勝手に命名「『ロミジュリ(複)』ロザラインは果たしてロミオが好きだったのか問題」(サポーター 公演感想)

☆劇的舞踊vol.4 『ROMEO & JULIETS』(新潟・富山・静岡・埼玉)

〇はじめに:  Noismの新展開を告げる会見を待ち、心中穏やかならざる今日この頃ですが、前回掲載の山野博大さんによる『ROMEO & JULIETS』批評繋がりで、今回アップさせていただきますのは、最初、twitterに連投し、次いで、このブログの記事「渾身の熱演が大きな感動を呼んだ『ロミジュリ(複)』大千秋楽(@埼玉)」(2018/9/17)のコメント欄にまとめて再掲したものに更に加筆修正を施したものです。各劇場に追いかけて観た、曖昧さのない「迷宮」、『ROMEO & JULIETS』。その「迷宮」と格闘した極私的な記録に過ぎないものではありますが、この時期、皆さまがNoismのこの「過去作」を思い出し、再びその豊饒さに浸るきっかけにでもなりましたら望外の喜びです。

①当初、ロミオに好かれていた時でさえ、その手をピシャリと打っていたというのに、やがて、彼のジュリエッツへの心変わりに見舞われて後は、制御不能に陥り、壊れたように踊る、ロザライン。自分から離れていくロミオに耐えられなかっただけとは考えられまいか。

②他人を愛することができたり、愛のために死ぬことができたりする「人」という存在への叶わぬ憧れを抱いたアンドロイドかもと。とても穿った見方ながら、しかし、そう思えてならないのです。

③「人」よりも「完全性」に近い存在として、ロレンス医師の寵愛のもとにあることに飽きたらなくなり、或いは満たされなくなっただけなのか、と。それもこれもバルコニーから「不完全な存在」に過ぎないジュリエッツが一度は自分を愛したロミオを相手に、その「生」を迸らせている姿を見てしまったために、とか。

④というのも、全く「生気」から程遠い目をしたロザラインには、愛ほど似つかわしくないものもなかろうから。

⑤ラストに至り、ロザラインがロミオの車椅子を押して駆け回る場面はどこかぎこちなく、真実っぽさが希薄なように映ずるのだし、ベッドの上でロミオに覆い被さって、「うっうっうっ」とばかりに3度嗚咽する仕草に関しても、なにやらあざとさが付きまとう感じで、心を持たないアンドロイドの「限界」を表出するものではなかっただろうか。

⑥アンドロイドであること=(古びて打ち捨てられたり、取り換えられたりしてしまう迄は)寵愛をまとう対象としてある筈で、それ故、その身の境遇とは相いれないロミオの心変わりを許すべくもなく、「愛」とは別にロミオの気持ちを取り戻したかっただけではないのか。「愛し愛され会いたいけれど…」で見せる戯画的で大袈裟な踊りからは愛の真実らしさは露ほども感じられず、単なる制御不能に陥った様子が見て取れるのみです。

⑦更には、公演期間中に2度差し替えられた手紙を読むロザラインの映像。 最終的に選択されたのは読み終えた手紙が両手からするりと落ちるというもの。頓着することもなく、手紙が手から落ちるに任せるロザラインは蒸留水を飲んではいないのだから、「42時間目覚めない」存在ではなく、ロミオが己の刃で果てる前に身を起こすことは普通に可能。

⑧すると、何が見えてくるか。それは心変わりをしたロミオを金輪際、ジュリエッツに渡すことなく、取り返すこと。もともと、アンドロイドのロザラインにとっては儚い「命」など、その意味するところも窺い知ることすら出来ぬ代物に過ぎず、ただ、「人」がそうした「命」なるものを賭けて誰かを愛する姿に対する憧れしかなかったのではないか。

⑨「愛」を表象するかに思える車椅子を押しての周回も、アラベスク然として車椅子に身を預ける行為も、ただジュリエッツをなぞって真似しただけの陳腐さが感じられはしなかったか。そのどこにもロミオなど不在で構わなかったのではないか。そう解するのでなければ、ロミオが自ら命を絶つ迄静かに待つなどあり得ぬ筈ではないか。

⑩ロレンス医師のもとを去るのは、死と無縁のまま、寵愛を永劫受け続けることに飽きたからに他ならず、彼女の関心の全ては、思うようにならずに、あれこれ思い悩みつつ、死すべき「生」を生きている「人」という不完全な存在の不可思議さに向かっていたのであって、決してロミオに向かっていたのではあるまい。

⑪というのも、たとえ、ロザラインが起き上がるのが、ロミオが自ら果てるより前だったにせよ、蒸留水を飲んだだけのジュリエッツが蘇生することはとうに承知していたのであるから、ロミオが生きたままならば自分が選ばれることのない道理は端から理解していた筈。ふたりの「生」が流れる時間を止める必要があったのだと。

⑫心を持たないゆえ、愛することはなく、更に寵愛にも飽きたなら…。加えて、死すべき運命になく、およそ死ねないのなら…。ロザラインに残された一択は、「命」を懸けて人を愛する身振りをなぞることでしかあるまい。それがぴたり重なる一致点は「憧れつつ死んでいく(=壊れていく)とき」に訪れるのであり、そこで『Liebestod ―愛の死』の主題とも重なり合う。

⑬これらは全て「アンドロイドのロザラインは蒸留水を飲んだのか問題」というふうにも言い換え可能でしょうが(笑)、答えは明白なうえ、蒸留水自体がロザライン相手にその効能を発揮するとは考えられないため、これはそもそも「問題」たる性格を微塵も備えていないでしょう。

⑭掠め取った手紙を自分のところで止めたロザラインには、追放の憂き目にあい、戻れば死が待つ身のロミオが、起き上がらないジュリエッツを前にしたならば、絶望のあまり、自らも命を絶つという確信があったものと思われる。そのうえで、ロミオが自ら命を絶つまで不動を決め込んでいたのに違いない。

⑮ラスト、(公演期間中、客席から愛用の単眼鏡を使ってガン見を繰り返したのですが、)ロミオの亡骸と共に奈落へ落ちるときに至っても、ロザラインの両目は、「心」を持ってしまったアンドロイドのそれではなく、冒頭から終始変わらぬ無表情さを宿すのみ。とすると、あの行為すらディストピアからのある種の離脱を表象するものとは考え難い。

⑯この舞台でディストピアが提示されていたとするなら、果たしてそれはどこか?間違っても「病棟」ではない。監視下にあってなお、愛する自由も、憎む自由も、なんなら絶望する自由もあり得たのだから。本当のディストピアが暗示されるのは言うまでもなくラスト。死ぬことすら、なぞられた身振りに過ぎないとしたら、そこには一切の自由は存しないのだから。

⑰そう考える根拠。舞台進行の流れとはいえ、もう3度目にもなる「落下」は、それを見詰める観客の目に対して既に衝撃を与えることはない。単に、そうなる運命でしかないのだ。舞台上、他の者たちが呆然とするのは、呆然とする「自由」の行使ではないのか。生きる上で、一切の高揚から程遠い「生」を生きざるを得ない存在こそがディストピアを暗示するだろう。

⑱(twitterの字数制限から)「運命」としてしまったものの、アンドロイドであるロザラインに対してその語は似つかわしいものではなく、ならば、「プログラム」ではどうか、と。もともと自らには搭載されていない「高揚」機能への憧憬が、バルコニーのジュリエッツを眺めてしまって以降の彼女を駆り立てた動因ではないか。

⑲更に根本的な問題。「ロザラインは(無事)死ねるのか問題」或いは「奈落問題」。マキューシオ、ティボルト、ロミオにとっての「奈落」とロザラインにとっての「奈落」をどう見ればよいのか?そして、そもそも、病棟で患者たちが演じる設定であるなら、先の3人の死すら、我々が知る「生物の死」と同定し得るのか?

⑳それはまた、一度たりとも「奈落」を覗き込んでいない唯一の存在がロザラインであることから、「果たしてロザラインには奈落は存在するのか問題」としてもよいのかもしれない。「人」にあって、その存在と同時に生じ、常にその存在を根本から脅かさずにはおかない「死の恐怖」。「奈落」は「死」そのものではなく、その「恐怖」の可視化ではないのか。すると、ロザラインには「奈落」はあり得ず、心変わりから自らの許を去ったロミオを相手に「愛」を模倣し、そのうえ、「愛」同様に縁遠い感覚である他ない「死の恐怖」も実感してみたかった、それだけなのではなかったか。

これらが私の目に映じた『ロミジュリ(複)』であって、ロザライン界隈には色恋やロマンスといった要素など皆無だったというのが私の結論となります。

(shin)

メルマガ担当者の「私が Noism にハマったわけ」

 メルマガ担当者のあおやぎです。私は新潟ではなく、北関東在住。バレエ・ダンス業界の縁辺域と接する立場に身を置いています。

 昨年10月に新潟市長が交替したこともあって、Noism の契約更新が滞っています。新しく就任された中原市長は、今年の8月末までに来年9月以降の活動について決断すると市議会で明言なさった由、新潟日報モアで拝見しました。

 また「強い支持がある一方、市民の理解度は不足していると認識している」と発言なさったとも。私として、この認識はまったく正しいと思います。

 国内公立ホールの文化事業の対象として、クラシック音楽に対する舞踊ジャンルの割合は実に微々たるものです。個人的には音楽を1とすると舞踊は0.05、つまり二十分の一に届くか届かない位ではないかと感じます。

 子供にバレエを習わせる人は多いですし、ジャズダンス教室に通う大人も多いようですが、興業としてのダンスを見に行く人は、残念ながら限られた数しかいないようです。特にコンテンポラリーダンスになると、私見ですが、首都圏でも客席にいるのは出演者の身内と業界関係者が約半数、どこでも見かける同じお客が二、三割、残りが数少ない一般客と言った有様です。市場規模が極めて小さいです。

 そんな状況なのに、りゅーとぴあは開館当初から他館との差別化を図るために自主事業でダンスに注力したとか、職員が金森穣を舞踊部門の芸術監督にしようと当時の市長に進言したとか、金森穣が就任受諾の条件としてダンスカンパニーの創設を提案したら、予算の範囲内でやるならいいよとOKが出た (!!!) などと言うのは奇蹟的なことに思えてなりません。

 しかも金森穣は天賦の才を存分に発揮して、日本を代表するどころか世界的にもトップクラスの成果を生み出すダンスカンパニーを新潟に作って維持し続けました。国内のダンスマーケットが首都圏に集中・偏在しているにもかかわらず、最高に輝かしい星が突如として新潟に生まれ、その輝きを保ち続けているのです。奇蹟です。

 私が初めて新潟へ Noism を見に来たのは中越地震直後の「black ice」公演でしたが、客席を見ると首都圏の状況とはまったく異なり、一般市民、もちろん芸術分野にアンテナを張っておいでの敏感な方々なわけですが、そうした観客がほとんどなので驚きました。市内の高校生までいるじゃないですか。こんな状況、首都圏じゃまったく考えられません。

 これは大変だ、と思いました。こんな凄い状況を作り出しているNoism を応援しないでダンスファンだと名乗れるか、みたいな。それで新潟へ通うようになり、ますます惹かれて行ったわけです。

 新潟の皆様、Noism を大いに誇ってください。皆様は世界トップクラスのダンスカンパニーとダンサーをお持ちなんです。もしそれを失うようなことがあれば、文化的にもイメージ的にも、計り知れない損失になりますよ。私はよそ者ながら、そうならないようにと祈るばかりです。

 (あおやぎ)

「空気を吸う」(サポーター 公演感想)

☆実験舞踊vol.1『R.O.O.M.』東京公演

例えば、ひとつひとつの動きがある種の記号であると考える。
それはローマ数字やピクトグラムのような、
あるいは象形文字のような
それ自体がハッキリとした意味を持つ記号と考えることもできるが、
ここではむしろ平仮名やカタカナ、アルファベットのように個々には意味を持たないが、
いくつかが連なることで単語あるいは文章という意味性を持つ
“意味のない記号”と考えたほうが面白い。

すると、さまざまな方向から(上からまでも!)現れる記号は、
まさに頭の隅々から次々と現れ、
それが連なることで文として成り立っていく文字要素という記号に似ていることに気が付く。

ひとつひとつの動きに意味を見いだすことはできなくても、
その出現の仕方、場所、方向、そして次の個との連なりなどによって
確かに揺さぶられる心情。
なるほど、これは文章なのだ。

思えば、そのヒントはすでにタイトルにも内包されていた。
『ROOM』ではなく『R.O.O.M.』。
この4つのアルファベットに、それぞれ意味は割り振られているが
要は一文字一文字が記号として独立した個、ということではないか!
・・・と、一人悦に入ろうとした瞬間、
その思考は簡単に打ち砕かれた。

こういう時、私の浅はかで理屈っぽい思考を無下に打ち砕くのは、
いつも井関佐和子その人。
そこに舞い降りた(そう、文字通り降りてきた!)彼女は、
まったくもって記号などではなかった。

記号と言うには、あまりに自在で
記号としての定型感がなく、
それはむしろ色とか雰囲気とかニュアンスといった種類に近く、
いわば、さまざまな記号を包み込むように漂う空気感のようなものだ。

それは、読み解くものでは無く吸い込むものなのだ、空気のように。

だとしたら、包まれる記号と包む空気との関係とは何か。
いや、この舞台において両者はそのように対峙するものなのか。
そもそも“両者”と区別すべきものなのか
・・・だが、違う、明らかにそれは種が違うのだ。

という、いつもの疑問に辿り着いた頃、無情にも『R.O.O.M.』の幕は下りた。
                Kinya(2019.2.23:吉祥寺シアター)

Noism2札幌公演(4/19)(サポーター 公演感想)

☆Noism2札幌公演『金森穣振付Noismレパートリー』+『BOW!!!』

4/19(金)札幌文化芸術劇場hitaruへNoism2札幌公演を観に行きました。

今シーズンのNoism2を観るのは今回が初めて。新メンバーに久しぶりに男性メンバーが加わったのも楽しみです。

私は普段、遠征はしない派ですが(Noismを除く)、今回を見逃すと今季のNoism2メンバーを知らないままになってしまう可能性があるので思い切って遠征してみました。
北海道へは学生の時に合唱団の演奏旅行で訪れて以来2回目となります。航空会社のパックツアーで往復航空券・ホテルを安く手配できたので助かりました。

会場の札幌文化芸術劇場hitaruのクリエイティブスタジオは、りゅーとぴあのスタジオBと雰囲気が似ています。チェロのエンドピン跡があったので音楽でも利用されているようです。
開演を待つ観客の様子も、おしゃべりしている方もヒソヒソ声で周りに気を遣っている様子。皆さん総じて静かなのも新潟と似ているなあ、と感じました(両方とも寒い地域だから、ということもあるのでしょうか?)。

第1部は金森穣レパートリー。solo for 2は観たことがなかったので観ることができて嬉しかったです。抜粋でしたが、3つのストーリーが展開する演出が素敵でした。
続いてTraining Piece。池田亮二さんの音楽も相俟って、先日のR.O.O.M.を思い出しました。第1部終わった際、カーテンコールはありませんでしたが、拍手は鳴り続けていたのが印象に残ります。

休憩の後は第2部、平原慎太郎BOW!!!。Noism2で平原作品を観るのは「よるのち」に続いて2回目。今回のBOW!!!も強烈な印象を残す作品でした。各ダンサーには異なるキャラクターを与えられているようで、人間の欲が浮き彫りになるような印象を受けました。

アフタートークでは山田勇気さん、平原慎太郎さんお2人とも今日のパフォーマンスについて「良かった」とおっしゃっていました。新潟での5公演の経験、またある程度期間があったことでダンサーの中でイメージが深まったからではないか、とのことです。

私は新潟公演は観ていませんが、今回のパフォーマンスは第1部、第2部ともメンバーがいきいきと演じていて素晴らしかったと感じました。研修生カンパニーではありますが、Noismの名を背負って札幌で踊っているプライドも感じました。

また、アフタートークでは質問タイムも設けられていました。
「劇中の言葉をどう捉えれば良いか?」「Noismが初めて新潟で公演した時の観客の反応は?」「平原さんの頭の中をみてみたい!」など、
質問からは平原作品への驚きがあったように感じました。
(ちなみに、札幌ではコンテンポラリーダンスを生で観る機会は少ないようです。)

札幌文化芸術劇場hitaruは開館したばかりですが、バレエやダンスの企画を意欲的に開催していて、東京からみても気になる存在となりつつあります。
またNoismを招聘してどんどん盛り上がれば良いな、と期待しています。
(かずぼ)

「Noism2 初体験!」(サポーター 公演感想)

☆Noism2定期公演vol.10『金森穣振付Noismレパートリー』+『BOW!!!』

Noism2 初体験しました。ハートウォーミングな気持ちになりました。

Noism1は『カルメン』から観ていて、もうお馴染みなのですが、先日は『R.O.O.M.』の公開リハで「ん♪⁈」となり、公演は期待を裏切らず三回観ました。

公開リハ見たさに支援会員にもなった私。これは勢いでNoism2も観るか!

ということで足を運んでみた。
感動しました! 技術も年齢も若いけど、その時期にしか発散しないエネルギーを感じました。応援したい気持ちがフツフツと湧いて来て、ノイズム作品の最中はニコニコしてエールを送りながら観てました。ダンサー達に届いてたらいいなあ。

バッハの『solo for 2』ではクラシックが基礎にあってこそのコンテンポラリーというのをしっかり見せていました。『R.O.O.M.』のコンポーザーRyoji Ikeda(池田亮司)さんの『Training Piece』は好感の持てるリズミックなコンテで大好き。”フィジカル”ですね。(3/16アフタートークでTraining 「Place」 と言ってしまった …ごめんなさい)

Ryoji Ikeda『supercodex』

平原作品は力作力演よくやったと思います。いつも予備知識なしに観るのでBOWは挨拶(バウ)だと思ってました。が、違った。

ボウという音で連想されるもののカオスの世界。確かに若い暴力的なパワーを感じました。さすがラッパー。

観終わった後、これからも見守っていきたいと思った夜でした。札幌公演も頑張ってくださいね!
(たーしゃ)

カテゴリーの追加について(ご案内)

日頃より、当ブログをご訪問、ご愛顧いただいておりますことに感謝いたします。
この度、ふたつのカテゴリーを追加いたしました。
①「*** from SUPPORTERS」:サポーターズ会員の方々からのご感想を掲載して参ります。
②「SPECIAL FEATURES」:批評家・専門家の方々からのご寄稿等を「特別読み物」として掲載して参ります。
ますます読み応えのあるブログを作って参りたいと思います。
ご期待ください。
(shin)

既に「名作」の呼び名を欲しいままにする『R.O.O.M.』/『鏡~』大千穐楽(東京公演最終日)

すっかり春といった風情の2019年2月24日(日)、その名作は新潟と東京併せて17日間18公演の最後の幕を下ろしました。ここまで5週間、律義にほぼ週末毎に、見たこともない「異空間」を立ち上げて私たちを魅了してくれていたその名作が、一旦、国内でのすべての公演を終えたのは、東京の吉祥寺シアター、時刻にして19時少し前のこと。深い感動や満足と同時に、もうあの「異空間」にまみえることは叶わなくなった事実が棘のように刺さった時刻でもありました。

観客は勝手なものです。演じる者たちの身体のあちこちに増えることはあっても減ることのないテーピングが物語る身体を痛めつけ続けた過酷な日々にも拘わらず、まだまだ観たかったなどと容易く口にするのですから観客は本当に勝手なものです。

しかし私たち観客も知っていたのです。この5週間に目にしたこの2作が紛れもない名作だということなら。そしてその名作の記憶は、この度演じた13の身体、その所有者の名前とともに私たちの内部に刻まれることになりました。終演後、捧げられた惜しみない拍手と歓声、スタンディング・オベーション、それらは皆、それぞれの身体の限界ギリギリのところで「異空間」を立ち上げて魅せてくれた13人の舞踊家が当然に受け取るべき「栄誉」な訳ですから、私たちはもっと長く、もっと激しく、まだまだ拍手していたかったのでした。

今回、その刺激に満ちた豊饒な2作品がどんなふうに映じたか、個人的な印象を以下に書いてみようと思います。(読まずにおきたい向きは、☆☆☆印から★★★印までを飛ばして下さい。)

☆☆☆ ☆☆☆ ☆☆☆ ☆☆☆ ☆☆☆

『R.O.O.M.』。目を奪うほどの威容を示す「箱」の中で展開される実験とその観察(全12場面)。架空の種、その「胚」の発生を辿るかのような体験。滴り落ちるも自らが何であるかを知ることのない原初の「胚」。やがて、手を発見するも未だ使い方は知らず、それを照らす光源をいぶかし気に見上げたかと思ううち、それが動くことに気付き、そこから意のままに動かすことを覚えていきます。足についても同様。両方の足の甲で床を打つことを通して、足を発見。動かしてみると動いたことから、動きを獲得していくと、いつしか立つことを覚え、遂にはつま先立ちをするまでに至ります。(但し、四肢に類する部位として、手を介して、頭部をも発見しますが、それはどうやらあまり使い途がないようで、なんとも皮肉です。)
それぞれの「胚」が示す発生の過程にあっては、時に他の「胚」が辿った過程を掠め取るかのように一足飛びの発生を見せる「胚」(ジョフォアさん、池ヶ谷さん)も現れてきます。更に、女王然とした「胚」を踊る井関さん。ひとり超越的な別次元の運動性を獲得する迄に至ります。

そうして個体が確立されると、次に待っているのは、他の個体とのせめぎ合い。同種間の、そして異種間の闘争に似た様相を呈して、それは描かれていきます。女性舞踊家の「種」が示す、男性舞踊家の「種」に対する優位性には、『NINA』を彷彿とさせるものがあり、その威圧感たるや半端ないものがありました。未だ覚醒を見ていない自らの力能、それを覚醒させるためには、「触媒」として他の個体すらも利用していきます。そしてそこから先は「適者生存の理」に従い、振るい落とされていく個体と残る個体の別を見ながらも、最終的には全てが篩にかけられてしまう迄を概観する「実験」。私たちが見詰めるのは「箱」の内部だけながら、その外部も大いに気になる作りになっていると言えるでしょう。そして最後にやってくるカタルシスには圧倒的なものがあります。

『鏡の中の鏡』。①ソロ:苦悩のあまり蹲る金森さん。自らを纏め上げる全的なイメージがつかめず、心底から苦しんでいます。鏡が映す自らの姿にも満たされることはなく、出口なしといった感じです。そこに「天啓」のように一筋の光明が差し込みます。鏡に映る姿に己の別の姿を認めるからです。

②ソロ:鏡を見ながら孤独に苛まれ絶望する井関さん。他者との邂逅を求めるのですが、それは得られそうもありません。そこに導きが与えられます。きっかけはまたしても鏡。鏡が映す「手」から、孤独を埋める、埋めないだけではなく、自らを突き詰めることから他者へと至る道筋が拓けます。

③デュエット:苦悩する魂と孤独な魂。観客はそれらふたつを同じ「箱」空間のなかに目にしますが、踊る金森さんと井関さんの視線は交わることはありません。それは、ふたりを一緒に見ていながらも、「説話」構造的には、ふたりがまったく別の時間、別の空間に存在していて、一切触れあってはいないことを物語るものです。まったくの非接触を踊っていたものが、途中から身体的な接触を伴う動きに変わってさえ、視線は決して交わりませんから、異なる別の時空に存在するふたりと読み解くのが妥当と感じます。接触はたまたまのものに過ぎず、お互いが「説話」構造としては「デュエット」の相手を欠いたまま、「ソロ×2」として、(観る者の目には、舞踊的にこの上なく高度にシンクロする「デュエット」が)踊られていきます。金森さんと井関さんがソロ・パートをそう踊ったように、私たち観客も見えない筈のもの(デュエット)を見ていたのです。ため息の出るような美しさと言ったらありません。
踊っている間は苦悩と孤独を傍らに置くこともできたようですが、それも事故のような「天啓」に過ぎない訳で、長続きするものではなく、やがて訪れ、募るのはまたしても苦悩と孤独。しかし、遂に何か見る(気付く)ことができたようで、…。

★★★ ★★★ ★★★ ★★★ ★★★

まったく方向性を異にしながらも、それぞれ、あの緊密な空間にも拘わらず、広さと深みを備えた「分厚い」2作品。それらを同時に観るのですから、私たちの心は、受け止めるのに要すると暗に想定していた容量をいとも容易く超えられてしまい、驚き、慌てふためきながら、全く未開の領野を経巡ることになる、そんな体験をしていたように思います。(ですから、上に記したものは、驚きと動揺のうちに、精緻さを欠いて私の内側に形作られた印象に過ぎず、どこまでも個人的なものであることをお断りしておきます。)そして観るたびに常に瑞々しい、その意味でも驚くべき体験と言いましょう。観ているだけなのにも拘わらず、相当な体力を要した意味も分かろうというものです。それを「名作」と呼ばずして何と呼んだらよいのでしょうか。

私たちの記憶は抽象的なものではありませんから、この名作の記憶も、常にりゅーとぴあ・スタジオB、或いは、吉祥寺シアターという空間と切り離すことの出来ないものとして留まり、或いは、再帰してくることでしょう。名作とはその細部のリアリティに至るまで全てが自ら語り出してくるかのように噴出する何物かです。ですから、私たちはこのふたつの空間を細部のひとつとして喜びをもって思い出すことになるのです。曰く、「聖地」と。金森さんが、「聖性は場所にではなく眼差しの裡にある」と呟いた所以です。(2019/2/19twitter)

ああだ、こうだと、愚にも付かない事柄を書いている今ですが、既に手に余るほどに大きな「Noismロス」が始まってしまっています。それに抗するために、3月3日(日)開催の特別アフタートーク(「アフターアフタートーク」)でどんなお話しが聞けるのか楽しみにしていよう、と無理にも気持ちを切り替えているような次第です。

末筆にはなりましたが、これを締め括るために書き落としてはならないことを最後に。
「この長い公演期間を完走された舞踊家の皆さん、スタッフの皆さん、どうもお疲れ様でした。大きな感動を有難うございました。私たちはとても幸せでした」と改めて。
(shin)

10/7 山本能楽堂 「能とNoism」 会員レポート

サポーターズ会員の、のい(neuesach)さんが、「能とNoism」をレポートしてくださいました!
どうぞお読みください。
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先日、山本能楽堂にて開催された「能とノイズム」に行ってきました。(https://noism.jp/npe/noh_noism/

開催の経緯については、既にNoism公式ページ等々で触れられていますが、ルーマニア、シビウ国際演劇祭が契機となったものです。
以下、半ば覚書のような形ではありますが、一部内容をお伝えします。
雰囲気の断片でも伝われば幸いです。

Noismメソッド実演

冒頭、Noismを知っている方は挙手を……という呼びかけに応じて、客席過半数の手が上がり、安堵する金森さん。
金森さんは帰国後、いかに日本人であるかと痛感し、東西の舞踊について勉強し、”私”という身体のありようを追求していると述べられました。

そして、現代の弛緩した身体に、いかに緊張感を召還するかという実践として、Noismメソッドを作ったという説明のあと、実演が行われました。
まず、井関さんが、耳をたてる。
その様子を見て客席にどよめきが広がります。
そして、肩-肘と、逆のスパイラルを形成し、相反する方向性をひとつの身体に落とし込むことで、張りのある身体を提示してみせる。
Noismメソッドを通して、フォルムではなく構造を理解することが重要と語りながら、井関さんのポーズが次々に遷移していきます。

実演をしながらも金森さんは饒舌です。
“コンテンポラリーダンス”の広まりにより、専門性をもたない身体が舞台上にあらわれた。
このことによりコンテンポラリーすなわち何でもありという認識を産んでしまった。
日々トレーニングしなければ培えない身体を以って、これから50年100年経過する際の通過点としての文化のつなぎでありたい。

今回、能舞台でのデモンストレーションであるため、お二人とも白足袋を履いていました。
床に寝てもいいというところまでは事前に確認を取ってあり、井関さんが、横たわった姿勢から踵を支点にし、身体の垂直軸を保ったまま起き上がります。
支持する金森さんの手に、常とは違う身体の緊張が伝わったのか「滑るね?」と一言。

また「下、瓶(かめ)があるんですよね?」と山本さんに確認しながら、やや躊躇をもって、しかし床を強く踏む。
音の響きを確かめるような金森さんの表情が印象的でした。

■仕舞「高砂」「敦盛」「熊野(ゆや)」「殺生石」の実演

続いて、山本章弘さんらによる仕舞の実演が行われます。
強い独特な発音の謡、扇子の有/無と開/閉からなる表現の違い、泣く仕草でも(武士道の影響で)肘を張った所作となっていること、当たり前のように進行する一人二役、回転と跳躍という激しい動き等々、特徴的な仕舞が次々に演じられました。
短い時間ながらも、歴史が磨き上げた洗練がもたらした制約の中での、強靭な身体性と豊かな世界観を見せつけられました。

とはいえ、山本さんの語り口は柔らかです。
先程の泣く仕草を、「みなさんもやってみてください」と観客を巻き込み、一通り客席を見渡して「これでマスターできましたね、消費税が10%になったらやってみてください」、と日常を滑り込ませる融通無碍ぶりです。

■クロストーク

Noismメソッド、仕舞の実演を踏まえて、モデレーターに佐々木雅幸さんを迎えてクロストークが始まります。
(以下、敬称省略します)

山本:Noismメソッドを行う金森さん井関さんの姿を見ていて、舞台人としての絆を感じた。
身体能力のすごさがあった。

金森: 仕舞を初めて観た。
肘をはる動作は武士道に由来するというが、張るという点はNoismメソッドとも共通する。

佐々木:鈴木メソッド(※)でも能の動きを参照している。
(※バイオリンの方ではなく、鈴木忠志(SCOT)の提唱するメソッド)

金森 :動かない時の身体のありようの基礎を見出さなければならない。
私は西洋においてはベジャール、東洋においては鈴木忠志に衝撃をうけた。

佐々木:二人を越えてゆく?

金森:越えるというか、生き方、取り組み方、精神のあり様をみている。

佐々木:(実演をしながら言った)歴史性、つまりこれから50年100年経過する際の通過点であるというのは印象的だった。

山本: 我々は、先人が演じたものに無駄はないということを言う。
安易に変えるよりも伝えられたものを演じていくことが重要。
特に退場する時は気をつかう。
個人の気持ちはいれずフラットに演じるようにしている。

佐々木: すっと立つ、行間、余白から受け取れるものがある。
訓練ではなく経験によるものなのかもしれない。

山本:老女の役はハードルが高い。異性であるし、ふとしたところで普段が出てしまう。
少しひいたところから自分の姿を見ることを、離見の見とも言う。

佐々木:クラシックとの関係はどうか。
西洋では科学的・合理的・医学的なアプローチがあり、ルイ14世の庇護下でバレエのトレーニング方法が残った。
それに対し、東洋では河合隼雄がいうような暗黙知というか、言語化できない空洞の美、空間に対する認識がある。

金森: 能では、背面に鏡板がある奥深さがあり、神がいる。
一方、西洋では背面はコールドなのは対照的。

佐々木: 暗黙知と形式知のバランスがある。近年のダイバシティという概念があるが、何でもありとは違う。
コンテンポラリーが壊した何かを、改めて出すことは「守破離」に通じるのでは?

山本:能で一番難しいのは静止している演技。面をつけると距離感がルーズになる。
天狗がひどくゆっくり動く動作があるが、上空を飛行機が飛んでいるような距離感である。
これには何の説明もない、観客に媚びないということ。
獅子の役で板に飛び乗り10秒ほど静止する動作は非常に緊張する。
自分の身体はぐらぐらとしているのではないかと思えるが、そんなことはない。

金森:謡っている時の身体性、声を出すことによる変化は身体に及んでいる。
能での足踏みは、地霊を鎮めつつ、目にみえないものを喚起しているのではないか。
空間が、身体に先立って在るのは東洋的だといえる。
現代の身体は、何を失っているのか。
西洋なら半身アンドロイドはあると思う、東洋では成立しないのではないか。

佐々木: 西洋ではコロス(※)との分業が成立した。
(※古代ギリシャ劇の合唱隊のこと。劇の状況の説明や、語られなかった心情の補足をするなど、劇の進行を助けた。)
SPACの宮城聰のアプローチなどもある。
分離しないことが能の豊かさにあるのではないか。

山本:ある時、LED照明をいれ、実験的な試みとして藤本隆行
(dumb type)とコラボした。
光の色合いを暖色にするとか、時空を照明で表現していた。
能では、面自体が演出家といえる。

佐々木:オペラハウスで能の演目をみたことがあるが、舞台の作りの違いが大きい。
シビウでは能とNoismの関係について聞かれた。
西洋ならコラボして当たり前という認識だった。

金森:コラボレーションは好きではない。
企画者と当事者の温度差があり、合わないのでは。

山本: 過去に能のコラボの例をみたことがあるが、不自然でありどことなく笑えてしまった。
能楽者は不器用であり、ハードルが高い。

客席:
東西の舞踊について話を伺ってきたが、舞踏について言及がなかった。
劇作家太田省吾言うところの、作品の社会性と関連するのでは。

金森: 舞踏の土方巽の身体は非西洋的な身体である。
山海塾や大駱駝艦はあるが、振りきったものであったがゆえに浸透していかなかった。
舞踏はむしろ舞踊家ではなく鈴木忠司、寺山修司といった60年台の演劇人に継承された。
太田省吾については読み物でしか知らないが、社会性とは、了解されているものを拠り所にしている。
実は身体は社会性に非常に束縛されている。
また、舞踊がいかに社会性を獲得できるか考えている。

山本: 能の覚え方というのは、口伝、体験によるものが大きい。
たしなむというか、継続の要素があり堆積したものである。

金森:コラボをするならワークショップから取り組むのがいいかもしれない。

佐々木: りゅーとぴあとは柳、柳都に由来するもの。
これからの発展をみていきたい。

今回、Noismメソッド、仕舞の実演のみならず、予定調和にとどまらないトークと、非常に示唆に富んだ時間となりました。
今後も、舞台公演以外の展開も追わなねばならないと再認識した一日でした。

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のいさん、詳細レポート、どうもありがとうございました!

のいさんは、Noismに関するtogetterもしてくださっています。
こちらもどうぞご覧ください♪
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(fullmoon)