんを迎えて、回想されるローザンヌの日々、それから…

コロナ禍の影響で、9月11日(土)に開催予定だった「柳都会」が、10月4日(月)18:00からという平日の異例な時間帯に振り替えてまで実施された裏には、金森さんの強くて深い思いがあったからと解してまず間違いはないでしょう。この日のゲストは、金森さんが「兄ちゃん」と親しみを隠さない「エリア50代」小林十市さん(ダンサー・振付家)。接点はモーリス・ベジャール(1927-2007)、そしてふたりが彼の許で過ごしたローザンヌの日々。その2年間を回想しながら、金森さんが繰り出す質問と答える十市さんを基軸に、観客の前に浮かびあがってくる巨匠ベジャールの「横顔」。気負ったところのまるでないおふたりのお話にはとても興味深いものがありました。そのあたりが少しでも伝えられたらと思います。

1992年の出会い。舞踊団「ベジャール・バレエ・ローザンヌ」所属の十市さん23歳、バレエ学校「ルードラ・ベジャール・ローザンヌ」一期生の金森さん17歳。
 金森さん「人生で一番孤独な時期だった」
 十市さん「そんなに大変だった?一期生だし、自立して、自分の世界を持っている人たちのひとりに見えていた」
 金森さん「閉ざしていただけ」
前年(1991年)の暮れ、カンパニーに大リストラが断行され、60数名いたダンサーが25名に絞られ、同時に、(表向きは)「創作活動を濃密に」と学校が創られることに。(その学費はゼロで、後にベジャールの私費でまかなわれていたことを知ったと金森さん。)

一方、十市さんはジョージ・バランシン(1904-1983)に憧れて、NYに短期留学(バランシンが設立したバレエ学校SAB)。その後、日本に帰る気はなかったものの、アメリカでのワーキングビザ取得は困難を極めたため、母親が好きで、自分も観たことがあったベジャールに履歴書を送ったところ、すぐに返事が来て、3泊4日のプライベートオーディションの機会が設けられた。眼光鋭く、レッスンの様子を見ていたベジャールに「君のこと気に入ったから、一緒に仕事をしたい」と言われ、採用されたのが1989年。そのとき、十市さん20歳。ベジャール62歳。その後、腰の怪我で辞めるまで14年間、ベジャールの許で踊った。バランシンやってみたい気持ちがなくなっただけでなく、他の振付家の作品を踊りたいと思ったこともなく、ベジャールの作品のなかで違う作品をやりたかっただけだったと十市さん。
 金森さん「怪我に対してベジャールさんは寛容だったの?」
 十市さん「全然、寛容じゃない。昔の人だったし、舞台命の人だった。『痛い』と言っても、『僕も痛いよ』と言われちゃうと、もう何も言えなかった」
 金森さん「ジョルジュ・ドンさんって、どんな感じでしたか?」
 十市さん「カンパニーのなかでひとり別格。ひとりだけ、スターって感じ。ホテルの浴衣を羽織って、パイプの先に煙草をくゆらせて…、ちょっと近寄り難い存在だった」

ベジャールの創作風景について、
 金森さん「ベジャールさんは作品について説明したりしたんですか?」
 十市さん「モノによっては。振付は順番通りには行われなかった」
 金森さん「怒鳴ったりしたんですか?」
 十市さん「そういうイメージはない。自分が動きながら作品を創っていく。でも、恐い存在で、私語する人などいなかった」

 十市さん「振り返ってみるとローザンヌはどうしても行かざるを得なかった場所。分岐点に思える。果たして自分で選択しているのかどうか」
 金森さん「こうして新潟で並んで話していることが奇跡」
 十市さん「あっちの方で決まっているだろうシナリオを知らないだけで生きている。決まっているんだろうけどわかっていない」

今回のふたりのクリエーションについて、
 十市さん「まずは9月頭に2週間。1週目に振りを覚えて、次の週、身体が痛くなったので、『ハンディを付けて』と言ったら、『それは失礼なことだし、そんな十市さんは見たくない』と言われた。で、今日も勇気さんに教えて貰った治療院へ行ってきた」
 金森さん「今回の振付でベジャールっぽいところはありましたか?」
 十市さん「Noismメソッドに感じた」

事前に寄せられた質問
①新潟の印象は?
 十市さん「自転車に優しいところが『いいな』と感じた。自転車で近付いていくのを感じるとよけてくれたり」
②新潟で美味しいと思ったものは?
 十市さん
「ホテルで食べている朝食のお米。日本は何でも美味しい。海外ツアーをやってたとき、耐えられたのはイタリアだけ。ドイツは大味だし、スペインは油っぽいし…、日本は世界で一番美味しい」
③40代から50代、身体の維持方法は?
 十市さん
「よい鍼(はり)の先生に出会うこと。(笑)今回のように、これだけの運動量があると代謝もあがり、食生活は気にしないで済むが、母は常にお腹のチェックが厳しくて、よく矢沢永吉を引き合いに出しながら、『永ちゃんは腹出てないから』と言ってくる。まるで呪縛のように、『ちゃんとしなさい』って言われてきたが、それって何?」
④初めて観たNoism作品は何?
 十市さん
「多分、映像で観た『NINA』。メソッドにもある立っているやつ。それと、2010年に池袋で観た『Nameless Poison』。そのとき、ふたりでツーショットの写真を撮っているから」
⑤17年間、金森さんがNoismを続けてきたことに関してどう思うか?
 十市さん
「凄いよね、大変だよね。細かいことも聞いたけど、活動できる場を与えられているのは、やはり人かなと思う。穣君と新潟市との関係。ベジャールさんとローザンヌのように」

「常に自分のことで精一杯」という十市さん、「これからどうするんですか」と金森さんに問われると、まわりの3人の女性(母、妻、娘)と折り合いを付けながら、自分の幸せ=舞台に立つことを追い求めていきたいと語り、「舞台の上から、暗闇(客席)の中を凝視し、内観しながら、何かを探る感じが好き」とし、演劇や映像も経験してみて、「やはりダンサーの中身、ダンサーとしての記憶が残っている。自分を捨て切れなかったから、役者にはなり切れなかった」と感じているのだそうです。しかし、演劇に行ったことについては、その要素も濃かったベジャールさんを理解するうえでは大きかったとも。

もう一度、ベジャールの存在について、
 十市さん「ベジャールさんがやめるまでやるつもりだった。ベジャールさんに『指導で残ってくれ』と言われたけど、踊りたかったから、踊っている人たちを教えられないと思ったから」
 金森さん「でも、1年くらいで腰の痛みはなくなったんでしょ?」
 十市さん「1年半。日本で、福島の外科医さんに椎間板に注射一本打って貰ったら痛みがひいた」
 金森さん「でも、戻るとは考えなかった?」
 十市さん「世代交代だと思った。で、演劇へ。でも、今は舞踊で舞台に立ちたい」


 十市さん「踊っていた14年、その後も含めると15年、ベジャール・ファミリーに入って生活していて、そこで創られた自分が今に至っているのかなと」
 金森さん「逆に、2年しかいなくて、空きがなくて入れなかったから、憧れがある。その呪縛から、もっと新しいもの、もっと美しいものを求めてきたけれど、離れることは出来ない。そして今、東京バレエや十市さんが寄ってくる感覚が不思議」
 十市さん「ベジャールに思いを馳せて作品つくりをしているが、『怪我をしないように』と穣くんに言われても、穣くんの作品を踊っているのだし…」
 金森さん「作品つくりは妄想から始まる。で、『十市さんならもうちょっと、もっと行ける』となる。『これぐらいで良いかな』とか現実的になり過ぎるとできない」


最後に至り、十市さんが、数日前に、携帯電話で奥さんと話しながら萬代橋付近を歩いていた際、赤信号の交差点を、前方に見える青信号と勘違いし、渡ろうとして、「死にそうになった」経験から、「本番の舞台でなくても、常に悔いを残さないように全力でやらなきゃダメかな」と思ったと話せば、今回、新潟は劇場に空きがなくてやれないものの、「再演するかどうかは十市さんのお腹次第」と話した金森さん。予め90分という枠が設けられていなければ、いつまでも尽きることなく愉快に話は続いていったことでしょう。

そんなおふたりの初めてのクリエーション、「Noism Company Niigata × 小林十市」は、KAAT神奈川芸術劇場・大ホールにおいて、10月16日(土)と翌17日(日)の二日間の公演です。

そちらは観に行かれないという方にも小林十市さんが登場する舞台は新潟でも。「エリア50代」、11月13日(土)と翌14日(日)です。

この日のお話を聞いて、ますます期待が膨らみました。どんな舞台が観られるのか、待ち遠しい限りです。

まだまだ色々と書き切れませんでしたが、この日の「柳都会」レポートはこのへんで。

(shin)
 

柳都会vol.23 山田うん×金森穣【対談】レポート

2021年3月7日の「柳都会」後半は、会場や金森さんからの質問にこたえ、さらに山田さんのトークが続きました。

質問/東村山のワークショップ(以下WS)の内容はどのようなもの?
45分、2クラスで即興などの内容。重度障害で踊れる人は少ない。もし、じっとうずくまっていても”踊っている”という認識でいる。音楽は、歌謡曲、クラシック、ロック、いろいろなジャンルのものを流す。偏るとストレスになってしまう。
毎回必ずやることは「WAになっておどろう」で、となりの人と手をつなぐ。「線路は続くよどこまでも」で、前の人の肩に手を置いて列になる。最後に床にねころんでクールダウン。身体を動かすと興奮状態になるため、そののままだと施設に迷惑がかかってしまう。背がまるまったままの人もいるので2-3分かけて寝転び、5分寝転んで、また2-3分かけて起きる。
質問/施設でのWSは、始めた頃は大変だったのでは?
ふだんは歩けないようなおじいちゃんが、スーダラ節が流れたら立ちあがって踊りだした。私達は喜んだけれど、施設の職員さんからは、心臓に負担がかかるのに!と怒られた。
ただ、施設によっては、ここで死んでしまってもいいからやってください(真剣な表情を再現する山田さん)、と言われることも。担当する人によって、どこまで許容しているかは違う。

金森/プロジェクトごとにオーディションをしている?
初期はプロジェクト毎にオーディションをしていた。集団を維持していくのは大変。今のメンバーは4期〜8期の経験者がいる。それぞれバイトをして、プロジェクト毎に集まる。アベンジャーズみたいな感じ、いろいろな人がいた方がいい。
東村山は毎週行っている、WSが多いのでメンバーには「行ってみる?」と問いかける。温度差はあるが押し付けはしない。
決まった稽古場がないことについては、東京のカンパニーはみんなそうだが、毎回違う公民館で練習している。稽古場を間違えて遅れることがよくある。私も間違える。アクティングエリアの確保は難しい。
東京のカンパニーの中での特色はなに?
最近、豊橋とかでレジデンスをやりはじめている。他のカンパニーは自らは合宿していない。差はわかりませんね。
ダンスとのかかわりについては?
OLをやっていた時もある。踊りは、盆踊り、器械体操、モダンバレエをやっていた。80年代の外国の公演をいろいろ見て面白くなった。全国の盆踊りや神楽を調べている。
新潟でも誰かやっていなかったっけ?
堀川久子さんですね、お会いしました。
昔、アスベスト館で笠井叡さんや舞踏を見た。日本の土着的なものに惹かれていた。宙返りはできてもプリエはできない。そこをつなぐヒントになるかと、自分のスタイルを立ち上げるために舞踏を3年(20歳〜30前位)した。スタッフワークをやっていた時期もあり、照明もできる。
会社は20歳くらいでやめた。バブル崩壊期の証券会社にいたので、入社してから謝ってばかりだった。(大変申し訳ございませんでした……と真剣に謝ってみせる山田さん。笑いが起こる会場)
やはり、お金と芸術について考える。OLをやめてアートに携わった。90年代に横浜の小劇場で制作をしていた。セッションハウス、それからパークタワーで若手を応援し育てようと、振付をはじめた。
Noismもパークタワーから活動開始してるんだよね。
2000年に、もう最後かなと思って横浜ダンスコレクションに出演したら、受賞した。そこから渡仏した。踊る側でなく、振付をしたかった。お金とか制作とか、斜めから俯瞰して見ていたい。
カンパニーを持って、プロジェクトベースで人を集めているけれど、作品ごとに個性があるし、すごい才能を集めたくはならない?
カンパニーを固定することをイメージできない。舞踊は時間がかかる。3年に一度オーディションはする。最低3年、身体、精神、神経をつかいながら、一緒に作っていく。立ち上がっていくものが伝達されるので、例えばここで宙返りができる人がほしい、という気持ちはない。
「コスモス」はダンサーが結構作っている。作ったピースを細かく監修している。
「コスモス」の群舞はアクティングエリアが広いけど、どこで作った?
群舞や万国旗が出てくるところは、水天宮ピットで作った。広いスペースがある。
公民館で机を動かしたりしてると怒られる。家にも稽古場があり、ベッドを入れてピースを作った。作品のコンセプトとして作り方を決めていた。
「春の祭典」ではテクニックの伝達について触れたが、メソッドはあるの?
バレエとバーレッスン、裸足が基本。身体をスパイラルに捻るというバレエの要素は要る。あとは、阿波踊り、筋トレ、即興、ヨガ、時期によって違う。
いろいろしているけれど、拠り所は? 何かを上達させるとか?
ヨガ、バレエ、週1で阿波踊りをやりたい。床を踏む時に、指のどこを意識するかとか。
場所と時間が与えられたら、毎日クラスをやりたい。
専属の声がかかればやる?
やります。
専属になると、今のような活動がやりづらくなることはない?
やりづらくなるかな……?
WSの時、ダンサーと向き合うのではなく、参加者と向き合って、ダンサーと横で肩を並べている時に幸せを感じる。時間をシェアしている感覚。
振付を作るのと、覚えるのとは違う。私が振付を覚えていると時間ぎれになってしまう。

質問/カンパニーに入る条件はどんなもの?
新作メンバー募集の時は、即興、面接などで決める。
カンパニーのメンバーになると、自然にWSに駆り出される。いやならいいけど、興味があれば行ってみない?と一人ひとりに声掛けをする。
作品のコンセプトは自分が作る。動きをつくる時は「コスモス」なら、ベッドを置いて、2人のダンサーに、どうぞ!……と、結構自由にやる。やってみてスパイスを加える感じ。神経を使うところもあり、ホスピタルでなくホスピスと限定したりする。
質問/WSをする小学校や障害者施設は見学できる? アート、教育、医療、地域、親、文化政策、財源、自治体など関連すると思うが?
学校による。見られることがストレスになる場合もある。教育関係や親はokしている。7年くらいWSをしていた神奈川は見学ok、宮城もok。障害者施設もコロナ前はokだったが、コロナ後は全部だめになった。
見学といってもオープンにはしているわけではなく、直接連絡をくれたり、どの人かわかるつながりがあれば問題ない。
質問/山田さんにとってダンスとは?
芸術だけではない。傷つけることもあるし、一言では言えない。
欲張りなので、ダンスが活動につながるというか、いろいろな切符を持っている要素だと思う、ITやレストランでの活動につながったりもする。ダンスは誰でもできると思ってしまう。

金森/誰でもできるなら、なぜオーディションをするの?
それは、誰とでも結婚できるかといえばそうではないような事。ダンサーは私自身のスピリットを注げる人。ダンスは万人のものだし、クラブ、盆踊り、舞台と様々ある。仲間内で踊る、制約のある中でアートとしてのダンス、路上で踊るとか、小学生の中にいても踊ればこちらを見てくれる。踊りを立ち上げていけば、魔法使いのようになる。
アカデミックにダンスをやってきていないので、可能性、裾野が広がっているように感じる。
さっき「春の祭典」のくだりで”教育”という言葉が出たけれど?
空間に対して身体をどう使うか。要素が足りない、弱い、似ているけどそうじゃないことがある。誰のものでもあるダンスから、そこまでは自発的に出てこない。
その部分についてはどう処理するの?
処理しない。判断を保留しておくと、10年くらい経って解けたりする。じっとしていたいと思う部分との葛藤と矛盾がエネルギーになる。

質問/山田さんと金森さんは初対面? Noismについてどう思う?
面識はあったけれど、こうして話すのは初めて。
Noismは圧倒的。最初から最後まで隙がない印象。ばーん!というイメージで、気持ちがいい。自分の作品は、愛嬌、そばかす、ほころびみたいな、真逆のテイストがある。Noismの作品には厳しさを感じるので、どう作るんだろうと思っている。
新潟市にこんなカンパニーがあるなんて、専属舞踊団があること、そんなことが日本で起こる時代がくるなんて夢のよう。舞踊団がある新潟市が続いてほしい。
舞踊や芸術について、いま横にレンギョウがあるけれど、これはなくてもいいもの。でも、あったほうがいいし、好きになれる。Noismがあるから新潟がいいという人がたくさんいると思う。

金森/うんさんが専属をやれるならやりたいと言っていたことは意外だった。でも本気で時間と場所が欲しいと言っているし、そうなったら相互にノウハウを学び共有して、Noismと情報交換をしながら発展していくという妄想が広がってくる

山田さんのお話は多岐に渡り、とても時間が足りないようでした。ポジティビティに満ちた、密度の濃いなひとときでした。
発言にペンが追いつかなかった部分もあり、ニュアンスが異なる点もあるかと思います。ともあれ、そばかすが紛れ込んだような解像度ながら、現場の雰囲気を感じていただければ幸いです。(のい)

柳都会vol.23 山田うん×金森穣【レクチャー】レポート

2021年3月7日(日)16:30~18:00 りゅーとぴあスタジオBにて、柳都会vol.23 山田うん×金森穣「いま、ダンスカンパニーを率いること」が開催されました。会場では、前日の「コスモス」舞台上で存在感を放っていたレンギョウの活け込みが聴衆を迎えてくれました。
山田さんは、カンパニーのプレゼンは初めてとのことで、映像とカンパニー来歴の年表を交えながらお話しされました。以下、会場での聞き書きを整理し、敬称略にて掲載しました。特に断りがない場合は、山田さんの発言です。(★はスライド)

『柳都会』チラシ

コスモスについて
「コスモス」は当初、映像バージョンとして構成された作品。
昨年6月、東京芸術劇場での公演を中止した(中止を申し渡されたのではなく、状況からお客さんを入れられないという自主的な判断)ことを契機に、映像作品として作った。作品制作の過程でも、密にならないよう構成をした。新潟公演が実現した事は奇跡のよう。カンパニーメンバーはふだん夜のみ練習をしていて、昼はそれぞれアルバイトをしている。
やはりライブで踊りたいため、当初は映像作品をいやがった。

『コスモス』チラシ

地方での合宿
島根 5-6年前からよくワークショップ(以下WS)をしている。そのため日中はリハーサルができない。毎年カンパニーで合宿をしており、島根など過疎地との地域交流をしている。現地での食事は制作の上原さんが料理をしたり、地域の方が作りに来る。合宿では廃校の教室で寝る。島根で合宿をしたきっかけは、いろいろなところへ年賀状を出す際に合宿させて欲しいと書いていたら、島根から返事が来たから。
(カンパニーメンバーが笑顔で食事をしている★)つらすぎて笑っている。ふだんは東京で生活をしているメンバーが、付近にコンビニもない山の中で1週間過ごしている。
青森、ほか (建物の一面に洗濯物が干してある★)合宿をした青森の保育園。一日中こんな光景で、起きて、掃除・洗濯して、交流して、WSして、洗濯して……部活のよう。 男女16名が、同じ部屋で寝るため、一人あたりヨガマット1枚程度のスペースしかない。食事の量が少ないので、先を争って食べる。量が少ないのは予算的な問題もある。合宿は自主的にはじめた。福岡の糸島では 地元のダンサーなどともWSをした。なぜ合宿をするのかといえば、東京にいるとバイトなど個々の都合もあってまとまって会えないから。
金森/鈴木忠志さんのカンパニー(SCOT)のようだ。冷蔵庫のプリンを誰が食べたかで大問題になる。
島根の神楽の人とも交流を持った。学校でWSをすると、過疎地なので子供の数よりもカンパニーメンバーが多くなる。子供と踊ると腰をかがめたり、重心が低くなる。
茅ヶ崎、海を背にした大人数の集合写真★
金森/右端の人が小さいわけじゃない
人が多すぎて斜めに並んでいる、遠いから小さい。山田さんは茅ヶ崎出身。
エストニア公演、2017年くらい。きっかけは、TPAMをやってエストニアから声がかかり、呼ばれた。現地では教会に泊まった。ホテルとかではなく、手弁当的な部分がある。
教会のお湯が15分しか出ず、先輩から先にシャワーを浴びるが、順番が後になるにつれてお湯が冷たくなっていく……。
★2010年、氷川丸、★ひまわり畑×神楽。蜂がいた。
★花まつりで鬼の役をする。「いきのね」のリサーチ。鬼役を「ヘタ!」と現地の子供にヤジられるが、ヤジもイベントのようなもの。
★2016年、マレーシア、イスラエルなどからダンサーを招く。東京ならマレーシアとイスラエルの人が会える。音楽劇、演劇の演出、ファッションブランド福岡店オープニングイベントなども手がける。
★企業からの依頼でディナーショーをした。スープストックトーキョーやビーガンレストランからオファーがあって、ランチとディナーの間にダンスをする。要望はなくても歌も歌う、サーブもする、トークする。

年表を示しながら
2002年、カンパニー立ち上げ。
2003年、任意団体となる。当時は無名で、お金がなかった、ガバナンスの面から任意団体となり、セゾン文化財団ジュニアフェローとなった。助成金300万が交付された。
2005-2012年、地域創造のモデル事業を行い、地域交流、公演、旅をして、時間を過ごして、ご縁が続いた。茅ヶ崎、いわきなど。
2013年、島根、八戸で公演。徐々に作品規模が大きくなっていく。ゼロに戻ってオーディションをする。第1期は8名のメンバーがいた。期を改めるごとにオーディションを行うため、ずっと一緒に稽古していたメンバーがオーディションで選ばれない事もある。これは厳しいし、辛い。
プロジェクトは平行して行っている。東村山の重度障害者福祉施設に2名常勤(交代)でいっている。メンバーはほぼWSや公演、レジデンス、を一緒にやっているので、価値観、共通言語ができている。誰がファシリテーターでも問題ない。施設側から「うんさんじゃなくてもいい」と言われる。
2011-2013年
制作がいるのかいないのかくらいの時期、合宿をはじめた頃。
2017-2018年
「季節のない街」山本周五郎の小説が原案★。youtubeに映像は上げていない。マレーシア、ボルネオのダンサーも参加。ただ踊るのでなく、たたずまい、差別、暴力の要素は一緒に傷ついていかないとできない作品なので、山田さんが唯一出ている作品。震災後の心理状態が現れている。
★ソロ作品「ディクテ」
2013年、「春の祭典」(ダブルビル)。定員1000名以上の劇場で初めての公演。それまで200〜300人くらいの劇場で公演していた。踊る前に、市民〜おばあちゃんたちの誘導をして、そのあと踊る。
「春の祭典」は、とても疲れる。カンパニーメンバーに、空間に対して身体を伸ばす、重力、テクニックを教える教育的な側面もあった作品。公演のギャラはマッサージ代に消えた。踊って身体を痛めて、お金も残らない。
金森/春祭だけに生贄ということ……。
2004〜2019年、「ワンピース」。関かおりさん(第1期メンバー)出演。「ワンピース」男性バージョンも制作。オリジナル音楽はヲノサトルさん担当。外国ツアーにも行った。45分の作品なのでダブルビルで上演。マレーシア、中国、インド、何人ものダンサーが(舞台装置の箱の映像★)箱に入っては出て、入っては出てする。
マレーシアは、コンテンポラリーダンスはあるが、伝統舞踊の方がメジャー。シンガポール、インドネシアのダンサーも参加。

金森/法人化したのはなぜ?
山田/個人では信用を得たり、資金の調達が難しい。
金森/いろいろな活動をなさっている。ここまででも情報過多だし、東京の舞踊団という感じがしない。これは望んでいた活動なのか?
山田/最初は会社勤めをしていた。趣味でクラブなんかで踊っていたくらい。

状況としては辛い体験ながら、山田さんの語り口があっけらかんとしているので、会場からは笑いが起こる瞬間も多々あるレクチャーでした。(のい)

柳都会vol.22 江口歩×金森穣を聴いてきました♪

2020年10月11日(日)16:30~18:00、本来ならほぼ5ヶ月前(5/17)に開催される筈だった「新潟お笑い集団NAMARA」代表・江口歩さんと金森さんによる柳都会が、りゅーとぴあ・能楽堂を会場に無事に開催され、聴いてきました。

おふたりのこれまでの接点ですが、①先ず、Noism初期の頃、江口さんは二度ほどアフタートークの司会をされたことがあったのだそうですが、「下ろされてしまった」と江口さん。

②次いで、『black ice』の頃、江口さんのラジオのゲストとして金森さんに出て貰ったことがあったとのことでしたが、金森さんは記憶になく、地震の影響で、10分間収録されたものの、オンエアされないでしまったのだそうです。

そうした際に江口さんが金森さんに対して抱いた印象は「尖っている」というものだったそうです。

「文化不毛の地」(?)新潟に、それぞれ「日本初」の劇場専属舞踊団と地方都市発のお笑い集団を立ち上げたおふたりは、それぞれのスタンスで、周囲の理解を得ようと格闘してきたおふたりでもあります。今回の柳都会は、主に、金森さんが「お笑い集団NAMARA」と江口さんについて訊ねるかたちで進行しました。

(註)壇上のおふたりから撮影許可あり

足袋を履いて、能楽堂の舞台に進み出ると、まず、江口さん「アウェイ感がビシビシ」と語ることで、笑いが起こり、つかみはオッケイ、そんな滑り出しでした。

「新潟お笑い集団NAMARA」と江口さん(代表取締役社長)

立ち上げは1997年で、今年で23年目。当時の新潟県、自殺率が2年連続で全国ワーストだった頃。それは、①りゅーとぴあオープンの頃であり、「箱もの」は要らないの声があがったり、また、②陸上競技場を舞台に、現在のアルビレックスの前身アルビレオが発足した頃でもあり、サッカーなど根付かないと言われてもいた。「NAMARA」も同様だった。

毎月、ライブをやっても当然、儲からない。「どうやって食っていくか」が問題。だから声がかかると、全部「ハイ、ハイ」と受けていた。しかし、5年間くらい、全員ノーギャラだった。

「欧州帰りの29歳、『お前には居場所はないよ』と否定されているように思い、世の中に対して苛立っていた。尖っていた」(金森さん)「俺も全否定だもん。継続していても評価は上がらなかった」(江口さん)

転機は2002年。商店街、学校、病院、介護施設などから「講師に」と声がかかるようになる。いずれも、「会話がまずいことになっている」と認識。求められているのは、コミュニケーションをとること、繋ぐこと。「通訳」「翻訳」みたいな役回り。

また、「障がい者と健常者、加害者と被害者、自民党と共産党といった両極端の依頼もあった」(江口さん)…その具体例:精神障がい者の自己肯定イベント「病気だヨ!全員集合」、坂井輪中学集団暴行事件被害者の父親が開いたトークイベント、新潟市長選挙に際し、(篠田・前市長を含む)3人の候補者を出走馬に見立てた「市長選ダービー」等々。

スタンスは「面白がったって、いいじゃないか」興味が持てれば、理解のきっかけになる。

実際の仕事内容は知らなかったが、「何でも良いからやってみよう」とみんな受けていて、そうしてやっていくうちに色々学ぶことになった。大層な気持ちでやっていた訳ではなく、「ハイ、ハイ」言ってきたことで、「どっちも肯定しようという態度を覚えた。左翼とも右翼とも付き合う、『なかよく』だね」(江口さん)「うまい!」(金森さん)

それでも、「お前ら、お笑いだろ」と揶揄されたり、「お前ら、何やってるんだ」と不審がられたりしていたことに対して、金森さん「立ち位置がそれまでになかったため、評価のしようもなかった」

時代も変わった

「『社会課題を楽しく』っていうなら、『SDGs(持続可能な開発目標)』と言うと説明が楽で、使うことも。デジタル化の加速で、異業種の繋がり、業態の変化も進む今、立ち上げ当初の頃と同じような気分を楽しんでいる」(江口さん)

「『NAMARA』はみんなバラバラ。好きなことをするのが『NAMARA』と言ってきた。保育士芸人や銭湯大使なんてのもいる」(江口さん)「つかみどころのないグループ。新しく人を入れる基準は?」(金森さん)「オールOK。どんどんチャンスあげたっていいじゃん、って」(江口さん)「他県にも似たようなグループはあるの?」(金森さん)「ないみたい。新潟にはタレントが多い印象、『タレント王国』。それぞれの特性・武器を活かして融合して、束になって発信したら、って考える」(江口さん)

「時代、何なんだろ、アレ。あんなに叩かれていたのが、今、『良いことやっている』と言われ、表彰までされるようになっちゃった」(江口さん)

江口さんって人

「政治家になることは考えたことない?」(金森さん)「あんな面倒くさくて、頭下げてばかりいるような仕事したくない。具体的には、色々な行政課との付き合いはあるけど」(江口さん)「行政と文化、互いの専門知識しかなく、相手を知らない。江口さんみたいな存在は抜群なNPO。福祉系など、需要はありそう」(金森さん)「縦割り社会の中で『ハイ、ハイ』言ってきたこと、横へ、横へと動くことだった」(江口さん)

「金森さんには、観光課と繋がって、(北方文化博物館などの)アートなポスターを作って欲しいし、篠山紀信さんと一緒に『SWITCH』にも出て欲しい。また、Noismには古町芸妓や新潟プロレスともコラボして貰いたい気持ちがある」(笑)(江口さん)

「江口さんって、ホントつかめない。でも、良い意味で、つかめないところが江口さんの強み。『NAMARA』が受け入れられていったり、新潟って、面白いところだなと思う」(金森さん)

「江口さんって泣くことあります?どんなとき?」(金森さん)「泣くさ。映画観てとか」(江口さん)「何故訊いたかというと、江口さんは物凄く俯瞰で物事を見ているから、落語的に。一人ひとり感情移入していたらもたない。ひとりの人としてどこで泣くのかって興味持っちゃった」(金森さん)

「一神教の善悪みたいに、何かひとつのことを信じるというよりも、両方を肯定する。面白いか面白くないかが価値基準。融合したら面白いんじゃないかとか思う」(江口さん)「江口さんはダメ出しをしたり、評価を下したりしますか?」(金森さん)「あんまりしないんだよね」(江口さん)「ですよね。全てを肯定していくとなると」(金森さん)

変化すること

平和ボケの頃の毒のあるアナーキーな笑い(横山やすし、たけし、爆笑問題・太田、立川談志)→肯定漫才(オリエンタルラジオ、ぺこぱ)へ。時代の変化。「そこにウズウズもある」(江口さん)「茶化そうと思ってますよね。(笑)でも、変わっていけるかどうかというのが問題。変わらなきゃと思う。嫌々じゃなくて、自分のなかで変化の時。『金森、変わったな』と言われるのは不本意。前向きに変化を楽しんでいる」(金森さん)

「視覚障がい者のためのワークショップには興味をもった。お互いに化学変化が起きている。そういうジョイントがやりたい」(江口さん)「やる前は不安があった。クラスがうまく機能しなかったら、参加者を傷つけてしまうんじゃないかと。でも、みんな、『もっと、もっと』と、全然怖がっていなかった。でも、『会わせりゃ、何とかなるだろう』みたいなのは嫌。双方、傷つく。『この方法論なら』と思えたからやった」(金森さん)「芸術から離れちゃって、ボランティアみたいなトーンはダメ」(江口さん)「滅茶滅茶アートでしたよ。年末にもやるんだけど、進化(深化)しそう」(金森さん)

江口さんって人(金森さんが理解した江口さん)

「江口さん、『お笑い』とか『面白い』とか言うからややこしい」(金森さん)「誤解される」(江口さん)「でしょうね」(笑)(金森さん)「叩かれる」(江口さん)「でしょうね。(笑)でも、70歳くらいになって、地域の人がみんな知ってるようになると無敵だね」(金森さん)

リーフレットとアンケート

「今度、一緒に飲みませんか」(江口さん)「俺、コーラですけど、いいですか」(金森さん)「じゃあ、俺もジンジャーエールにします」(笑)(江口さん)…

…と、まあ、そんな具合でしたかね。

この日は会場からの質問タイムはありませんでしたが、おふたりのやりとりを聴くだけで、「なまら(=新潟の方言で「とても」「凄く」の意)おもっしぇえ(=同「面白い」)」90分でした。江口さんと「新潟お笑い集団NAMARA」が刻んだ歴史、そして注がれる視線の変化。それを介して、金森さんとNoismが歩んできた日々も浮かび上がってくる、そんな感じのトークだったと言えるように思います。それら、うまく伝えられたかどうかは不安ですが、本日のレポはこの辺で…。

追記: おしまいに、この日の客席は金森さんから、映像舞踊『BOLERO 2020』の拡散を託されました。是非ともご覧ください。200円で7日間楽しめますので、コスパはめっちゃサイコーです♪こちらからどうぞ。

蛇足: りゅーとぴあ・Noismボードの前に置かれた冊子「tempo1」(富士通発行:無料)を貰ってくるのもこの日の大切な目的。無事果たせました。収録された金森さんの記事「身体のTEMPO」、これからじっくり読みます。皆さんも是非♪

(shin)

森優貴さんを招いた「柳都会」vol.21を聴いてきました♪

2019年9月29日(日)の新潟市は雨模様で、じめじめした一日。Noism活動継続の記者会見からわずか2日というタイミングで、「日本の劇場で、専属舞踊団は必要とされるのか?」をテーマに、「柳都会」vol.21が開かれました。今回のゲストは、2012年から今夏まで7年間にわたって、ドイツはレーゲンスブルク歌劇場ダンスカンパニーで日本人初の芸術監督を務め、この度帰国した森優貴さん。欧州の状況に照らして、日本の現状を考える、またとない好機ということで、興味津々、会場のスタジオBへと赴きました。

定刻の15:00ちょうど、ふたりが登壇し、着席。金森さんから紹介され、「もう始める?」と切り出した森さん。2012年にダンサーを公式に引退して、レーゲンスブルク歌劇場の舞踊部門の芸術監督に就任。10代で欧州に渡って23年という年月は、在日本より長く、「日本語が出てこない」とおどけながらも、ところどころ関西弁を交えて、軽妙に語る森さんはとても気さくな方でした。森さんのお話しは独・レーゲンスブルク歌劇場の説明から始まりました。以下、手許のメモをもとに、要約でお届けします。

レーゲンスブルク歌劇場: 人口12~13万人、世界遺産の街・レーゲンスブルク(独・バイエルン州)。レーゲンスブルク歌劇場は3階だて、築100年くらいの建物にはオペラハウス(キャパ580名程)ともうひとつホール(キャパ620名程)があり、約360名が雇用されている。年間会員制度があり、それぞれの嗜好(コンサート、オペラ、舞踊等)と曜日の組み合わせから、30数種類のモデルが用意されており、年間会員は決まった座席で鑑賞する。毎週火曜日に会議があり、売り上げをチェック。そこでは年間会員以外の一般の売り上げの多寡が重視される。

歌劇場のサイクル: 年間スケジュールは年毎に変化はなく、夏休みは閉鎖、9月から始まる。舞踊関係では、11月に秋の新作公演、加えて、「社会貢献」としてHIVチャリティガラコンサートが秋に行われている。次いで冬の新作公演は2月。3月にはミュージカル公演があり、ダンサーも出演必須で、振付も行う。5月にはオペレッタで、舞踊ナンバーが2~3曲入る。6月はヤング・コレオグラファーの公演、とほぼ固定で回っていく。あくる年の方向性が決まるのは12月、1月頃。 

劇場支配人(インテンダント)と芸術監督: 劇場トップには劇場支配人(インテンダント)1名がいて、そのインテンダントに選任された4名の芸術監督(芝居・舞踊・楽団・青少年の芝居ユンゲス・シアター)がいるスタイルはほぼドイツで一般的なもの。インテンダントは市の評議会が選任する。その際には、その人が持つ人脈が重視されるケースが多い。インテンダントまで上り詰める者は、オペラのディレクター、芝居の演出家などであるのが通例。舞踊からの者はほとんどいない。森さんが務めた芸術監督は各プロダクション毎に予算を示されるのみであり、売り上げの責任を負う立場にはない。

舞踊部門の芸術監督: 劇場が年間38~40の新作を送り出しているなか、舞踊部門は最もプロダクションが少なく、予算もカットされ易いのが現状。「舞踊部門は立ち位置が弱いよね」(金森さん)。どういうところで勝てる喧嘩をしていくか、それなしには舞踊の位置づけを守れない。長期の準備期間を要するのが舞踊。台本がなく、曲探しから始め、秋に新作公演を打つためには、1年半くらい前に始めないと間に合わない。確固たるイメージが共有されなければ、美術・衣裳などは作れない。その舞台・衣裳などは劇場内に工房があり、ほぼ外注することはなく、正確な情報を渡さないと動いてくれない。また、レーゲンスブルク歌劇場にはストレージ(倉庫)がないことから、公演は連続公演のかたちで組まれ、公演後、美術は破棄される。よって、再演は行わない(行えない)。

芸術監督の交代期: 一旦、全員解雇のかたちをとり、オーディションを行い、残留者が決まるのが普通。どの劇場も一斉に動くため、流れには乗れる。一方、カイロプラクティック等への転身等の他の選択肢や補助金等のサポートもあるため、見切りをつける子も多い。失業手当(1年間)なども受給可能。レーゲンスブルク歌劇場ダンスカンパニーのダンサーは男女5名ずつの10名。そこに世界中から700~800の応募がある。(イタリア、スペイン、キューバ、ブラジル、日本、韓国などからの応募が多い。)また、オーディションにおいて、不採用とする際には、訴訟を避けるためにも芸術面での理由を述べる必要がある。

欧州の劇場: 日本と違い、「貸館」主体の劇場はない。貸日を設けているくらい。公演チケットの価格は、良席でもオペラで10,000円未満、ダンスは4,800円くらい。他に、学生チケットや「ラストミニッツチケット」(格安で売り出される当日券)などバラエティに富むものが用意されている。 

劇場の今: 教育機関に対する責任の大きさから、アウトリーチ活動を行い、新作初日までのクリエイションの過程を見せるなど、どうやって作品が出来上がっていくのかを見せて、劇場に足を運んで貰えるよう努力している。それを担うのは広報部長(1名)であるなど、雇用人数に対してオーバーワークという現実がある。また、近年、ドイツでは芝居に客が入らなくなってきている。理由は時間がかかるから。その点、舞踊は、生きる総合芸術という側面を手軽に楽しんで貰える利点があり、芝居の売り上げが思わしくなかったり、歌手が体調を崩したりしたときなどには、「優貴!(やってくれ!)」と(舞踊に)声がかかることも多かった。他面、観客に目を向けると、ファンを除いて、市外の劇場へ足を伸ばす者は少なく、市内で完結してしまうことが多い点や高齢化に伴い、次世代の観客が減少している点なども問題として浮上してきている。

日本の劇場、日本に戻ってきて: 公民館と区別がつかないような劇場の日本。「実際、公民館の跡地に劇場が建っている例も多い」(金森さん)。まず、集客の保証があってという順序ではなく、その地域、その劇場で作ったものを発信していくことの意義は大きい。生の人間が作って、生の人間が関わるところに本質的な対話や共感が生まれる。土壌もない状況でNoismができたことは、歴史的な事件であり、希望であったし、それが15年続いたことも含めて、奇跡のような事件。それだけに、今日まで「2番手」が出てこなかったことが腹立たしくて仕様がない。語弊はあるが、もし「2番手」ということになるなら、自分以外にいないんじゃないかと思った。(会場から拍手)

ラストの会話を再現してみます。
-「なんで日本に戻ってきたの?」(金森さん)
-「まあ、いろいろ」(森さん)
-「とりあえず、倒れてもいいのがわかったからね。頑張ってみるよ」(金森さん)
-「金森さんはいつだって追いかけるべき先輩だった」(森さん)
-「避ける者も多いよ。その道は絶対に行かないというか…」(金森さん)(笑)
-「芸術監督の立場について色々相談したし、『同志』と言って貰えたことは嬉しかった。『2番手』、責任だと思ってた」(森さん)
-「俺、もうちょっとやりたいんだけど、いい?」(金森さん)
-「金森穣だけで終わってしまってはいけない。ひとりではできないけど」(森さん)
-「まだ帰ってきたばかりじゃない?」(金森さん)
-「今、勢いあるからさぁ、やるなら今かなぁと」(森さん)(笑)

すべて網羅することは到底できよう筈もありませんが、上のやりとりのような感じで、終始、和やかに進められたこの日の「柳都会」。途中には、森さんがレーゲンスブルクで振り付けた作品の公式トレイラーも5本流され、その色彩感豊かな映像に、来る12月・1月の『Noism1+Noism0 森優貴/金森穣 Double Bill』への期待も募りました。3歳違いのふたり(金森さんが3つ年上)、今、その振付の個性を並べて観ることが待ち遠しくて仕方ない心境です。とても楽しい2時間でした。

(shin)

 

柳都会 vol.20 近藤一弥×金森穣【対談】レポート

先に掲載した、柳都会 vol.20(3/24)のレクチャーに続く、対談部分のレポートをお送りします。

金森 ここまでで、具体的なA4サイズの平面にいろいろ落とし込まれている要素についてどう捉えていますか。
近藤 配置については技法がある。舞踊であれば技術性というところか。
個性…その人にとっての空間・平面上での重心の捉え方にもなるが、空間の余白と重心から構成している。
金森 (学校で教えていらっしゃるが)感覚的なものは教えられる?
近藤 答えはない。自分ならこうするという位で、学生が作ったものについては一緒に悩み、作るプロセスを教える。
見た目が、もしかしたら意図したものとは違う意味に捉えられるのでは?とか、ここで切ってみたら?と問いかけると、言った通りに変更してきてしまう。
確信犯的に言うこともあるが、自分で考えて何かやると好きな感じになっていくというプロセスを繰り返すうちに会得していく。
金森 PCでいずれ人工知能がデザインをやるようになるのでは?
近藤 ある程度はできるのではないか。ただ、最初のものやエラーが魅力につながる。
それは計算を積み上げても太刀打ちできない。すぐれた作品であれば言語化の枠に留まらない。
作っている核心的な部分は、何らかのエラーのどこを用いるかという判断によるし、能力差がある。
ブラッシュアップを重ねて、繰り返し直させると微妙によくなっていくし、そうした方法論でしかわからない。
金森 近藤さんはどこかで習ったんですか?
近藤 親の絵の描き方がそうだった。

Photo: Ryu Endo

Photo: Ryu Endo

金森 作られたチラシのイメージで、すごくかっこいいんじゃないかと思って観に行くと、つまらないということが起こる。
近藤 パフォーミングアーツの場合は難しい。過去のDVDを見てチラシを作成しても、次は違うものになる。
金森 まず導くというか、興味をもってもらうことですね。
近藤 単なる批評より紹介のため推薦に近いかもしれない。潜在的にいいと思ってもらえるかどうか。
金森 新作の場合は難しいですね。
近藤 想像するしかない。依頼を受けた時点では曲がまだない事もあるし、公演までタイムラグがある。
どんな行程でどんな作られ方をするか、依頼者とのやりとりの中でかわってくる。
時代的な要請もあるかもしれないが、2000年代は普通の作り方になってきた。
『Liebestod』については、金色というイメージが固まっていた。
金森 素材写真を撮る前に、近藤さんから「どこかブレてたほうがいい」と言われた。
近藤 ブレていると動きが入る。止まるということを認識させるためには、動いているところを見せないといけない、ダンスを見せる基本。
金森 見切れた画像を使っていますが。
近藤 内容がこう……現実の見えているところと死(観念)がある瞬間に成立するコンセプトだったのではないか。
色味については、印刷で金は使えない(よく見えない)のでこうした。
金森 色彩感覚が心理学的に与える影響は考えますか?
近藤 あまり考えない。
金森 見た人にどういう影響を及ぼすかという……。
近藤 実用的な技術論になってしまう。
金森 コマーシャルなもの、何がキャッチーか、わかりやすい心理作用といったものは全く意図しない?
近藤 考えもしないわけではない。素材がアートであり、分析は結果論にすぎない。

金森 作家の立ち位置や視座と、広報物に求められる一瞥性の折り合いはどうつけていますか?
近藤 そこまではっきりとしたものはない。キャッチーではないものには、弱いなりの強さがある。
金森 作家、作風が好きという、大衆化されないもの感性が共鳴することがある。
ヨーロッパの一流プロデューサーがハイセンスなものを紹介してハイセンスな観客で完結していく流れがある。
この人が紹介するなら面白い作品だろうなというような、近藤さんにはいわゆるデザイナーとは違うイメージがある。
近藤 どうだろう。こんなの(※やくしまるえつこ)もあるし……。
金森 これちょっと(雰囲気が)違いますね。
会場 若い頃から芸術に親しむ機会があったんですか?
近藤 高校生の頃から、西武劇場で武満徹、安部公房、寺山修司が関わった舞台を観ていた。
絵に関しては、幼稚園の頃から父に手をひかれて展覧会に行ったのが災いしている(笑)
美術展の仕事をやりたいと思っていたら携われるようになった。事後的に父の息子だと知られた。
パフォーミングアーツについては佐藤まいみさん(さいたま芸術劇場プロデューサー)との出会いがあった。
金森 先程言われた、2000年代に作り方が変わったのはどうしてですか。
近藤 時代と関係しているけれどうまく言えない。
美術館も質的ではなく来館者数が指標になり数を稼がないといけなくなってきた。
一瞥性があり、デザイン的なインパクトが求められるのは時代の要請。
昔に比べると広報物を全部手がけることは少なくなった。デザイン業界は接点がないのでよくわからない。
デザインのジャンルがもっている何かは、プロパガンダの手先にもなりうる危険な側面がある。
金森 社会の変容があったということですね。

近藤 90年代に比べてシステムがコンパクトになり、自分独りでオペレーティングできるようになった。
それ以前は、指示を出して外注したことが、時間はかかるが手元でできるようになり作業が圧縮された。
思うことをストレートに作れるし、失敗してもやり直せる。
一方、エラーは人と関係することで出てくるので、自分で作るしかない。
版画のエラーは面白いのだけど、工夫して工房的な描き方をしたり、現代的になってくる。
近藤 コレオグラフィーではどうですか?
金森 振付ではいやでも他者と関係せざるをえない。
自分独りでやっていると、すぐに自己完結するので難しい。
今回、『R.O.O.M.』を18回踊ってみて、振りが自分から離脱する、想像を超えてくる感覚があった。
近藤 それは羨ましい。時間は必要ですね。身体は時間がかかる。
金森 身体は時間がかかる、『NINA』は「物質的な身体」とあるし。
生身の身体というのは、凄い量の情報を受けられる。
二次元の動画を見てフォルムだけ覚えても、それは違う。デジタル化できないものがある。
便利になると、失われる何かがある。そこで新しいメソッドが要請される。
近藤 メディアに関しては、紙ならポスター、本、名刺、すべて身体との距離感は違う。
学生に訓練として紙を出力させるが、ポスターの次は名刺というように課題のサイズを変える。
モニタの大きさの中で完結しないように。
金森 二次元の情報を受け取り慣れて、変容した身体に対する身体表現が求められる。
音楽は速くなっているし、情報処理のスピードは皮膚レベルにはそぐわなくなってくる。
同じ空間を共存していればこその限界値がある。実際、距離感に驚くことがある。
近藤 舞台の枠組みとして、生身の身体である特質を生かすところまで意識する観客、舞踊家も求められるのか。
金森 身体的行為として起こることは、ほかのものから抜きん出ている。
ネットにあげる動画として集団で踊っているようなものはひとつの表現だが、身体の意味合いが変わってきている。

会場 なぜ桑沢デザイン研究所を選んだのですか。
近藤 裾野が広いと聞いていたし、ある先生に憧れた。美大に入り直す時間がなかった事もあるが、結果的によかった。
金森 師匠はいますか?
近藤 直接はない。学生時代のバイト先で影響を受けた。当時、都内で一番大きなスタジオをもっていた人。
画家は好きに作品が作れて羨ましい。デザインはモノがあって作る。
紙とSNSで距離感が二重に発生する問題は、ある程度は無視する。今のところチラシがメイン。
そのうち本もAmazonで書影がどう見えるか、CDは配信時の絵柄がどう見えるか大事になるかもしれない。
会場 『ROMEO&JULIETS』についてはいかがでしょうか。
近藤 依頼をうけた時に台本はあったが、衣装はまだだった。
金森 ゴーストは近藤さんのアイディアでシーツを被った。
近藤 霊安室だし、ジュリエットが複数であることから匿名性もあった。
金森 台本を書いた側が忘れるような核心をビジュアルにしてくる。
(ゴーストの頭上に月のように照明を入れる)配置もすごい。想定していなかった切り取り方。
これこそエラーであり、共同作業で起こったこと。
映像担当の遠藤は意識して画角に入れて撮ったかもしれないけど。
近藤 照明についてはレタッチで位置を動かしたかもしれません(笑)
『R.O.O.M.』は、銀色と池田亮司の音楽からシャープな作品をイメージしてしまった。
シャープさよりも実験ということに重きを置いている。
部屋を囲い込んだことで、見えているものが脳の虚像と感じられる。
ビジュアルに使ったのはサイン波、パルス、オシレーターの波形です。池田さんが喜ぶもので音楽へのオマージュです。
金森 Noismのロゴはどう思いますか。高嶺格さんが作られたものですが。
近藤 赤を使っているし、強いです。ロゴを大きくすると使うのが難しい。
金森 『NINA』は送った写真の中から近藤さんがチョイスしたんですよね。色は変えてありますが。
近藤 写真の色を変えるのは篠山紀信さんとしてはokで、男女……二つの境界がテーマでした。
ゲシュタルトというか入れ替わる瞬間があった。
フォントは既存のものですが、アルファベットでオールマイティな書体はないので調整することはあります。
会場 オリジナルを作ることや、これは自分から手がけてみたいと相手に売り込むことはありますか?
近藤 こういうものが好きだと人に言っていると、そのうち仕事になるので、やりたいことは縁でできている。
結果論としてですが、日本人で海外で評価されている人を多く手がけた。米田知子さんの写真集もそう。
金森 そろそろ時間ですが、最後に何かあれば。
近藤 三浦さんの『孤独の発明』は哲学的な本で面白いです。
金森  『鏡の中の鏡』を作る前に読みました。
近藤 みなさん、手にとってみてください。
金森 え、宣伝で終わっちゃうの?!

要約する能力に恵まれず、聞き書きのメモをどうにか読めそうな体裁に加工したことで、発言者の本意とは異なるニュアンスとなっていたり、あるいは発言の取り違えをしている可能性も十分にあります。が、今回の柳都会の雰囲気に便乗して言うのなら、それも忍び込んだエラーとして、ご寛恕願えれば幸いです。
(とはいえ、誤謬等がありましたらご指摘ください)
(のい)