「私がダンスを始めた頃」⑧  カイ・トミオカ

私は今に至るダンスの旅を振り返って、私をここ、Noismというカンパニーへと導いた一連の出来事と決断をはっきりと認めることができます。

12歳の時、ロンドンの家の近くにあったローカルなスタジオでブレイクダンスとストリートダンスのクラスに入ったことを覚えています。ここからダンスへの私の愛情がスタートしたのです!もっとも、あまりうまく踊れた訳ではありませんでしたが。当時人気のダンス映画を何本も観ては、そんなふうな動きを身に付けたいと思ったものでした!

14歳になった頃、スタジオは、より汎用性のある動き、異なる種類の動きを身に付けさせようとボーイズ・バレエのクラスをスタートさせたのでした。私もやってみようと決心し、そうしてクラシックダンスへの情熱に火が付いたのでした。

そのときの私は自分が踊ることを大いに楽しんでいましたが、それでもあまり本気で捉えてはいなかったかもしれません。他の趣味、例えば、サッカーや陸上、或いは演技と並行して踊っていたものですから。

でも、1年後、サッカーをしているときに鎖骨を骨折してしまったのです。それは「ロンドン・チルドレンズ・バレエ」の大事なオーディションを逃すことを意味するものでした。私が楽しみにしていたオーディションだったのに…。自分がやりたいもの、自らを託したいものがどちらなのか選ばなければならないと悟ったのはこの時でした。体に要求されるものが違っていたからです。で、勿論、私はダンスを選びました。

翌年、その同じオーディションに晴れて挑むことができました。結果は合格!そのステージで演じた後、観に来ていた Central School of Balletの先生の目にとまったことから、そちらにてフルタイムで学ぶオファーをいただき、16歳で、プロになるためのダンスのトレーニングを始めて、あとは皆さんご存じのとおりです!

今振り返ってみると、それは多くの犠牲を払って成り立っていることがわかります。そんなに若いうちから大人のような難しい決断をすることは並大抵のことではありませんし、自分の時間の多くをダンスに割くということは若者ならやりたいと思う筈の多くを見送ることを意味するものでもありました。ダンスに専心することは生涯にわたる決断なのです。でも私はそれをいささかも変えるつもりはありません。

(日本語訳:shin)

以下はカイさんが書いた元原稿(英語)です。併せてご覧ください。

Kai Tomioka

I can look back on my dance journey so far and identify a chain of events and decisions that have led me to here to Noism dance company.

I remember at the age of 12 joining a breakdance and street dance class, at a local studios near to where I lived in London. This was where my love for dance started, even though I wasn’t very good! After watching popular dance films at the time I wanted to learn to move in those ways! When I was 14 they started a boys ballet at the studios, to try and encourage the dancers to become more versatile and move in different ways. I decided to give it a go and thus started my passion for classical dance. I was enjoying my dancing a lot but was still not taking it too seriously. I was dancing alongside my other hobbies, such as football, athletics and acting. But a year later, while playing football I broke my collar bone, which meant that I missed an important audition for a production called ‘London children’s ballet’. This was something I was very much looking forward to and this is when I realised I had to make the choice about what I wanted to do and to commit to one or the other, as the demand from the body is very different, and of course I chose dance.

The next year I was able to attend the audition again, and was successful! After taking part in this show, I was offered a full time place at central school of ballet after a teacher from the school had come to watch, so at 16 I began my professional dance training and then the rest is history!

Looking back on it now I can recognise that it took many sacrifices, and at such a young age it took a lot to make some mature and difficult decisions, spending much of my time dancing meant that I missed out on lots that you as a young person would want to do, committing to dance is a lifelong decision, but I wouldn’t change any of it.

(1995年イギリス生まれ)

*2021年7月退団

「私がダンスを始めた頃」⑦  ジョフォア・ポプラヴスキー

姉が腰にトラブルを抱え、更に酷い内股だったため、 母は姉のそうした状況を改善することに繋がるだろうとバレエをさせることを決心。こうして残りの家族もすぐにそれに続くことになり、「この冒険」が始まったのです。

母はまた、私がよく姉のスカートをはいて、二階で踊ったものだとも言います。私もそんな一日のことを思い出すことができます。ですから、「それ」は私の中のどこかにあったのでしょう!

私は常にダンサーとしての自分の姿を感じたり考えたりしてはいましたが、実際、ダンサーになろうとは思ってもいませんでした。消防士になって人々を助けたいと思っていたからです。

でも、ダンスの先生(男性)は私の才能を信じてくれていて、彼こそが、私の背中を押しては、学校を卒業後、どこへ行ってプロとしての訓練を積めばよいかに目を向けてくれていた人なのです。私はダンスについては多くを知りませんでしたが、打ち込めば打ち込むほど、成功したいと思うようになったのでした。

(日本語訳:shin)

以下はジョフォアさんが書いた元原稿(英語)です。併せてご覧ください。

Geoffroy Poplawski

As my big sister had trouble with her hip and was too much turned in, my mom decided that doing ballet would improve her situation. This is how the rest of the family soon followed and started this adventure. My mom also said that I used to wear my sister’s skirt and dance upstairs and I do remember one of those days so I guess it was somehwere in me !

I always felt and thought of myself as a dancer but I actually never thought of becoming one. I wanted to be fireman and help people. My dance teacher believed in me and he is the one who pushed and looked where I could go and train professionally after graduating from school. I didn’t know much about dance but the more I worked for it the more I wanted to succeed.

(1991年フランス生まれ)

「私がダンスを始めた頃」⑥  西岡ひなの

2歳から地元(滋賀)のバレエ教室に通い始めました。オムツが取れたばかりなので、もちろん当時の記憶はありません。始めた理由は、母が可愛い衣裳を着せたかったかららしいのですが、とてもやんちゃで先生の注意を聞かずに走り回り、木製のバーを舐めまわすような(ほのかな木の香りと、しょっぱかったのを覚えています)おてんば娘でした。

両親が共働きだったので、おのずとバレエ教室にいる時間が多くなり、それと同時に私のやんちゃさはバレエ教室内にどんどん広まっていきました。

ある日、教室の責任者である先生が「ひなのはどの子や!!!」とやってきて、三角座りのできない私を膝の上にのせて監視されたり(可愛がってくださいました)、まるで学校に行くかのようにバレエ教室に通っていました。

コンテンポラリーダンスと初めて出会ったのは小学3年生の時。バレエ教室には毎年夏休みに海外から先生が来てくださるのですが、その年はコンテンポラリーの先生でした。プライドが高かった私は、「今回もいつも通り私が真ん中で踊るんだ!」という気持ちでクラスを受けました。しかし、友達が一つ上のお姉さんと踊り、自分は同学年の子と端で踊ることになりました。

本当に悔しくて怒りながら教室を出て、家に戻ると、母から「(端で踊ったのは)当たり前でしょ。全然顔が笑ってないし、楽しくなさそうだった。それに比べて友達はニコニコして、元気でエネルギーがあったよ」と言われて、コンテンポラリーダンスでは、今まで自分がバレエで習ってきたことは通用しない、今の自分は他人と比べるのではなく、とにかく自分の踊りに一生懸命向き合わなくてはいけないんだと、初めて気づきました。 この経験は、舞踊家として踊る今も、毎日、毎公演、兜の緒を締め、舞踊と向き合うことの大切さを教えてくれます。

(にしおかひなの・1995年滋賀県生まれ)

*2019年7月退団

「私がダンスを始めた頃」⑤  鳥羽絢美

私が舞踊を始めたきっかけは姉でした。姉がすることは何でも自分もするものだと思っていた私は、姉がバレエを始めると当たり前のように真似をして、ちゃっかりバレエを始めました。

それに加え、当時、ディズニープリンセスやキラキラしたものが大好きだったようで、クラスで着るレオタードや、舞台衣裳にも惹かれていたようです。

初めて舞台に立ち、幼いながらに照明に当たりながら踊ることが好きだと感じました。今でも母に「絢美は昔から照明が好きだったからね〜」とよく言われます。もちろん、照明の下で踊ることができる本番の舞台は、今も変わらずとても興奮します。

余談ですが、自分が踊ったNoism作品の照明で一番好きなのは『NINA―物質化する生け贄』の『hidden glass』というシーンの照明です。黒幕裏に待機し、音楽が鳴り、黒幕が上がった時に見えた真っ暗闇の客席、シンプル且つ力強く美しい照明、舞踊家たちのシルエットに、私はとてもゾクゾクし、高揚し、今までにないほど興奮したことを覚えています。

ダンスを始めた頃に話を戻しますが、中学3年生の頃、仙台に住んでいた私は、父の転勤で東京の高校へ進学することになりました。どの高校にするか探していた時、バレエではなくコンテンポラリーダンスを授業のカリキュラムに含んだ高校があることを知りました。

今思えば、普通科の高校へ行くか、舞踊専攻がある高校へ行くか悩み、後者を選んだ瞬間が、これから先の未来も舞踊家として踊っていきたいと覚悟を決めた時だったのだと思います。そしてその高校の先生との出会いをきっかけにNoismを知り、今へと繋がっていきます。

私の両親は、私がやりたいことをいつも応援してくれますが、それと同時に「自分の行動や、選んだ道、自分が決めたことにちゃんと最後まで責任を持ちなさい」と言います。自分が選んできたこと、これから選ぶことにしっかり向き合い、責任を持ち、これからも舞踊家として精進していきたいと思います。

(とばあやみ・1995年静岡県生まれ)

*2021年7月退団

「私がダンスを始めた頃」④  井本星那

初出:Noismサポーターズ会報34号(2018年7月)

実はかなり内気な性格です。幼い頃は、人見知りがひどくて、幼稚園でも友達と遊べず、先生のスカートをしっかりと握りしめているような甘えん坊で内向的な子供でした。

4歳の時に、母が健康のためにと通っていた近所のバレエ教室に通い始めました。
何度か誘われても「やらない」と言っていたはずの私は、踊ることの楽しさに少しずつ魅了されていきました。
バレエを始めてから、だいぶ積極的になって、お遊戯会の本番で他の園児に注意するほどでした…(汗)

音楽に合わせて身体を動かすのは大好きですが、私の身体はバレエ向きではありませんでした。
不器用で振り付けを覚えるのも遅く、何をするにもとにかく時間がかかりました。
「なんで私にはできないの?」と悔しくて泣くことも多かったです。

それでも続けることができたのは、バレエの先生のおかげです。
出来ないことは徹底的に、何度も何度もやらせてくれました。
そして「何もない分、武器をもて」と、回転系のテクニックを教わり身体の軸が強くなりました。

初舞台は『くるみ割り人形』のネズミ役でした。
お姉さんに手を引かれて、初めてでた舞台はまぶしくて、知らない世界が広がっていました。
舞台に立つ時、本番独特の緊張感や怖さが嫌いでした。
でもそれに克って、踊りだしたとき、舞台上にしかいないもう1人の自分がいるような不思議な感覚がありました。
舞台の上のもう1人の自分に会うために、これからも踊り続けていきたいです。

(いもとせな・1989年大阪府生まれ)

「私がダンスを始めた頃」③  チャン・シャンユー

初出:Noismサポーターズ会報32号(2017年12月)

幼少のころは虚弱体質で、すぐに風邪をひき、熱を出していたこともあって、12歳になってやっと母はダンス教室へ通わせることにしたようです。
小さい頃から他人(ひと)の真似をするのが好きだった僕は、少しずつダンスが好きになりました。

特に、モスクワ市立バレエの『白鳥の湖』を見てからはバレエの魅力に取りつかれました。DVDを買って、毎日夕食時に何度も繰り返して見て、週末には一日中ストレッチをしました。

ですが、当時、僕は台湾にもダンス専門の学校があることを知らず、学校の先生から「ダンスの学校に進学してみないか?」と言われたのをきっかけに、インターネットを利用して台湾各地のダンス学校の情報を調べ、試験の準備を始めました。 しかし母以外の家族はダンスの道に進むことに賛成してくれませんでした。 あらゆる意見や質問を受けました。

「ダンスはお金のある家の選択だ」 「ダンサーは社会にどのような貢献ができるのか」 「お前は勉強だってできるのに、なぜダンスなのか」 おじに至っては僕の太ももを掴んで、「こんなに痩せててダンスなんかできるのか」と言ったものです。

13歳の僕はあの手この手を使って自分の決意が固いことを伝えました。
「たとえ他の仕事に就いて成功したとして、僕は今日この時ダンスを選ばなかったことを後悔すると思う」
家族は、「じゃあダンスで失敗したとしたら後悔しないのか」と聞き返してきました。
僕はすこし黙ったあと、「後悔しない。だってこれは僕の選択だから」と答えました。
あの瞬間、僕は自分自身で言った言葉に驚いたのを覚えています。

このような、家族との葛藤は一年続き、僕は第一志望だった台北芸術大学に合格します。
当時の僕の成績は、さらに難しい高校に合格できるものでしたが、僕は受験申込書さえ家に持ち帰ることをしませんでした。
この他に思う存分ダンスができる選択はなかったのです。

今になってあの頃を振り返ってみると、ダンスに反対した家族に逆に感謝したいです。幼かった僕が、ダンサーとして一生を送る決心を揺るがないものにするきっかけを与えてくれたからです。
その後に味わった挫折のたびに、自分でくだしたダンスという選択を思い出し、自分の選択に責任を持たなければならないという思いを強くしたものです。

(1992 年台湾・苗栗縣生まれ)

*2019年7月退団


モスクワの『カルメン』写真特集♪

ゲリコンオペラ外観

ゲリコンオペラ外壁プレート

日程表

見えるかなぁ~?

エントランス

こちらもエントランス

エントランスカフェ

カフェレストラン

開場! 

学者役の奥野さんが既に舞台上に!

旅の学者メリメ役の奥野晃士さん♪

開演前と休憩中は撮影OKだそうです。

会場内…

客席の上の方に貴賓席があります。

もうすぐ開演!

だんだん混んできました。

ただいま休憩中。

ホセ、21日目の懲罰房。熊も見えるかな~?

休憩が終わりに近づき、左の出入り口の方、わかるでしょうか?ジプシーの娘たちが出てきました。

日本では開演前や休憩中に客席でガンを飛ばしていましたが、今回はステージ前のみで、この時だけでした。

ちなみに、ステージは新潟よりも高さと奥行きはあるようでしたが、幅が少し足りないようで、ステージ両脇の出入口からの登場退場もあり、面白かったです♪

プログラム

開くとロシア語でキャスト名が!

りゅーとぴあのロゴはそのまま。

こちら(現地レポ)も併せてどうぞ♪  (fullmoon)

モスクワの『カルメン』♪(現地レポ)

5月29日、チェーホフ国際演劇祭招聘、『カルメン』モスクワ公演初日!
新潟から駆けつけた一行4名で鑑賞しました♪
チケットは既にソールドアウトの大盛況!
そして拍手歓声、スタンディングオベーションの大成功で無事終演!!
よかったですよ〜♪

公演中も随所で拍手があり、見事な熱演に観客が引き込まれていました。
会場では、金森さん、山田さん、スタッフの上杉さん、堀川さんにお目にかかれました♪
私たち一行には、ライターの本間大樹さんが同行。新潟日報夕刊・おとなプラスに公演の様子等が掲載される予定です。
ほかに、BSN新潟放送からもテレビカメラを担いで3名、取材に来ていました。いろいろ楽しみですね♪
モスクワの空港でお見かけした、新潟市の飲食店・錦弥(きんや)のお二人にも、会場でご挨拶できました♪

会場名は現地では、「ゲリコン・オペラ」と発音するそうです。
カジュアルな服装の方が多いですが、綺麗なドレス姿の女性も結構多数いらっしゃいました!
会場も一部改装したのか、外壁や、エントランス等、とてもきれいでした。クロークに行く階段まわりのデザインも美しくて斬新。好印象の会場でした♪

私たち一行にはロシア人の女性が案内に付いてくださった(この件の詳細は後日)のですが、公演をご覧になって大興奮!観る前と観たあとでは顔つきが変わっていました。 とてもよかった、面白かった、凄かった、カルメンは凄く色気があった、と話されていました♪
本間大樹さんはカルメンを観るのは初めてだそうですが、何度か見ている3名も、また新たな驚きと美しさ、華やかさに感動しました。

観客の反応で面白かったのは、ドロッテがロシア語で[休憩]と書いたカードを出すところ。笑いと拍手が起きました。この場面は日本でも同じなので想像できましたが、もうひとつは闘牛士の場面です。天井から吊るされている牛が落下して闘牛士が死ぬシーン。牛が落ちた途端に会場は大爆笑、ヤンヤの大拍手! 日本では笑いが出ることもたまにはありましたが、ほんの少しでした。
そしてすぐに次の深刻な場面になるのですが、この反応に金森さんは「してやったり!」と思ったことでしょう。

最後、いつが終わりかわからないシーンでは、その都度拍手が起こり、カーテンコールも長く続きました。ちなみに、字幕はステージ両サイドの壁に二ヶ所。公演の小パンフレットは200ルーブル(約400円)でした。

モスクワ『カルメン』大成功の喜び、そして興奮と感動を胸に、ホテルへの帰途につきました。
2日目、3日目の公演も大成功間違いなし!祈念いたします。
まだまだ書き足りませんが、まずはこのへんで♪

From Russia with Love!

こちら(写真特集)も併せてどうぞ♪  (fullmoon)

速報!劇的舞踊『カルメン』にモスクワ熱狂!

モスクワでの劇的舞踊『カルメン』初日の幕が上がり、終演後の劇場に圧倒的な熱狂と興奮をもたらした様子が届いて参りました。さもありなん♪

Noism officialによるインスタグラムの動画です。

こちらもNoism officialによるツイッターです。

そして、金森さんのツイートもご覧ください。

新潟市のNoism、そして日本のNoism。なんと誇らしいことでしょうか!
このあと、現地で初日をご覧になったfullmoonさんのレポートで詳細をお知らせする予定です。ご期待ください。 (shin)

「私がダンスを始めた頃」②  浅海侑加

初出:Noismサポーターズ会報31号(2017年5月)

私が3歳の時、突然「バレエがしたい…」と母に言ったそうです。
バレエを観た事もなければ、周りに習っていた人もいなかったのに、「バレエ」なんてどこで知ったのだろうと・・・また、母は昔バレエを習うことができず、いつか娘に習わせたいと思っていたので、3歳の私が言った言葉にはとても驚いたそうです。

私は見学に連れて行ってもらい、お教室の隅で見学をしていたはずが、急に踊り出したそうです。 これなら習わせても大丈夫だと母は思い、教室に通う事になりました。

音楽が聞こえてくると、どこででも踊り、ふと我に返って恥ずかしくなって、顔を赤らめたり、デパートのBGMに合わせて階段を登ったりしていました。(今でもやっちゃう時があります)

国語の授業の音読や、人前に出て話をするだけで、心臓バクバクになる私が、舞台に上がって、違う自分になったかのように踊れることを不思議に思います。
そのマジックのようなものがあるから、私は、今でも踊り続けているのだと思います。

(あさうみゆか・1992 年愛媛県生まれ)

*2019年7月退団

*2020年9月よりNoism2リハーサル監督に就任