揮発しゆく『春の祭典』(サポーター 公演感想)

☆実験舞踊vol.2『春の祭典』プレビュー公演(@りゅーとぴあ)

Noism Company Niigataの作品を見る時、今日的な状況に照応させて観てしまいがちなのは何故だろう。 公共空間でしか目にしないような長い椅子は白く、一人掛けの椅子の連結により作られていた。所在なさそうに、しかしそこに座らねばならないかのように一人、また一人と登場する。のっぺりと塗られた白い顔。纏われた白いシャツの身幅は広く、身体のラインを拾わない。膝上まで素足の身体が正面を向いて一列に座ると、没個性化した衣装ゆえに体格差という個性に目が向く。余剰の布は身体に遅延して皺を形成し、時に照明を半透過させた。

このNoism版『春の祭典』は、音の構造から舞踊を作る実験舞踊であり、ひとりの舞踊家がひとつの楽器を担う。しかし楽器の射影に留まらず、音楽と舞踊の相互作用により空間は充溢していく。図形楽譜という記譜法があるが、さらに三次元に拡張したコレオグラフィックノーテーションとも言うべきであろうか。楽譜は椅子の背の5本の線にも象徴されていた。

椅子は一直線に置かれて境界を成し、またランダムに置かれ、積み上げれられ、檻になり、円陣を形づくった。分断は随所にあり、翳りがちな表情の群衆の畏怖や脅威はざわめき、エコーチェンバー的に増幅していくようだった。奥から射す光に導かれる者、そうでない者。おそるおそる踏み出した者もあった。間断のない収縮と弛緩がなす震え、硬直的な身体、開かれたままの手のひらは不安な情動を接ぎ木したようでもあった。

『春の祭典』
撮影:村井勇

自己省察的表現は抑制的なトーンをもたらし、だが突如として野性的なものにも変容する。変容は不意に訪れ、揮発する。それは我々の裡にもあるものだ。舞踊は時間軸をもった揮発性芸術であり、それゆえいつかの私の感情をなぞるのかもしれない。『春の祭典』は美しさと、現在のアクチュアリティに満ちた刺激的な作品だった。

(のい)

Noismプレビュー公演…そして、創作は続く(サポーター 公演感想)

☆実験舞踊vol.2『春の祭典』/『Fratres III』プレビュー公演(『Adagio Assai』含む)(@りゅーとぴあ)

プロジェクト・ベースで才能を呼び集めるかたちでの多くの公演が、「人の移動」に依拠する点において、コロナ禍の停滞に見舞われざるを得ないなか、それとは一線を画し、関係者が全て新潟市民であり、レジデンシャルでの創作を続けてきた点で、いち早く公演を実現させ得たこの度のプレビュー公演。金森さんにしてみれば、本公演を打てないことの無念さもあっただろうが、混迷を極めるなか、届けられた舞台には妥協などといったものは微塵も見て取れはしなかった。これこそが私たちが誇りとするNoismなのだ、そんな思いを抱いたのは私ひとりではなかったろう。

『Adagio Assai』

共振、共鳴、離れて向き合うふたつの身体が作り出す微細な空気の震えに目を凝らす冒頭。その後、別々の方向を向き、仰け反ったアンバー似の姿勢での静止を経て、デュエットに転じるや、醸し出されていく極上の叙情。その一変奏、スクリーン手前の井関さんが山田さんのシルエットと踊る多幸感溢れる場面に、心は引き付けられ、鷲掴みにされる。

『Adagio Assai』
撮影:村井勇

出会い、邂逅も、やがては別れへと。

そう、別れ。先に触れた仰け反った立ち姿では、自然と視線は上方向、それも遠くに向かわざるを得ず、その夢を追うかのような、ここではない何処かを求めるかのような姿勢が既に暗示していた帰結に過ぎない。「繋ぎ止めておくことなど望むべくもない」、最初からそんな予感漂う他者ではなかったか。

背後からその人の腕を追い、身体を抱こうとするも、痛ましくもすり抜ける、腕も身体も。そのさまは切なく美しい。今度は、揺さ振られ、掻き乱される心。そうして立ち去る井関さん、戻らぬ人。

「しかし、その人のことは一緒に踊ったこの身体が覚えている」、山田さんの身体がそんな声にならぬ声を発するのを、私の両目は聞きつけていた、間違いなく。

『FratresIII』

「贅沢だ、贅沢すぎる、どこを見詰めろというのだ」

勿論、金森さんのソロから視線を外すことなど出来ない。しかし群舞は群舞で、その同調性には陶酔に誘われるものがある。

『FratresIII』
撮影:村井勇

そこで、欲しいのは「近代絵画の父」ポール・セザンヌ(1839-1906)が提示したような多視点。しかし実際にはそんなもの望んでも無駄だ、無理なのだ。人の視覚には不向きな作品なのかもしれない。そのあたりをどう言おう、そう、神々しいのだとでも。神の視点から眺められるべき作品なのかもしれない。

光の滝の如く流れ落ち、身体を打ち続けた穀粒、足許に残るその無数の粒に、動く身体が残した軌跡の一様性にも息をのんだ。それは何やら梵字めいていて、そうすると、全体は動く曼荼羅のようでもあったな、また別な印象も湧いてくる。

もしかすると、この時分なら、恐らく、コロナ禍との文脈で見られることも多いのだろうけれど、それは極めて普遍的な性格を有する、多義的な作品であればこそ。

いずれにしても、これを観る者は揃って激しく鼓舞されることになるだろう。

『春の祭典』

休憩時間のうちに緞帳の前に、横一列、隙間なく並べられた椅子は五線紙めいた風情。

腰掛けに来る者はみな、社会を忌避し、拒絶し、常に怯え慄く者たちばかりだ。ほぼ他と目を合わせることも出来ず、隣り合う席に座ることなど嫌で仕方ない者たち。ためらいながら、或いは妥協したり、威嚇したりしながら、座る場所を選ぶさまはおしなべて不機嫌。他者と一緒になど毛頭なりたくはない胸襟を開かぬ楽音たち。

決して収まるべき場所に収まったとは思えない不穏な導入。イーゴリ・ストラヴィンスキー(1882-1971)なのだ。不協和な楽音が形作る変拍子の律動、それが同調性を示してさえ、或いは、示すなら、その陰に、既に常に付き纏う不安や怯え。

不承不承にしろ何にしろ収まった筈の構図も、背後に、やおら、その口を開いた「魔窟」たる場に蹂躙され、無きものとされてしまう、易々と。

『春の祭典』
撮影:村井勇

やがて、「魔窟」がその本性を現し、魅入られたように足を踏み入れる楽音たちを絡め取っていく。その場の磁場に煽られて、身体内部に酷薄な獣性を目覚めさせる楽音たち。生じる同調圧力と暴力、或いは、お定まりの排除と生け贄。

その様子を観ているうち、想起された名前はトマス・ホッブス(1588-1679)。彼が人間の自然状態とみた「万人は万人に対して狼」「万人の万人に対する闘争」への逆行・遡行。

2020年の今、目撃しているのはまさにそれでしかなく、ここ新潟で、ストラヴィンスキーの楽音を介して、現代社会が内包する「病」に向けられた金森さんの今日的な視線が、幾世紀も隔てた古典的な知と極めて自然に合流することにハッとさせられたが、そんな途方もない結びつきと戯れる醍醐味は格別だった。

しかし、即座にこうも思ったものだ。今回、金森さんが使用したピエール・ブーレーズ(1925-2016)+クリーヴランド管弦楽団による『春の祭典』(1969年録音)を更に聴き込んで来年の本公演に備えなきゃ、と。インスピレーションの源泉に沈潜すること。

何しろ、相手は金森さんである。時間の限り、創作は続くのだろうし、これが最終形である訳がないことだけははっきりしている。 (2020/9/3)

(shin)

2020年8月 プレビュー公演を観て(サポーター 公演感想)

☆実験舞踊vol.2『春の祭典』/『Fratres III』プレビュー公演(『Adagio Assai』含む)(@りゅーとぴあ)

「えっ?これって本番じゃ…?」と驚いた感動の公開リハ。いい体験をしました。支援会員でないと参加できません。なっててよかった! まだ会員になっていない方、お得ですよ。いいもの観れますよ。ぜひどうぞ。

それから2ヶ月。待ちに待ったプレ公演。来年は本公演もあるからお楽しみはこれからだ。

今回はブラボー禁止令が出ていたのでスタンディングオベーションで力一杯の拍手を。 では、思いつくまま感じたままに。

『Adagio Assai 』:  動かなければ何も始まらない。満を持して片方がほんのちょっとだけ動くと、間の空気が動きもう片方が呼応する。気功をする両手の様な二人。 静止映像。スナップ写真。うつされた瞬間に過去のものとなる。時は進む。

「人は一人一人各々の川を持っている。普段は別々に流れているが、何かの加減で合流することがある。しかし流れの質、速さなどが違う為にまた離れて行く。一瞬でも合えば “縁”。」

その瞬間は真実だったのだ。

『Fratres III』:  暗いトンネルの向こうから現れる孤高の修行者。まさに真のソリスト。指導者でもアンサンブル(群舞)を率いるリーダーでもなく。 とはいえ、抜きん出てストイックに自らを律する。痛めつける。 修行の滝(またはもっと痛いもの)に打たれる時も衣服で防御せず生身で受ける。矜持。背中で教える、みたいな存在。

『春の祭典』:  ダンサーが各々違う楽器の旋律を担当。椅子の背もたれのデザインは五線。というのはリハを観た後で知った。その時はただただ「ベジャールも良いけど金森版よ〜く出来てるわ!」と思った。 楽譜の音を拾いながら振り付けしたといいますが、前知識が何にもなかったとしたら、「先に踊りがあってそれに合わせてストラヴィンスキーと言う人が作曲したんだとさ。」を信じる人がいるかもしれない。 実際、プティパの振り付けした白鳥の湖に合わせてチャイコフスキーが作曲したらしい。

『NINA』の生きてる椅子の作者の五線椅子、一個欲しいです。バリケードになったり柵や檻になったり大活躍でしたが、そこで思い当たった。 楽譜って、作曲者やアレンジャーが忘れないように書き留めておくもの。第三者が見ても分かるようにしておく記録。しかし音符にしてみれば線に串刺しにされてるか挟まれてるかである。身動きが取れない。本当は自由に動きたいのに。 そこで演奏者(今回はダンサー)の出番。秩序は保ちながらも音を楽しく遊ばせてやる。檻から解放する。

こう思い当たると楽譜の見方が変わった。高校の時ピアノの先生に言われるがままにやった曲を久しぶりに弾いてみた。もっともっと気楽に弾ける気がした。(要猛練習)

衣裳も良かったです。シャツのボタンをどこまで止めるかでキャラ、属性が変わる。全止めすれば丸っこくて女性または中性。外すと開衿で首元が鋭角になり男性的。これも良く出来てる〜。

今回の三作品のキーワードは“距離感”かもしれない。この時代に生きていればイヤでも意識せざるを得ない事。

音たちも距離を取ろうと病的に振舞っていたが、ズカズカ踏み込んでくる者がいたりして不協和音が生じる。音同士の距離が近いほど緊張感のある音になる。

しかし、そうならない事にはストーリーが動かないのだ。

まだまだ思い当たることは出てくると思われますが、こんなにみせていただいて、まだプレですよ!さらに進化、熟成するであろう本公演、楽しみです! その前に一月の公演もあるけど。 (2020/8/30)

(たーしゃ)

サラダ音楽祭メインコンサートのNoism@池袋・東京芸術劇場 in 2020(サポーター 公演感想)

☆『Adagio Assai』(ラヴェル:ピアノ協奏曲 ト長調より第2楽章)/『FratresIII』(ペルト:フラトレス~ヴァイオリン、弦楽と打楽器のための)

 池袋の東京芸術劇場でサラダ音楽祭メインコンサートを観てきました。 とても素敵なコンサートで、そのすべてについて感想を書きたいところですが、私の文章力ではだらだら長く散漫な文章になってしまいそうなので、今回はこのブログの趣旨でもあるNoism Company Niigataが出演した2演目についてレポートしたいと思い ます。

東京芸術劇場外観
劇場エントランス
サラダ音楽祭の垂幕がかかっている
コンサートホールへと続く長いエスカレーター
改修前はもっと長くて恐かった
エスカレーターをコンサートホール側から見たところ
地下の広場
受付
チケットは自分でもぎる

 

 最初の演目モーツァルトのモテット「踊れ、喜べ、幸いなる魂よ」ではモダンオルガンも音を奏でましたが、その後の舞台転換ではこのパイプオルガンが隠れるほど大きなスクリーンが吊り上げられます。 いよいよラヴェルの「ピアノ協奏曲ト長調 第2楽章」のはじまりです(先日の新潟公演では「Adagio Assai(仮)」として上演)。指揮の大野和士さんと共にピアニストの江口玲さんが登場、演奏が始まるかと思えば、Noism0の井関佐和子さん、山田勇気さんがおもむろに現れ大きく踊りだします。冒頭の部分は「Adagio Assai(仮)」から、より大空間に対応すべく変更されたようです。

 江口さんの素敵なピアノの旋律と共に井関さん山田さんの舞踊がドラマチックに語られます。金森さんが以前「退団するメンバーとの別れの寂しさから小さな作品がつくれそう」とつぶやいていたのは、恐らくこの作品のことでしょう。2人のダンスは別れを語っているように感じました。井関さん山田さんの軌跡がストップモーション風に切り取られスクリーンに映し出されます。それはまるで流れつづける時間(現実)と、もはや永遠となった回想がオーバーラップして現れるように感じました。井関さんはオーケストラの間を抜け舞台後方に、山田さんは前方に留まり離れ離れでラストを迎えます。しばしの沈黙のあと万雷の拍手で賞賛されるお二人。

 続いて転換の後、暗転したままの舞台上にオーケストラメンバーと共に入ってきたのは金森穣さん。ヴァイオリンソロの矢部さんも自席で座ったまま演奏するようです。 舞台前方のリノリウム上で気合がみなぎっている様子の金森さんはこれまでにないほど大きく、異様な雰囲気を漂わせています。その直後に大野さんも入場すると場内から拍手が起こりますが拍手には応えず指揮台にのぼり演奏のスタンバイに入りました。 矢部さんのヴァイオリンが鳴ると同時に金森さんの身体が即座に反応し二人の激しい演奏が始まります。ペルトの「Fratres」です。次第に舞台の上手下手からフードで表情のみえないNoism1ダンサーがゆっくりと入場、芸術劇場の舞台上横いっぱいに広がり完璧なユニゾンを踊ります。金森さんは矢部さんのヴァイオリンソロと呼応、群舞はアンサンブルと呼応し演奏が繰り広げられます。金森さんの演舞は鬼気迫るものがあり圧倒されますし、対する矢部さんのヴァイオリンは冷静沈着な中に鋭さがあり、まるでサムライのような凄みがあります。また矢部さんは冒頭の超絶技巧後も、ソリストとオーケストラのコンサートマスターとしての役割を同時に担い、アンサンブルを率いつつソロを奏でます。

 Noismの踊りはコンテンポラリーでありながら原始的であり、純粋な祈りの儀式のように感じられました。「Fratres」シリーズ最終章となる「FratresⅢ」では「これからも踊り続けること」「新型ウイルスの終息」「舞台芸術の存続」の祈りのように感じられました(もちろん観る人によって感じ方は様々でしょう)。 ちなみに、これまでの「Fratres」シリーズでは天井より白いモノが落下してくる演出があり、それが非常に感動的なのですが、こちらについて興味がある方もいらっしゃると思いますので、単独公演との演出の違いについても簡単に書き記します。まず落下物の演出は照明を操作することで同様の効果が得られていました。またラストの円舞もスペースの都合上変更されていて、上手下手に分かれて非常にゆっくりと退場していき最後は金森さんだけが舞台上にいる、といった演出がされていました。

 打楽器の余韻が鳴り止むと同時にこれまた大きな拍手が起き、舞台袖に捌けていたNoism1ダンサーも舞台上に戻りカーテンコールに応えます。ここで金森さん、勢いのあまり矢部さんに握手を求めました。矢部さんは一瞬困惑したように見えましたが握手に応じていました(ちなみに指揮者大野さんと矢部さんは握手の代わりに肘タッチをしていました)。

 また演奏会の終演後は、再びのカーテンコールとなり今度は金森さんが臼木さん、江口さんと共に登場しました。ここでも大きな拍手が観客から送られカーテンコールが何度も続きました。 ちなみに、東京都交響楽団は7月に主催公演を再開しましたが都響会員・サポーターに限られていたため、今回のサラダ音楽祭が一般に開かれたコンサートの久しぶりの再開となったようです。 都響、Noismの公演を待ち望んでいたファンにはとても感慨深いコンサートとなりました。と同時に、いつもNoismの公演には必ず現れる熱いファンの姿が今回は見えなかったこともあり、新型ウイルスの影響により泣く泣く来場を諦めた、自粛した方もいらっしゃることも知っています。 本日のNoismの祈りが天に届き、早く舞台人が正常の舞台活動が出来る日が訪れることを私も願っています。

(かずぼ)

「色、そして/或いは時間」(サポーター 公演感想)

☆『森優貴/金森穣 Double Bill』

 新潟と埼玉で観た「森優貴/金森穣 Double Bill」は、様々な時間が、それらと不可分な色を散りばめつつ描出される刺激的な公演だった。

 金森さんの『シネマトダンス』は『クロノスカイロス1』から。肌を透かせて横溢する若さをピンクが象徴し、「昨日」(=映像)と格闘しながら過ごされる「永遠」かと錯視される眩しい時間。やがて終焉の予兆が滲み、甘酸っぱい感傷の余韻を残した。

new photo: shin
『クロノスカイロス1』
Photo : Kishin Shinoyama

 『夏の名残のバラ』は、その身体に「Noismの歴史が刻まれている」井関さんの踊りと最奥に映される映像は勿論、録りつつ見せる山田さんの「所作」も舞踊以外の何物でもない重層的な作品。強弱様々にリフレインされるたったひとつの歌に乗せて、落日を思わせる照明のなか、赤と黒と金で描かれる舞踊家の今と昔日は涙腺を狙い撃ちにするだろう。

not used
『夏の名残のバラ』
Photo : Kishin Shinoyama

 色と同様に、シルエットが現実界の身体に不可分なものであるなら、金森さんのソロ『FratresⅡ』は、現実界を超え出たものにしか見えない。何色かを同定することが容易でない色味、身体と同調しないシルエット。しかし、そもそも色もシルエットも光が織りなす仮象でしかあり得ず、ならば、身体が突出する金森さんの舞踊は、それらを置き去りにしながら、舞踊の本質に降りていくものであり、神々しく映る他あるまい。

new photo: shin
『Fratres II』
Photo : Kishin Shinoyama

 森さん演出振付は『Farben』。冒頭からスタイリッシュで、耳も目も瞬時に虜となる他ない。自らの色を求めて走り出す者たち。過去と現在、そして未来。交錯し、折り重なる時間を、個々の舞踊家の個性(=色)もふんだんに取り込みながら、多彩な舞踊で次々に編み変えていくその作品は、どこを切っても、鍛錬された身体が集まってこそ踊られ得るものでしかない。

new photo: shin
『Farben』
Photo : Kishin Shinoyama

 今回の「Double Bill」、時間を共通項に、過去に立脚しながら、新色を添えつつ、未来を見晴るかすものだった点で、Noism第二章の幕開けを飾るに相応しい公演だったと言い切ろう。 (2020/01/26)

(shin)

「舞踊に媒介された人の営為」(サポーター 公演感想)

☆『森優貴/金森穣 Double Bill』

 秒を刻む『クロノスカイロス1』、フーシャピンクの身体が軽やかに横切る。疾走は交錯し、その姿は後方のスクリーンに投影された。映像と鏡合わせのごとく対峙した身体は、躍動感を以て、映像は静止の瞬間の連続体であると思い出させた。高彩度の照明は幾度か全てを塗り替える。と、ふわと羽毛が落ちゆく。俊敏な身体を容した広い平面に高さが忍び込んでいた。降下時間とデジタルで刻まれゆく時間は対照的だ。だが、人が感受する時間の流れも一様ではない。

noi
『クロノスカイロス1』
Photo : Kishin Shinoyama

 哀切を帯びた歌声が響く『夏の名残のバラ』。スクリーン中の楽屋に女が居り、幕開け、女を追うレンズは男の手にあると知れる。一面の落ち葉は二人の足取りに翻り、ケーブルに曳かれた。女の身体は過去を追想する。街の残照のようなスリット状の光を受け、紅いドレスにドレープが連なる。寂しさを湛えながらも手の平はぱたぱた無邪気に鳴った。つと、地平が立ち上り、我々は傍観者として遠くにデュオを見、やがて客席を向いたレンズは人影を捉えない。女の目に映る光景はただ一つのものだ。

new photo: noi
『夏の名残のバラ』
Photo : Kishin Shinoyama

 黒衣の男は独り円形の明かりの下に在った。『FratresⅡ』、背後に相似形の巨大な影を伴い、男は両手を天に掲げる。深く腰を落とし地に迫る。ときに先んじ、また追随した影は男の生きられなかった側面だろうか。男は沈潜し、葛藤し、今を営む。ひとときの静止には彫像のごとき美しさが宿る。粒立つ光が注がれた。手首を返しては流れを受け続けた男は、静安をまとい歩み去った。

noi
『Fratres II』
Photo : Kishin Shinoyama

 白い眩惑に人影を見ながら『Farben』の幕が上がる。強い弦の音、天地を違えた机が出来事の緊張感を高めた。群舞に衣擦れを聞き、踊られる情動はそこここで離合集散する。額を外しゆき、桟橋を渡り、翻弄され、差し出した手に花を得た。紫色の花は、個の内奥と呼応していたのかもしれない。『森優貴/金森穣 Double Bill』に、恐るべき凝縮度の人間の営為を見た。

new photo: noi
『Farben』
Photo : Kishin Shinoyama

(のい)

「Noism2定期公演vol.11 Noismレパートリー感想」(サポーター 公演感想)

☆金森穣振付Noismレパートリー(Noism2定期公演vol.11より)

去年ノイズム2の公演を初めて観て、その初々しさに魅了されました。今年も研修生たちの成長を見ようと心待ちにしていましたが、期待を裏切らずハートウォーミングなひとときでした。

会場ロビーの演目表も見ず、プログラムはお手元用メガネを忘れたので読めず、幕が上がった。

ひとつの作品と疑いもせずに観ていた。面白い!身体もよく動いている。既視感はあるがなんという演目だったかなぁ。まあいいや。とにかく楽しもう。

操り人形、人間。どちらでもなさそうな物体。

休憩時にやっと三作品のオムニバスと分かった!思い込みってスゴイですね〜

『ホフマン』と『人形の家』は観てないのでそれはともかく、『NINA』もハッキリとは認識出来なかった。でも忘れるからこそ新鮮に感じられる、という事のいい例だな。

違和感なく最後まで楽しめたというのは、三作品を一つのトーンにまとめあげた山田監督の演出の力量ではないでしょうか?

『NINA』

赤い照明の下に四体の人体模型。肌色レオタードで動きがだんだんと生き物っぽく猿っぽくなって来る。既視感。

ベジャールの「春の祭典」

去年東京で、バレエ友達のおごりで東京バレエ団の春祭を観た。その後でNoism次の公演は春祭だって、と伝えたら彼女は「えっ?NINAが金森さんの春祭だと思ってた!」と言った。

なんだか納得。

最後に…

身長体型もバラバラな四体の彼女たちは涙が出るほど美しかった。

他のダンサー達もみんなキラキラ輝いてうつくしかった。

応援します。ありがとう

(たーしゃ)

「とまどうしあわせ」(サポーター 公演感想)

☆『シネマトダンス-3つの小品』(『森優貴/金森穣 Double Bill』より)

「Noism Company Niigata」と名称が改まって最初の公演は『森優貴/金森穣 Double Bill』。金森さん演出振付の『シネマトダンス-3つの小品』は約40分、3作品で構成されている。

『クロノスカイロス1』。ピンクの衣装をまとった10人のダンサーが、カラフルな照明に彩られた舞台で縦横無尽に躍動する。奥のスクリーンには、ダンサーの姿やデジタル表示の時間が映り、消え、また映る。生身と映像は一体のようで別人のようで、頭がかすかに混乱する。時間は誰にも同じように流れるというけれど、1分、1秒、コンマ1秒、若いダンサーたちが刻む時間の輝きは格別だ。

『クロノスカイロス1』
Photo:Kishin Shinoyama

『夏の名残のバラ』は懐かしいポスターが貼られた楽屋の映像からはじまる。赤い衣裳の井関さんが準備を整え、階段を上がり、そして、現実の舞台に姿をあらわす。山田さんが持つカメラは井関さんを追い、客席からは見えない角度でスクリーンに投影し、視線を惑わせる。次第に、山田さんは撮影者から相手役に変わり、「お前をひとり残しはしない」という詩の言葉のように寄り添い、踊る。2人が紡ぐ時間は深く愁いをおびて心に響く。やがて、映像は(一部または全てが)リアルタイムのものではない(であろう)ことが示され、ひとときまじりあいせめぎあった過去と現在は、ともに静かに消えていった。

『夏の名残のバラ』
Photo:Kishin Shinoyama

『FratresⅡ』。個の集合が美しかった『Ⅰ』から、金森さん1人が抜け出たように踊る。鋭く優雅な動きに惹きこまれながら、孤独をはらんだ圧倒的な厳しさに突き放され、心が定まらない。背後に浮かびあがるとらえどころのない影は、観客のたじろぎも映し出していたのだろうか。

『Fratres II』
Photo:Kishin Shinoyama

何か月も劇場から遠ざけられ、個室で小さな画面と向き合うことしかできない今。生の身体と映像の双方に心を魅入られ揺さぶられた『シネマトダンス』の空間と時間がいかに幸福に満ちていたか、いとおしくさびしく思い出している。

(うどん)

シアター・オリンピックス:Noism0 『still/speed/silence』 9/20の回(サポーター 公演感想) 

2019年9月20日(金)、富山県南砺市利賀で行われているシアター・オリンピックスを観に行きました。

演目はNoism0『still/speed/silence』です。

富山県はおろか北陸地方に来るのも初めてです。利賀は山村で交通アクセスが良くなく、送迎はあるものの、この公演後は帰りの便がないため、10数年ぶりにペーパードライバーを脱出し、レンタカーで向かいました。とりあえず無事に帰れてほっとしました。

少し早く着いたので、グルメ館で昼食をいただき(ビーフストロガノフが美味しかった!)、近くの天竺温泉へ立ち寄り湯をしました。

「天竺」といえば西遊記で三蔵法師一行が目指した場所。また、今回は行けませんでしたが、村内には瞑想の郷もあり、この地のパワーを想像させます。

わずか5時間ほどの滞在でしたが、トンボやバッタなどの虫たち・ヘビ・大きい鳥(トンビ?)・イノシシ(の寝息)、半裸で川遊びをする外国人、に出会い盛りだくさんでした。

さて、前置きばかり長くなりましたが、Noism0『still/speed/silence』。

配布されたプログラムノートによると、作曲家の原田敬子さんには作品のタイトル(still/speed/silence)を伝えた上での委嘱だったそうです。りゅーとぴあの事業計画にも「3S(仮)」とあるのを見かけました。

※原田さんも書いていましたが、この「S」は鈴木忠志氏へのオマージュであることは間違いないでしょう。

ということで私は勝手に、鈴木忠志氏に金森さん井関さんの現在地を観せるような作品を想像し、「still/speed/silence」はとても金森さんらしい3語だ、などと期待していたのですが、期待は良い意味で裏切られました!目の前で絡み合う2人は妖しさ満点。人間ではない何かを感じさせます。

やはり原田さんの曲のテンションの高さが、この作品の方向性を決めたのだろう、と思いました。

また利賀山房のみならず芸術公園、村自体から感じるパワーにも音楽・舞踊が呼応しているような不思議な感覚でした。

観た直後から「もう一度観たい」「新潟や東京でも観たい」と思いましたが、やはりこの作品は利賀ならでは、なのかもしれません。

利賀で観ることができて本当に良かったと思いました。

(かずぼ)

勝手に命名「『ロミジュリ(複)』ロザラインは果たしてロミオが好きだったのか問題」(サポーター 公演感想)

☆劇的舞踊vol.4 『ROMEO & JULIETS』(新潟・富山・静岡・埼玉)

〇はじめに:  Noismの新展開を告げる会見を待ち、心中穏やかならざる今日この頃ですが、前回掲載の山野博大さんによる『ROMEO & JULIETS』批評繋がりで、今回アップさせていただきますのは、最初、twitterに連投し、次いで、このブログの記事「渾身の熱演が大きな感動を呼んだ『ロミジュリ(複)』大千秋楽(@埼玉)」(2018/9/17)のコメント欄にまとめて再掲したものに更に加筆修正を施したものです。各劇場に追いかけて観た、曖昧さのない「迷宮」、『ROMEO & JULIETS』。その「迷宮」と格闘した極私的な記録に過ぎないものではありますが、この時期、皆さまがNoismのこの「過去作」を思い出し、再びその豊饒さに浸るきっかけにでもなりましたら望外の喜びです。

①当初、ロミオに好かれていた時でさえ、その手をピシャリと打っていたというのに、やがて、彼のジュリエッツへの心変わりに見舞われて後は、制御不能に陥り、壊れたように踊る、ロザライン。自分から離れていくロミオに耐えられなかっただけとは考えられまいか。

②他人を愛することができたり、愛のために死ぬことができたりする「人」という存在への叶わぬ憧れを抱いたアンドロイドかもと。とても穿った見方ながら、しかし、そう思えてならないのです。

③「人」よりも「完全性」に近い存在として、ロレンス医師の寵愛のもとにあることに飽きたらなくなり、或いは満たされなくなっただけなのか、と。それもこれもバルコニーから「不完全な存在」に過ぎないジュリエッツが一度は自分を愛したロミオを相手に、その「生」を迸らせている姿を見てしまったために、とか。

④というのも、全く「生気」から程遠い目をしたロザラインには、愛ほど似つかわしくないものもなかろうから。

⑤ラストに至り、ロザラインがロミオの車椅子を押して駆け回る場面はどこかぎこちなく、真実っぽさが希薄なように映ずるのだし、ベッドの上でロミオに覆い被さって、「うっうっうっ」とばかりに3度嗚咽する仕草に関しても、なにやらあざとさが付きまとう感じで、心を持たないアンドロイドの「限界」を表出するものではなかっただろうか。

⑥アンドロイドであること=(古びて打ち捨てられたり、取り換えられたりしてしまう迄は)寵愛をまとう対象としてある筈で、それ故、その身の境遇とは相いれないロミオの心変わりを許すべくもなく、「愛」とは別にロミオの気持ちを取り戻したかっただけではないのか。「愛し愛され会いたいけれど…」で見せる戯画的で大袈裟な踊りからは愛の真実らしさは露ほども感じられず、単なる制御不能に陥った様子が見て取れるのみです。

⑦更には、公演期間中に2度差し替えられた手紙を読むロザラインの映像。 最終的に選択されたのは読み終えた手紙が両手からするりと落ちるというもの。頓着することもなく、手紙が手から落ちるに任せるロザラインは蒸留水を飲んではいないのだから、「42時間目覚めない」存在ではなく、ロミオが己の刃で果てる前に身を起こすことは普通に可能。

⑧すると、何が見えてくるか。それは心変わりをしたロミオを金輪際、ジュリエッツに渡すことなく、取り返すこと。もともと、アンドロイドのロザラインにとっては儚い「命」など、その意味するところも窺い知ることすら出来ぬ代物に過ぎず、ただ、「人」がそうした「命」なるものを賭けて誰かを愛する姿に対する憧れしかなかったのではないか。

⑨「愛」を表象するかに思える車椅子を押しての周回も、アラベスク然として車椅子に身を預ける行為も、ただジュリエッツをなぞって真似しただけの陳腐さが感じられはしなかったか。そのどこにもロミオなど不在で構わなかったのではないか。そう解するのでなければ、ロミオが自ら命を絶つ迄静かに待つなどあり得ぬ筈ではないか。

⑩ロレンス医師のもとを去るのは、死と無縁のまま、寵愛を永劫受け続けることに飽きたからに他ならず、彼女の関心の全ては、思うようにならずに、あれこれ思い悩みつつ、死すべき「生」を生きている「人」という不完全な存在の不可思議さに向かっていたのであって、決してロミオに向かっていたのではあるまい。

⑪というのも、たとえ、ロザラインが起き上がるのが、ロミオが自ら果てるより前だったにせよ、蒸留水を飲んだだけのジュリエッツが蘇生することはとうに承知していたのであるから、ロミオが生きたままならば自分が選ばれることのない道理は端から理解していた筈。ふたりの「生」が流れる時間を止める必要があったのだと。

⑫心を持たないゆえ、愛することはなく、更に寵愛にも飽きたなら…。加えて、死すべき運命になく、およそ死ねないのなら…。ロザラインに残された一択は、「命」を懸けて人を愛する身振りをなぞることでしかあるまい。それがぴたり重なる一致点は「憧れつつ死んでいく(=壊れていく)とき」に訪れるのであり、そこで『Liebestod ―愛の死』の主題とも重なり合う。

⑬これらは全て「アンドロイドのロザラインは蒸留水を飲んだのか問題」というふうにも言い換え可能でしょうが(笑)、答えは明白なうえ、蒸留水自体がロザライン相手にその効能を発揮するとは考えられないため、これはそもそも「問題」たる性格を微塵も備えていないでしょう。

⑭掠め取った手紙を自分のところで止めたロザラインには、追放の憂き目にあい、戻れば死が待つ身のロミオが、起き上がらないジュリエッツを前にしたならば、絶望のあまり、自らも命を絶つという確信があったものと思われる。そのうえで、ロミオが自ら命を絶つまで不動を決め込んでいたのに違いない。

⑮ラスト、(公演期間中、客席から愛用の単眼鏡を使ってガン見を繰り返したのですが、)ロミオの亡骸と共に奈落へ落ちるときに至っても、ロザラインの両目は、「心」を持ってしまったアンドロイドのそれではなく、冒頭から終始変わらぬ無表情さを宿すのみ。とすると、あの行為すらディストピアからのある種の離脱を表象するものとは考え難い。

⑯この舞台でディストピアが提示されていたとするなら、果たしてそれはどこか?間違っても「病棟」ではない。監視下にあってなお、愛する自由も、憎む自由も、なんなら絶望する自由もあり得たのだから。本当のディストピアが暗示されるのは言うまでもなくラスト。死ぬことすら、なぞられた身振りに過ぎないとしたら、そこには一切の自由は存しないのだから。

⑰そう考える根拠。舞台進行の流れとはいえ、もう3度目にもなる「落下」は、それを見詰める観客の目に対して既に衝撃を与えることはない。単に、そうなる運命でしかないのだ。舞台上、他の者たちが呆然とするのは、呆然とする「自由」の行使ではないのか。生きる上で、一切の高揚から程遠い「生」を生きざるを得ない存在こそがディストピアを暗示するだろう。

⑱(twitterの字数制限から)「運命」としてしまったものの、アンドロイドであるロザラインに対してその語は似つかわしいものではなく、ならば、「プログラム」ではどうか、と。もともと自らには搭載されていない「高揚」機能への憧憬が、バルコニーのジュリエッツを眺めてしまって以降の彼女を駆り立てた動因ではないか。

⑲更に根本的な問題。「ロザラインは(無事)死ねるのか問題」或いは「奈落問題」。マキューシオ、ティボルト、ロミオにとっての「奈落」とロザラインにとっての「奈落」をどう見ればよいのか?そして、そもそも、病棟で患者たちが演じる設定であるなら、先の3人の死すら、我々が知る「生物の死」と同定し得るのか?

⑳それはまた、一度たりとも「奈落」を覗き込んでいない唯一の存在がロザラインであることから、「果たしてロザラインには奈落は存在するのか問題」としてもよいのかもしれない。「人」にあって、その存在と同時に生じ、常にその存在を根本から脅かさずにはおかない「死の恐怖」。「奈落」は「死」そのものではなく、その「恐怖」の可視化ではないのか。すると、ロザラインには「奈落」はあり得ず、心変わりから自らの許を去ったロミオを相手に「愛」を模倣し、そのうえ、「愛」同様に縁遠い感覚である他ない「死の恐怖」も実感してみたかった、それだけなのではなかったか。

これらが私の目に映じた『ロミジュリ(複)』であって、ロザライン界隈には色恋やロマンスといった要素など皆無だったというのが私の結論となります。

(shin)