公開リハB日程は金森さん『クロノスカイロス1』、疾走再び!

2019年12月5日(木)12:45のりゅーとぴあ・劇場、メディア各社も多数駆け付けるなか、B日程の公開リハーサルが行われました。劇場内へ進むより以前に、ホワイエから既に、各社ともリハ後の囲み取材を念頭に、予め機材を構える位置を想定して準備を進めているなど、これまでにないほどの念の入れように映りました。

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スタッフから場内へ促されるに際して、この日見せて貰えるのが、金森さんによる『シネマトダンス-3つの小品』のうち、Noism1出演の『クロノスカイロス1』と聞かされ、内心小躍りしたのは私だけではなかった筈です。先日の森さんの疾走する新作リハと併せて観ることが出来るのですから。

で、場内に入ると目に飛び込んで来たのは、濃淡はあるもののピンクで統一されたタイツ姿の舞踊家10人。

その10人、デジャヴかと見紛えるほどにこの日も疾走しているではありませんか。

バッハのチェンバロ協奏曲第1番ニ短調BWV1052。まずは林田さんとカイさん、そこに西澤さん、三好さん、鳥羽さん、チャーリーさん、スティーヴンさん、そして井本さん、池ヶ谷さん、ジョフォアさん。走って入ってきては踊って走り去る10人。挟まれた時間に示すソロ、デュオ、デュエットそして群舞のヴァリエイションが目を楽しませます。

この日は「映像、照明もなく、身体だけで、およそ3割~4割」(金森さん)とのこと。ラスト、音楽が止まったタイミングで、金森さんから「Are you alive?(どうだい、生きてるかい?)」と声がかかるほどの激しい「Run & Halt(駆け足と停止)」の連続。先週創作過程を見せていただいた森さんの『Farben』と併せて「ホントに大変そう!」とは思いましたが、彼らなら魅せてくれる筈、その確信に揺らぎはありません。そして、この2作、同じ「疾走」でも、その趣きやニュアンスなどを全く異にしていますから、楽しみで仕方ない訳です。

最後、金森さんからは走る姿勢やら、リフトの具合やら、ストップした際の頭の位置(向き)やら、主に英語で次々細かいチェックが入っていきました。動きの質がブラッシュアップされ、まだ見ぬ6割~7割が加わった「作品」は物凄いことになりそうです。

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リハーサルの後、金森さんと森さんの囲み取材が行われました。畢竟、質問は活動継続に絡むものが多くなりがちでしたが、金森さんは「作品を発表する際には、先を見据えようとするのではなしに、常にこれが最後の作品になってしまうかもしれないと思っている」など、特段それを誇大視することなく、作り手としての思いを語ることで応じているのが印象的でした。

そして自身の新作3つそれぞれについて、『クロノスカイロス1』は消えゆく時間、『夏の名残のバラ』は齢を重ねて、老いと向き合う舞踊家、『FratresII』は自己と向き合い、どれだけ闘い続けるかがテーマであると紹介してくれたうえで、『クロノスカイロス1』は個々の舞踊家による振付を基にNoismらしい集団性の表現を目指したものであると語り、また、『夏の名残のバラ』に関しては、井関さんが「新潟の舞踊家」として15年間積み重ねてきた踊りを観る醍醐味を味わって欲しいとの思いに力を込めました。

また、今回招聘した森さんに関しては、同世代のライバルとしながら、「凄くエモーショナル。音楽が持つエモーションが森さんのなかで増幅されていく。彼の良さとして。端的に言えば金森穣とは違う。その違いを感じて欲しい」と語りました。

8年振りにゲスト振付家を招き、今までにない映像の使い方をしている等々、これまで観たことのないNoismが見られる、「Noism第二章」にふさわしい新作公演として、クリエイションも最終盤に差し掛かっている様子が和やかなうちに語られました。

新潟公演、埼玉公演ともにチケット好評発売中。また、新潟公演中日の12月14日(土)の終演後にはサポーターズの交流会も開催致します。そちらもふるってご参加ください。

(shin)

A日程の公開リハーサルは疾走する森優貴さん『Farben』♪

前日の朝、白いものもちらついた新潟市中央区でしたが、霜月晦日は時折、薄日も射す曇天。そんな2019年11月30日(土)12時30分、りゅーとぴあ・スタジオBに活動支援会員対象の公開リハーサル(A日程)を観に行ってきました。

この日、見せていただいたのはDouble Bill公演の演目のうち、森優貴さんによる『Farben』から、主にscene 4とそこに繋がるscene 3とのことでした。

「私がダンスを始めた頃」⑫⑬でご紹介した初お目見えのタイロンさん、そして「I❤BRIT」Tシャツを着たスティーヴンさんを含むNoism1メンバーに、Noism0所属となった井関さんも出演する作品を、森さんの指示のもと稽古している、まさにその現場に居合わせるレアな機会でした。

先ず、全メンバー出演(?)のscene 4から。ピアノと弦による楽の音。前景で池ヶ谷さんとタイロンさんが踊るパートから始まり、やがて池ヶ谷さんと井本さんのデュオへ。更に、様々な小道具も数多く登場するなか、刻々とその「中心」を入れ替えながら、徐々にフォーカスは鳥羽さんへと移行していきました。走る鳥羽さん。この部分、森さんは「様々な記憶の断片」「色彩が立ち現れてくる」「ノスタルジー」などの言葉でイメージを語ってくれました。

そしてそれに先行するscene 3。ここは主に井関さんとジョフォアさんのデュエットが中心となるらしく、その背景に鳥羽さんがいるもののようでした。

観た印象を一言で表現するならば、疾走となるでしょうか。フロア狭しと動き、否、走り回るメンバーたち。相当な運動量に滴り落ちる汗。

○○さん、○○ちゃんなど、親しみの感じられる呼び方もする森さんとそう呼ばれる舞踊家たち。両者によって、この日に至るまでに既にあらかた共有されていた作品の「祖型」。それが傍らで自らも動いて示す森さんの身体と、その都度細かく出される関西弁と英語を使った指示で、次々に書き換えられ、更新されていきました。

「最適解」を模索して、やりとりしながら、随所に新たな動きを試してみたりすることも含めて、その様子はあたかも素描に次々、「色(Farben)」が足され、作品全体が彩られていくかのように感じられる光景で、実際、森さんも「It got much better! Much more colorful!(ずっと良くなった!色彩豊かになった!)」と言葉かけを行っていました。

更に言えば、これまでNoismでは目にしたことのないような動きも多く、作品の枠を越えて、舞踊家たちに「色(Farben)」が加えられていくことになるのだろうことも確信されました。その意味では「新生Noism」にふさわしい公演になること請け合いです。

予定された公開時間を5分ほど超過した頃、熱の入った稽古がちょうど一段落を迎え、そこで初めて時間に気付いた森さん、「誰も止めてくれなかったから」。そのタイミングでこの日初めて姿を見せた金森さんに「止めないからさ」と混ぜ返されて、公開リハーサルは終了しました。

来週12月5日には劇場での公開リハーサル(B日程)もありますし、世界初演となる公演まで2週間を切りました。グレー、或いは白といった単色の新潟に、一足早いクリスマスツリーのように、鮮やかな「色(Farben)」を重ねる新作公演のチケットは只今、好評発売中。どんな色に染め上げてくれるのか、その日が待ち遠しい限りです♪

(shin)

私がダンスを始めた頃⑬ スティーヴン・クィルダン

ダンスをした最初の記憶はまだ幼い子どもだった頃、映画のエンドクレジットで流れる音楽に合わせて踊ったこと。それは毎度繰り返されることになり、目にした人はさぞ驚いたことでしょう。

それで母が私を地元のストリートダンスのクラスに入れてくれたのでした。というのも、踊ってはいたものの、リズムをとれてはいなかったからです。

中等教育学校(secondary school)に通っていたときは、生徒たちのダンスグループに入り、よく校内でパフォーマンスをしたりしたものでした。放課後、独学でダンスを学んでいた私たちですが、相談に乗ってくれる助言者もいました。私たち4人のうち3人が後にプロのダンサーになりました。驚くべきことに、最初ただ情熱で動くだけだった私たちが、その情熱を持ち続けることで夢を叶えるに至った訳です。当時、私たちのうちの誰もプロになることなど考えてはいなかったと思います。私たちはそんな選択肢があることを知らなかったからです。

その後、私はバレエを始めました。15歳のときです。それはそれは遅いスタートでしたから、とても難しいものがありました。しかし私はたくさんのことを学び、懸命に練習をしました。

それでもBRIT Schoolに入るまではプロになろうなどと考えたことはありませんでした。このスクールはロンドンにある無償のパフォーミングアーツの学校で、卒業生にはアデル(歌手:1988~)、エイミー・ワインハウス(シンガーソングライター:1983~2011)、ジェシー・J(シンガーソングライター:1988~)たちがいます。そこはまるで映画『フェーム』のようなところでした。

そしてなんとか同じロンドンにあるRambert School of Ballet and Contemporary Danceに入って、その後はご存知の通りです。

プロのダンス・アーティストになって以来、私は多くの信じられないような体験をしてきました。今に至るまで私の可能性を信じてくれた先生たちや人々に心から感謝します。この度、Noism1に加わることによって、私が多くを学べるだけでなく、私のダンスへの情熱を観客の皆さんと分かち合うことができればと思います。皆さんが私のパフォーマンスに反応してくれて、「何か(something)」を感じて貰えることを願っています。

(日本語訳:shin)

以下はスティーヴンさんが書いた元原稿(英語)です。併せてご覧ください。

Stephen Quildan

My first memory of dancing was as a small child dancing to the music at during the end credits of films. It would always happen and people would be so surprised.

My mother then decided to enroll me in local street dance classes because even though I was dancing, I had no rhythm.

When I was in secondary school I joined a group of students who had their own dance group and we used to make performances for the school. We taught ourselves after school and had a mentor who guided us. Out of the 4 of us, 3 became professional dancers. For me what is amazing is seeing that we were simply passionate first and that allowed us to achieve dreams. I do not think any of us were thinking about being professionals at the time, we did not know that it was an option.

After that I began ballet, when was I 15 years old. This is very late to begin so I found it very difficult but I studied a lot and worked hard.

I did not really think about becoming professional until I first got into the BRIT School, which is a free performing arts school in London. Previous alumni included Adele, Amy Winehouse and Jessie J. It was almost like the film ‘Fame’.

After that I managed to get in to the Rambert School of Ballet and Contemporary Dance, also in London, and the rest is history as they say.

Since becoming a professional dance artist, I have had many incredible experiences. I am extremely grateful to all of my teachers and people that have believed in me along the way. I hope that by joining Noism1 I can learn a lot but also share with the audiences my passion for dance. I hope that they will respond well to my performances and get something from them.

(1993年イギリス生まれ)

Noism1メンバー出演! 好天に恵まれたUTOPIAファッションショー第2弾♪

11月24日(日)14時/17時半、新潟市関屋浜 Sea Point NIIGATAで開催された、UTOPIA2020春夏コレクション。

この時期の新潟の海っていつもなら。。。。。

【寒くて荒れている(?)】というイメージなのですが、この日は晴れて暖かく波も穏やか、気温は22度越え!

私は17時半の回に行きましたが、ホントに春夏の陽気で、夜になっても寒くない♪

14時の回はさぞ海がきれいだったことでしょう。

17時頃の海はうっすらと明るく、薄闇の中、会場付近にキャンドルがた~くさん灯っていて、すごくきれいでした(キャンドルは夜だけのお楽しみ)♪

靴を脱いで会場に入ると、通路を挟んで左右に部屋があり、右側は椅子席、左は床席です。通路には階段があります。左右の部屋を行き来してショーが進められるようです。階段や遮蔽物があるため、反対側の部屋の様子はほぼ見えません。

「汽船去る波打ち際」と題されたショー。春夏の海風に吹かれて船中の物語が始まります。

時間になると明りが落ち、照明は青い暗いライトに。夜の海でしょうか。薄暗闇の中、通路の奥からチャーリー・リャンさんと池ヶ谷奏さんが静かに登場し、左右の部屋へ分かれます。聞えてくる音楽はエリック・サティのジムノペティ。置いてあったトランクを持ち、二人は部屋を入れ替わり、トランクを枕にしてしばし横になり瞑想。ほどなくして場内は明るくなり音楽も変わり、池ヶ谷さんとリャンさんは左右の部屋でそれぞれ踊ります。池ヶ谷さんは、紺色の亀田縞のシャツ・パンツですが、半袖シャツの袖部分~背中の一部は五泉ニットのレースが使われています。お米ボタン。池ヶ谷さんは髪を一部赤く染めていてとてもきれいです。リャンさんは亀田縞生成りボーダーの上下です。

そのあと、ジョフォア・ポブラヴスキーさん(生成り上下 一部水色ボーダー、パンツの一部が小千谷縮みか)、井本星那さん(生成り上下、ノースリーブの上に羽織っているのが袖なしの小千谷縮み)、鳥羽絢美さん(黄色の五泉ニット上下、スカートはニットレース)が登場します。

メンバー5名が左右の部屋でそれぞれソロを踊ったので、見ているこちらは大満足♪

井本さん、鳥羽さんはUTOPIAラベルの袋に入ったえびせんをカモメにあげる仕草をしたり自分も食べたり、観客とも少し絡みます。二人ともとてもきれいでかわいらしかったです♪

ジョフォアさんは左の部屋でしばらく横になって、鳥羽さん、井本さんを眺めていたようですが、いよいよ踊り始めると、何か苦しいような、奇妙な動きの踊りを見せてくれました。存在感がありました。

そして、踊りの合間には数人のモデルさんたちが登場して、コレクションを披露します。そのモデルの一人に、なんと新メンバーのタイロン・ロビンソンさんが! 亀田縞の上下、紺色の長めの上着を羽織って、素敵ないでたちでした。

「旅する衣」をイメージしたUTOPIAファッション。今回は陸を離れ海へ。そして次の陸地へ。船に乗り込む人たち。それぞれの気持ちや思いを持って船の中の時間を一人で過ごし、また、他の人たちとも関わります。出会いと別れ。そんな想像や妄想が容易に膨らむ、踊りとファッションで綴る夢のような物語。

最後のシーンは、宴が終わったような静けさの中、再びのジムノペティ。最初と同じ青い暗い照明の中、池ヶ谷さんと(おそらく向こう側はチャーリーさん)がトランクを枕に横になり瞑想しています。

出演したNoism1メンバー5名

会場設定がぴったりでした。

前回の「オドルフク」に続き、大盛況、大成功おめでとうございます!

スタッフが大勢いました。その一人として、西澤麻耶さんもお手伝いしていたので付け加えておきますね♪

また次回、とても楽しみです。

(fullmoon)

新潟日報「窓」欄掲載『ノイズム追い掛ける幸せ』(+鳥取行・補遺)

本日(2019/11/23・日)の新潟日報朝刊「窓」欄に、Noism1『Mirroring Memories -それは尊き光のごとく』鳥取公演を観に行った際の思い出を綴った拙文を掲載していただきました。(因みに投稿時の原題は『ノイズム追いかけ、車で鳥取』。)鳥取での画像ともどもアップ致します。お目汚しかと存じますが、お読みいただければ幸いです。

また、こちら(11/10の記事)もどうぞ併せてお読みください。

素ラーメン(スラーメン)その1
(武蔵屋食堂)
素ラーメン(スラーメン)その2
(居酒屋・小次郎)
名物(とうふちくわ、砂たまご)
と地ビールの夜
すげ笠御膳(鹿野町・夢こみち)
足湯付きバス停♪
(鹿野町・国民宿舎「山紫苑」前)
公演時間までゆったり過ごしたが、
バス停ながら時計は止まったまま…(汗)
バス停付き足湯なのか?(笑)

今は鳥取駅の反対側に
スタバもできてましたけど、
「鳥取」ゆえに先ずはこちらへ(笑)
「砂場」ならぬ砂丘、風紋、足跡、影…

今は「よく行ってこられたなぁ」とも思いますが、ハンドルを握っている間は不思議にハイテンションで、「なんとかなっちゃった」感じです。Noismを観るためならどこまでも運転できるのか、私?(←本当か?(笑))

極私的なゆる~い記事になりました。最後までお付き合いいただき、有難うございました。m(_ _)m

(shin)

和気藹々、全員が喜色満面の井関さんお誕生会(さわさわ会懇親会)♪

今回で6回目となる井関さんのお誕生会(さわさわ会懇親会)が2019年11月16日(土)、新潟市中央区・燕三条イタイリアンBitを会場に開かれました。出席者は井関さんと金森さんを含めて26名。今年も美味しいお料理を囲みながら、和気藹々、笑顔と歓談する楽し気な声がいつ果てることなく続く、それはそれは楽しい宴となりました。

殊に今年はNoism継続問題も片付き、同時にNoism0が始動するなど、嬉しいニュースも重なり、参加された皆さんは一人残らず、喜色満面。心置きなく、お祝いモード全開といった風情でした。

外は雨がそぼ降る新潟市でしたが、この店内は別世界。年に一回、今年も井関さんのお誕生日をお祝いしながら、全員が幸福感に満たされるという贅沢で、得難い時間を過ごしました。

予定時間を延長したお祝い会の最後は、井関さん、金森さんを交えての大撮影大会。おふたりとフレームに納まるのはどれもいい笑顔ばかりでした。「いいな♪」と思われた向きは是非ともさわさわ会にご入会いただき、来年のこの会にご一緒しませんか。素敵な時間が過ごせること請け合いですよ。

(shin)

秋の鳥取・BeSeTo演劇祭/鳥の演劇祭の『Mirroring Memories』(2019 ver.)初日

2019年11月9日(土)の鳥取県は鹿野町・旧小鷲河小学校体育館。鳥取市から鳥取自動車道道を使っておよそ30分。例年ならこの時期、鮮やかな紅葉に囲まれているのだろう山あいの水辺。はるばる新潟から訪れて、観てきました『Mirroring Memories ––それは尊き光のごとく』(2019 ver.)、第26回BeSeTo演劇祭/第12回鳥の演劇祭での初日公演。

個人的には、さして旅好きという訳でもないので、Noismを観ていなかったら、恐らく生涯、足を運ぶこともなかっただろう地、鳥取。更に今年9月に富山県の利賀村に一念発起してシアター・オリンピックスを観に行く選択をしていなかったら、縁遠いままであっただろう地、鳥取。それが、「行ってみるのも面白いじゃない」と考えてしまえるようになり、公演前日の早朝、車で新潟を発ち、約10時間のドライヴで鳥取入りをするなど、以前の私からは考えられないことでした。鳥取に着いてみると晴天で、まだ日も高かったので、小学校の教科書で見た知識の持ち合わせしかなかった鳥取砂丘を訪れ、雲ひとつない青空の下、一足毎、靴が砂に埋まるさえ厭わず、敢えて急峻な斜面を選び、無駄にダッシュで上り下りして、足は上がらないは、息は切れるは、思う存分に「砂丘」を体感する機会を得たのでした。長々と余談でした。スミマセン。

そして迎えた鳥取公演初日、天気予報では下り坂の雨予報。それも公演時間帯あたりが「雨」とのこと。天気を心配しながら、お昼時分に鹿野町に移動してみると、やはり、少しして天気雨に。やがてやや大粒の降りに変わりましたが、さして長く、さしてたくさん降ることもなく上がり、気温が一気に下がることもないまま夕刻を迎えられたのはラッキーでした。

開場直前の様子

午後4時過ぎ、今回の会場となる、かつての小学校体育館脇で料金2500円を払って受付。同じく新潟から駆け付けた顔や、Noismを介して知り合った遠方の友人の顔。そして旧メンバーの浅海さんとご家族。途端にアウェイ感が薄らぐとともに、「いよいよだな」という気分になってきます。

午後5時を告げるサイレンと音楽が山々に谺し、程なくスタッフの指示で入場。正面奥にミラー。その手前、床に敷かれたリノリウムが一番低く、それを階段状に設えられた仮設の客席から見る按配です。満員の客席。私たち知人グループは運良く揃って最前列に腰掛けることが出来ました。そちら、背もたれがないのはいつものこと。演者を間近から見上げることになる席です。そして体育館の床ですから、ただの板張りとは異なります。床下はスプリング構造になっているため、演者が起こした振動が足裏から直に伝わり、こちらの体も共振するような感覚を覚えました。

私をして鳥取まで足を運ばせたもの、それは、2日間限りのキャストを観たいがため。浅海さん、中川さん、シャンユーさん、西岡さんがいなくなり、メンバーが変わって、どんなキャストで、どんな肌合いに仕上がっているのか見逃せないという気持ちからでした。

〈キャストその1〉
〈キャストその2〉

まず、「彼と彼女」、人形(彼女)は西澤真耶さん。白塗りの顔は可愛らしい西洋のお人形さんそのもの、ぴったりの配役に映りました。黒衣のひとりには初登場のスティーヴン・クィルダンさん。彼は続けて、「病んだ医者と貞操な娼婦」と、更に「生贄」「群れ」でも黒衣で踊り、「拭えぬ原罪」からの『Schmerzen(痛み)』において仮面を外して初めて顔認識に至ったのですが、異国の地でのカンパニーに充分溶け込み、違和感はありませんでした。

浅海さん役を引き継ぐのはやはり鳥羽絢美さんです。「アントニアの病」「シーン9–家族」、そしてラストの少女役、どれも彼女らしい弾むようなリズム感を堪能しました。

西岡さんが演じた「Contrapunctus–対位法」を踊ったのは井本星那さん。かつて少年らしく映っていた役どころでしたが、井本さんの持ち味から、女性らしさが拡がっていたように思いました。

中川さんの後を継ぐのは誰か、それが今回の一番の関心事だったと言えます。まずは、「シーン9–家族」の「P」役はNoism2の坪田光さん。当初キャスティングされていたメンバー(タイロンさん)が怪我のため、急遽、抜擢されてのデビュー、頑張っていたと思います。

そして、「ミランの幻影」におけるバートル。中川さんからシャンユーさんへ渡されたバトンを今回託されたのは、チャーリー・リャンさん。共通するのはどこかフェミニンな雰囲気を滲ませる存在感でしょうか。井関さんとの切なく華麗なデュエットですから緊張感も半端なかったでしょうが、若々しいバートルを見せてくれました。

その他、キャストに異同のない部分はどっしり安定のパフォーマンスを楽しみましたし、何度も繰り返し観てきた演目でしたが、このキャストを見詰めるなかで、部分部分に様々な感じ方が生じてくることに面白さを感じる1時間強でした。

終演。緞帳はありません。顕わしになったままのミラーを背に全員が並ぶと、会場から大きな拍手が送られ、2度の「カーテンコール」。山陰のNoismにお客さんはみんな大満足だったようです。

その後、BeSeTo演劇祭日本委員会代表/鳥の劇場芸術監督の中島諒人さんと、簡単に汗仕舞いをしたばかりの金森さんによる短めのアフタートークがあり、中島さんの質問に金森さんが答えるかたちで進められました。

質問はまず、上演作の経緯から始まり、恩師ベジャールとの関係などが紹介されていきました。そのなかで、中島さんがタイトルの日本語訳はどうなるか訊ねると、金森さんは構成のプロセスとも重なるとしながら、「乱反射する記憶」と訳出してくれました。

「劇場専属舞踊団」を糸口にしたやりとりの過程で、金森さんはNoismを「プライベートなカンパニーではない」とし、金森さんに依存せず、次代に引き継ぐ長期的なヴィジョンを口にされ、「新しいかたち、どういったかたちで持続可能なのか、我々に課せられた課題である」と語りました。

場内が笑いとともに沸き立ったのは、話がNoism存続問題に及び、市民への還元が課題とされる状況に関して、中島さんが敢えて「不本意?」と本音に切り込んだ時でした。一切動ぜぬ金森さんはすかさず「それは日本のなかで専属舞踊団を抱えることの現実であり、後世に残るモデルケースを築いていくべく3年間頑張る」と、ここでも新生Noismを感じさせる前向きな姿勢で後ろ向きな心配をシャットアウトした際の清々しさと言ったらありませんでした。その返答を聞いた中島さんも「コミュニティと関わる面白くてクリエイティヴな還元方法を発明すること。アーティストとして見つけることもある」と即座に同じ方向に目をやって応じ、トークは閉じられていきました。

会場から外に出ても、闇が迫る旧校庭にはたちずさむ人たちの多いこと。山陰のNoismが多くの人を魅了したことは言うまでもありません。その場に居合わせることが出来て嬉しく思いました。

(shin)

「私がダンスを始めた頃」⑫ タイロン・ロビンソン

私は常にヒップホップやR&Bが聞こえてくる家庭で育ちました。そうした環境だったからこそリズムや動きに対する興味が芽生えたのだと思います。もしあなたもその場にいたら、いつだって若い日の私がリビングでパフォーマンスに興じていたり、乗り気でない友人たち主演のダンス作品を作っていたりするのを目にすることができたことでしょう。

様々な趣味やスポーツにトライしてきましたが、どれも本当に私の興味を刺激してはくれませんでした。10歳の時、母が初めて私をダンスクラスに連れて行ってくれて、動きに対するこの興味の探究を後押ししてくれるまでは。私は自分が夢中になれる居場所を見つけたのですが、そこからが私の才能と技術への挑戦でした。そこは創造的で、自由であることを求められる場所でした。

私は高校に通っている間もダンスを続けました。私が通っていたのはダンス専門の高校で、そこで初めてコンテンポラリーダンスと出会いました。私はアブストラクト(抽象的)なコンテンポラリーダンスに夢中になり、この魅力的な分野の研究を始めました。他の生徒たちが綺麗な動きやターンの数に執心しているあいだ、私はと言うと、自らの体を地面に投げ出して踊るダンサーのビデオに畏敬の念を抱き、振付における静止の美を見出していました。

ダンスに対する愛と才能はあったと思いますが、それでも私は一度たりともキャリアを考える選択肢として捉えたことはありませんでした。もともと私は建築家になりたかったのです。しかし、不運にも、学校での私の成績ではそれが叶うことは考えられないことでした。私は決して学力のある生徒ではありませんでしたし、単位を落としたことで、最終学年を前にして高校を辞めることになってしまったのです。しかし、ひとりのとても協力的なダンスの先生の励ましと手助けのお陰で、ダンスを学べる大学に進学できました。それは一般的な教育システムによらない道でしたが、従来のシステムには生徒たちがその真の知性や可能性を証明するのに適さない部分もあると身をもって示すことになったと思います。

私はWestern Australian Academy of Performing Arts(WAAPA:西オーストラリア・パフォーミングアート・アカデミー)で学び始めて、学ぶことに対するより強い喜びとともに、歴史におけるダンスの影響と身体に興味を抱きました。また、そこで、他のアーティストとの親密な関係を育み、周囲をインスパイアする助言者から学び、そしてパフォーミングアーツを職業にする可能性を見出すことが出来ました。2011年にダンスの学士号(BA)を取得して卒業すると、私はすぐにオーストラリア国内でフリーランスのダンス/パフォーマンスのアーティストとして様々なダンスの仕事を手に入れ、プロとしての人生を歩み出したのです。

プロとしてのキャリアを始めて間もなく、実演家であるよりも振付家であることに興味を抱いている自分に気付き、実演よりも振付の努力にフォーカスし始めました。しかし、じきにクリエイションの壁にぶち当たることになりました。充分な経験を持たないことは創作のビジョンを形にしようともがくことを意味したのです。振付家として成功するために、振付家としては勿論、ダンサーとも変わらぬくらいにアクティヴである必要がある、そう判断したのでした。振付の方法論の抽斗(ひきだし)を豊かにするために他の振付家とともに働いて、彼らから学びながら。

まだ「若い」アーティストと言ってよい年齢にある私は、世代も人種も社会的な背景も異にする様々なアーティストたちの振付のプロセスを掘り下げ、研究を続けています。特にアーティスト同士であるなら、私たちはお互いから学び合うものはたくさんあると思います。そして私が得た知識が他者をインスパイアする芸術創造に役立つことを願うものです。

(日本語訳:shin)

以下はタイロンさんが書いた元原稿(英語)です。併せてご覧ください。

Tyrone Robinson

I grew up in a household where the presence of hip-hop and R&B music could always be heard. I suppose this is where my interest in rhythm and movement began. You could always find a young me preforming in the living room, and directing choreographed dance pieces staring my reluctant friends.

I had tried different hobbies and sports but none ever really sparked my interest. It wasn’t until my mother encouraged me to explore this interest in movement by taking me to my first dance class at the age of ten. I had found a place that catered to my love of attention but still challenged my abilities. It was a space to be creative, it was a space to be free.

I continued dance throughout high school, where I attended a specialist dance high school. This was my first contact with contemporary dance. I had become enamoured with contemporary & abstract dance, and began doing my own research into this fascinating sector of the dance world. While other students were obsessing over pretty movements and how many turns they could do, I was in awe of the videos of dancers throwing themselves at the ground and finding the beauty of stillness in choreography.

Although I had the love and talent for dance I still never thought of it as being an eligible option for a career. I had originally wanted to be an architect, unfortunately my grades in school were never going to allow that to happen. I had never really been an academically strong student, and with failing grades I dropped out of high school before my final year. But with the encouragement and help from one of my very supportive dance teachers, I found myself in University studying dance; circumventing the educational system, and proving that most archaic educational systems do not allow students to show their true intelligence and prove their potential.

I began to study at the Western Academy of Performing Arts, finding a renewed joy for learning and an interest in the effects of dance on history and the body. It was there where I fostered close relationships with other artists, learnt from inspiring mentors and discovered the possibility of a career in the performing arts. I graduated with a Bachelor of Arts in 2011 and began my professional life immediately, securing various dance jobs as a freelance dance/performance artist, in Australia.

It didn’t take long after beginning my professional career, that I realised I had more interest in being a choreographer than a performer. I began to focus more on choreographic endeavours, and less on performing. Yet early on I found myself hitting creative walls, and not having enough experience meant that I struggled to see my creative visions come to fruition. I decided that in order for me to be a successful choreographer I needed to stay as active as a dancer as I am a choreographer; working with and learning from different choreographers to build my arsenal of choreographic methods.

At an age where I would still consider myself to be a “young” artist, I continue my research, delving into the choreographic processes of different artists of various generational, racial and social backgrounds. I believe we have a lot to learn from each other especially as artists, and I hope the knowledge I gain will help me create art that inspires others.

(1992年オーストラリア生まれ)

何回も見なければいけない『マッチ売りの話』+『passacaglia』

山野博大(舞踊評論家)

初出:サポーターズ会報第31号(2017年5月

 Noismが《近代童話劇シリーズ》の第二作『マッチ売りの話』を『passacaglia』と共に初演した。2017年1月20日に本拠地りゅーとぴあのスタジオBで初日の幕を開け、2月9日からは、彩の国さいたま芸術劇場小ホールで上演した。新潟に戻っての再上演の後にはルーマニア公演の予定もある。日本における創作バレエの初演としては、異例の上演回数だ。

 『マッチ売りの話』も金森穣の演出・振付を、井関佐和子らNoism1の主力メンバーが踊る中編だった。アンデルセンの童話と別役実が1966年に早稲田小劇場のために書き岸田国士戯曲賞を受賞した不条理劇『マッチ売りの少女』の両方が、金森の舞踊台本の背景となっていた。

 《近代童話劇シリーズ》は、第一作の『箱入り娘』もそうだったが、子どもに語って聞かせるとすぐに理解してもらえる童話の舞踊化である『眠れる森の美女』『シンデレラ』『白雪姫』『オンディーヌ』などのようには出来ていない。『マッチ売りの話』も別役の不条理テイストで濃厚に色づけされていた。論理的に説明したり理解したりしにくい状況の中で、登場人物が意味不明に近い出会いや動きを繰り返した。公演パンフレットに書かれた配役(それぞれの年齢が細かく指定されている)の横に「疑問符の相関性」という但し書きがあり、そこに「少女は老人夫婦の孫である?」「少女は女の20年前の姿である?」「女は娼婦の20年後の姿?」などの「問いかけ」が列記されている。これを読むと、舞台上で演じられている出来事の不可解さがいっそう増すことになる。

 ストーリーの展開がよく理解できる舞台や小説が、じつは何が起こるか先のことは何も判らない世の中の現実と似ても似つかない絵空事であることを、ベケットの『ゴドーを待ちながら』やイヨネスコの『犀』、別役実の諸作品に接してしまった私たちは知っている。それを舞踊でやっているのが金森穣の《近代童話劇シリーズ》なのだ。

 まず巨大なスカートの上から客席を見下ろす精霊(井関佐和子)の姿を見せる。次いで出演者全員が面をかぶり、凝った作りの衣裳をまとって細かくからだをふるわせたりする動きを見せ、個々の人物を表す。そこで提示されたドラマの断片のひとつひとつは、踊りとして緻密に仕上げられていた。「童話」のバレエ化だったら、かわいそうな少女に焦点があたるはずなのだが、いくら待ってもそのようなことにはならなかった。

 精霊が登場して、舞台に置かれた装置を片づけるように次々と指示を与えると、舞台上はきれいさっぱり。ダンサーたちも面を外し衣裳を変え、抽象的な動きによる『passacaglia』を踊る。前半のドラマの断片を連ねたような『マッチ売りの話』とはまったく別の世界が広がった。観客は、ここで初めて「舞踊」を見たという安心感に浸ることができたのではないだろうか。それと同時に前半の舞台の不条理性への理解が心の中にじわじわと広がってくることを感じたに違いない。

 しかし一回見ただけでは、この実感を素直に受け入れる心境にはなかなかなれないことも事実。『ゴドーを待ちながら』は、何度も見ているうちに、だんだん何事も起こらない舞台を平気で見て、楽しめるようになる。『マッチ売りの話』+『passacaglia』では、それと同じような或る種の「慣れ」が必要だ。何回も何回も見るうちに、不条理な現実世界に立ち向かえる勇気が身内に湧き起こってくると思う。

サポーターズ会報第31号より

(彩の国さいたま芸術劇場小ホール)

井関佐和子が踊った『Liebestod-愛の死』

山野博大(バレエ評論家)

初出:サポーターズ会報第32号(2017年12月)

 2017年5月26日にりゅーとぴあで初演された金森穣の新作『Liebestod-愛の死』を、6月2日に彩の国さいたま芸術劇場で見た。これはワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』をベースにして創られた、男女二人だけの踊りだ。井関佐和子と吉﨑裕哉が踊った。金森はこのデュエットが『トリスタンとイゾルデ』の舞踊化であるとは言っていない。しかし見る側が、ワーグナーの音楽を聞いてかってに想像をふくらませることを予測して振付けたに違いないと私は思った。

 妖しい「トリスタン和音」が彩の国さいたま芸術劇場の大空間に響き渡る。タッパの高い舞台の背後には、滑らかで重厚な質感の幕が丈高く吊られている。この幕が物語の展開に重要な役割を果たす。舞台には、コーンウォールを治めるマルケ王に嫁ぐために船に乗るアイルランドの王女イゾルデの姿があった。王の甥であるトリスタンが彼女の警固役としてつき従っているのだが、この二人は恋に落ちてしまう。イゾルデは、トリスタンと共に死ぬことを決意して、侍女に毒薬を持ってくることを命ずる。ところが侍女の持ってきたのは「愛の薬」だった。船がコーンウォールに着くまでに、二人の愛はいっそう深まっていた。

 マルケ王に嫁いだイゾルデのところへ、王が狩に出た隙をねらってトリスタンが忍んでくる。イゾルデと愛を語り合うところへ王が……。王の忠臣メロートがトリスタンに斬りかかる。トリスタンは自ら刀を落とし、メロートに斬られる。このあたりはほとんどトリスタンひとりの演技で処理されている。瀕死のトリスタンは背景の幕の下に転がされ消えて行く。

 残されたイゾルデの嘆きの踊りとなる。井関が背後に高く吊られた幕を手でたたき、幕を波打たせると悲しみの輪が幾重にも広がり、それが嘆きの感情を表した。イゾルデが前に進み出て死の決意を示す。その直後に背後の幕が落ちて彼女の姿を覆い隠す。その幕の下で二人が立ち上がる気配があり、あの世での愛の成就を暗示して作品は終わる。井関の渾身の演技が深く心に残った。

 かつては、すべての振付者がバレリーナのことを目立たせるために、あれこれと演出を考え奉仕するのが常だった。しかし、しだいに振付者の地位が高まり、作品の創造ということに舞台の重点が移ってきた。それに伴って、近年ではバレリーナの方が振付者のためにがんばることが普通になっている。

 井関の踊る金森作品を私はずっと見てきたが、常に井関は金森の作品の完成のために力のすべてを注ぎ込んでいた。彼女は自身の舞踊生活について「Noism井関佐和子 未知なる道」という本(2014年・平凡社刊)を出しているが、その中でも金森の作品のためにどうしたら役に立てるかということを、繰り返し書いている。例えば「舞台の上では“井関佐和子”ではなく、誰も見たことのない“カルメン”を見せたい」というように……。

 しかし『Liebestod-愛の死』における金森は、バレリーナ井関佐和子をまず観客にアピールすることを第一と考えて作品に取り組んでいたと私は思う。井関の方は今までと変わらず“井関佐和子”ではなく、誰も見たことのない“イゾルデ”を見せようとがんばっていた。その結果は、バレリーナと振付者の力が合体して1+1=2以上の大きな結果をもたらすことになった。

 金森が、この作品を『トリスタンとイゾルデ』のバレエ化だと言わなかったのは、井関が“井関佐和子”のままで踊ることを望んでいたからではないか。全体の構成、細部の振付も、イゾルデの感情描写にウエイトをかける一方、トリスタンの方は背景と一体化して見せるという、明らかに均衡を失した配分がなされていた。『Liebestod-愛の死』は、井関佐和子のイゾルデでしか見てはいけない愛のデュエットだったのだ。

サポーターズ会報第32号より

(2017年6月2日/彩の国さいたま芸術劇場 大ホール)